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駒場寮廃寮問題 1990~2002

25.駒場寮廃寮問題

東京大学駒場キャンパスには、全寮制の旧制第一高等学校があり、戦後、旧制高等学校制度は廃止となり、旧制一高は、東京大学教養学部の前身となった。東京大学に入学するすべての1,2年生は、駒場キャンパスで大学生活のもっとも新鮮な2年間を送ることになる。
現在では、銀杏並木の続く正面には、コミュニケーションプラザと呼ばれる大きな中庭を挟んで美しい建物が建てられており、北館には、生協購買部や書籍店、2階以上は学生の課外活動や身体運動科学をはじめ授業にも利用できるフロアーが並んでいる。南館には1000人を収容できる食堂やレストラン、活動フロアーがある。中庭を挟んだ南側には総合図書館があり、東側には和室のサークル活動建物がある。またその東側には多目的小ホール、その隣にはキャンパスプラザと呼ばれる学生のサークル部屋が集まった建物がある。
これらの建物が建てられる以前には、この広大な敷地の中に、明寮、北寮、中寮、があり、その奥には大きな厨房と煙突をもった1000人が一度に食事ができる寮食堂、のちにその一角を間仕切りして作った駒場小劇場、さらにその左手奥には独立した建物として大きな浴場があった。これらの施設すべて含めて駒場寮と呼ばれ、駒場寮にかかわる敷地面積はおよそ1万坪に及んでいた。この敷地内には「第一研究室」と呼ばれた南寮の建物もあった。
 1990年頃、これらの建物は老朽化しており、修理や改装のためのお金も国からわずかしか出してもらえず、教養学部の少ない予算をつぎ込みながら、学生の厚生福利のための駒場寮施設を維持してきた。老朽化したとはいえ、駒場寮の寮費はきわめて安く、キャンパスに住むことの利便さもあって、泊りがけのサークル活動などにはもってつけの施設であった。しかし、実際に住居として利用し、生活の基盤とするにはあまりにもすべてが旧態すぎる内容であった。もちろん、お金をかけて手入れをしていけば充分に使える建物であったが、文部省の方針として、大学紛争の轍を踏まないために、学生が寮自治を唱えるような学内寮には、予算をつぎ込まないことになっていた。そのため、どこの大学の寮も著しく汚く、また老朽化が激しかった。キャンパス内に位置する学生寮に対しては、どれほど老朽化していても文部省の予算は下りることがなく、大学内で何とかやりくりして学生寮の維持を図ってきた事情がある。特に駒場キャンパス内にある学生寮である駒場寮について、教養学部はその維持に多大の努力を図ってきたが、すべての施設が老朽化すると、漏水や配管の故障、電気系統の故障など、さまざまな部分で不具合なことがたびたび生じていた。こうした事情は、教養学部が管轄する三鷹市にある三鷹寮の場合も同様で、壁が崩れ落ちる事態が生じてやっと修理費が出来るという誠に貧困な状況であった。
 学生寮自治会と大学とは、第8委員会が窓口となり、寮生たちの要望を汲み取ってきたが、そのほとんどが寮生達から出される環境の改善に関するものであった。また「水光熱費の負担区分」といって、文部省が出した「利益者負担」の原則にも激しい抵抗を示した。「教育の機会均等」を旗印に、経済的に貧困な学生が勉学を続けられるように生活費が出来るだけかからないことをもとめていた。
また、寮生たちは、「入退寮権」というものがもっとも大事だと考えており、寮に入る学生たちの選考を自分達で行うことにこだわりを持っており、「寮自治」を行うことに大きな誇りを持っていた。特に政治的な活動や宗教活動に対しては、非常な警戒感を持っていた。当時は、原理研究会やオーム真理教のリクルートもキャンパス内で盛んに行われていた。警察権力にはアレルギーといえるほど敏感であった。警察も、公安関係で、駒場寮は目黒署管轄では重要な注目拠点であった。入学試験の時は「かまぼこ」と呼ばれる装甲車が必ず駒場東大前の階段横に待機していた。
警察官がキャンパス内に入る時には、必ず寮委員会の了解を得なくてはならない約束事があり、大学は忠実にこの約束事を守ってきた。この「寮自治」がしっかりしている時は良いが、やがて形骸化する場面も見られるようになる。

 その大きなきっかけとなった事件が1989年の「風の旅団」事件である。「風の旅団」と称する劇団が各地でテントを張って公演活動を行ってきた。この公演を駒場キャンパスで有料で行うということを、大学の許可なく決め、強引に強行しようとした。大学構内では、有料の公演は行ってならないことになっていた。この問題の解決には第6委員会(学生問題担当)と第8委員会(寮問題担当)が合同であたったが、もし公演を強行するならば、機動隊を学内に導入して寮に泊り込んでいる風の旅団のメンバーを排除することもやむをえないという段階にまでエスカレートした。公演の予定の前日の夜、機動隊が駒場キャンパスの出入り口周辺を警備目的のために出動した。
この段階になって、風の旅団のメンバーは、自主的に寮から退去していったが、この事件での小競り合いで3人の学生が逮捕された。時の学部長は青柳 晃先生で、「寮の存続問題」を真剣に考えるきっかけとなった。第8委員長は体育科の渡辺 融先生で、私はわけのわからないまま渡辺先生の手伝い兼護衛ということで、学生課の建物にはいって連絡や構内の見回り役などに当たった。昼間には、数学の岡本 和夫先生が、ネクタイと襟首をつかまれながら公演推進派の男に締め上げられるといった暴力的現場も目にした。校門付近では、中国語の刈間文俊先生が、大きな身体で双方の勢力の間に入って頑張ったようである。
 この頃、世の中の流れは「国際化」と「情報化」に傾いていた。文部科学省は「10万人留学生受け入れ方針」を発表して、外国人留学生を大学に招き入れる体制作りを支援していた。1988年には、三鷹の土地が不効率利用地であるという会計監査院の指摘があり、有効活用しなければ国が取り上げるという姿勢が示された。すでに敷地の一部は道路用地として三鷹市に移管されており、何もしないでいるならば、使われていない土地も取り上げられる可能性は極めて高いと考えられた。
 そこへ、学生課長の後藤さんが、小耳に挟んだ情報として、「留学生のための宿舎が不足しているので、文部省は、留学生の宿舎を建設することには積極的である。三鷹に留学生の宿舎を建設したらどうか」という意見を持ってきた。そこで「留学生と日本人学生を混住させた形で宿舎建設を要求すれば、老朽化した宿舎を建て直すことが可能であるし、学生達にも良い住環境を与えることが出来る」と学部長室は考えた。これで三鷹寮の問題は解決できそうであるが、「駒場寮はどうするのか」という難題が生じてきた。時の学部長であった原田義也先生は、「三鷹寮の問題と駒場寮の老朽化問題を一気に片付けてしまおう」という豪腹な案として、「日本人と留学生を混住させる1000人規模の国際学生宿舎を三鷹に建設し、三鷹寮と駒場寮の寮機能は廃止する」ということを考えた。これには駒場寮の寮機能の廃止が盛り込まれているが、廃止されるのは「宿舎機能」であるので、とりあえずこうした方針で教授会の了解を取れないかということになったようだ。1991年10月の臨時教授会にこの提案がかけられ、学部長室の提案が了承された。後に、「寮の存続にかかわる重大な問題を事前に寮自治会に知らせることなく教授会で決定された」、ということが駒場寮問題の大きな争点となった。この教授会は「学部長室の方針を了解した」、ということで決定したというわけではなかったが、最後まで学生は「東大確認書違反だ」という認識を持っていた。
東大確認書とは、1969年1月に東大紛争を終結させるために、学生団体と東京大学加藤一郎総長が秩父宮ラグビー場で署名した「大学と学生自治会との調印文書」のことである。
大学と教養学部学生自治会との交渉の席では、学生自治会の代表が「この交渉は東大確認書に基づいて行われるものであることを確認します」、といった決まり文句が宣言されてから、交渉や話し合いに入るという状況であった。この確認書には、「学生の処分は行わない」「学生に重大な影響を及ぼすことがある場合には、事前に学生団体に知らせること」といった内容が含まれていた。

三鷹国際学生宿舎建設計画については、教授会にこの議題がかかる前に、学生部の職員が寮自治会の委員長に連絡を取っていたが、上手く連絡が取れていなかったという状況もあったようだ。これまでも、教授会の内容などは、学生自治会親派の教官によって、学生に流れており、また、必要な情報は学生課を通じて流れていたが、学生の方も臨時教授会でいきなり寮問題にかかわる方針が了承されるとは考えてもいなかったようだ。
 この教授会の方針が決められてから、三鷹国際学生宿舎の建設とそれともなう学生対応の任務にあたるメンバーが選ばれた。通常の委員会のメンバーは任期制であり、しかも教室から選ばれて委員になる手続きであるが、このたび新設される「三鷹国際学生宿舎特別委員会」は、学部長指名の特別な委員会で任期は定めないというものであった。当時は5科体制であったので、人文、社会、自然、語学、体育からそれぞれ委員を選び、さらに適任者を指名するというものであった。人文社会から小寺 彰助教授(法学)、自然から生井沢 寛助教授(物理)、語学から刈間文俊講師(中国語)、体育から小林寛道教授(体育)、数学から堀川 穎二教授、そして委員長適任者として永野三郎教授(情報)が指名された。委員長は永野三郎教授と決められていたが、副委員長には小林寛道と堀川 穎二の2名が教授であるという理由だけで指名された。私は、なぜこうした役回りになったのか、あまりわけがわからないままであったが、原田学部長の後日談では、渡辺 融先生と浅見俊雄先生の推薦でメンバーになったのだそうだ。
そもそも名古屋大学から東大に移ったのが1986年であり、教授に昇進したのが1990年である。寮問題の学生対策などというものには全く縁がなく、運動部の学生の世話をやく方がよほど性にあっていた。事実、陸上運動部の監督に就任し陸上部の面倒をみており、(財)日本陸上競技連盟科学委員長として、91年世界陸上選手権東京大会や1992年バルセロナオリンピック対策に取り組んでいたときである。シーズン中は試合や大会で、ほとんど休みなどはない毎日であった。駒場の学内事情などは全くわからず、本来ならば、駒場にもっと古くからいる先生方に、こうした役割が回ってよいはずであると思った。
特別委員会が結成されると、この委員会が学生との交渉の窓口になった。対象となるのは、いわゆる一般の学生、駒場全体の学生自治会、三鷹寮自治会、駒場寮自治会、学友会、学生会館運営委員会、その他の学生自治団体であった。交渉の段階で、最初に問題とされたことは、「手続き論」である。「なぜ学生自治団体に知らせずに、寮の存続にかかわる重大な問題を教授会が勝手に決定したか。これは東大確認書違反である」ということであった。大学側の論理は「文部省に概算要求することの方針を決めただけである」という主張である。「概算要求事項は、ある種の秘密事項である」といった内容のやり取りが延々と続いた。「これが最終決定ではなく、学生の強い反対があれば、この計画は中止する」ということを繰り返し説明した。
1991年の12月には、国会の予算案が可決され、三鷹国際学生宿舎の建設予算が「袋に入ったらしい」という情報も伝わり、やがて92年度の予算として計上されることになった。文部省や大学事務局では、予算はついたものの「本当に計画が実行できるのか」と心配する向きも強く、「予算を返上する」ということまで真剣に考えられた。なぜなら、「学生の反対を本当に説得できるのか。途中で学生の反対が強くて出来ませんでは困った状況になる」ということだった。一度ついた予算を返上すれば、今後10年間は関連の予算はつかない、とも言われていた。予算がついたものの、これを実行できるか否かは、ひとえに「特別委員会」の働きにかかることになった。「学生の反対を少なくし、納得させる」という困難な仕事には、とにかく時間をかけてあたらなければならなかった。

これが、駒場寮問題の始まりであった。
1991年12月に、全学生の1割を抽出してアンケート調査をおこない、計画に賛成が72%あった。
1992年10月に、三鷹国際学生宿舎第一期工事に着手。
1993年5月に第一期工事完成(175室) 三鷹寮生全員が入居。三鷹寮廃寮。駒場寮生にも入居を勧めたが、入寮希望者はいたものの、結果的には転居者はいなかった。
1995年までに、605室が完成。駒場寮生全員を収容できる規模となった。
1995年3月末をもって、駒場寮入寮募集の停止、1996年3月末をもって駒場寮を廃寮する旨を学生、駒場寮自治会に通知し、東京大学評議会での廃寮期日が決定された。
1996年以後も、寮自治会は「自主入寮募集」をおこない、その後も学外者や支援者、学外グループに寮建物を利用させて、廃寮反対運動を展開した。
1996年2月に廃寮にともなうサークル活動の場を補償する意図で、廃寮後の跡地に建設予定のキャンパスプラザが出来るまでの代替措置としてプレハブの仮サークル棟を建設しようとしたところ、実力での妨害活動が行われた。工事トラックの進入を阻止しようと、きわめて危険な行動をする学生もあらわれた。これがプレハブ攻防戦といわれるのもので、連日、多数の教職員が交代で工事現場の警備と説得にあたった。結局「このプレハブは、廃寮問題とは無関係である」という特別委員会と寮自治会の了解の下で、工事が進められることになった。ガードマンなどが全くいない状態であった。駒場キャンパスでは、ガードマンさえ学内に入れることを躊躇された時代であった。
1996年4月8日に、駒場寮建物への電力供給を停止。寮生は、プレハブ棟から電力を寮建物に引きこんで電力を利用した。学部は、6月に電力の引き込みに利用されているコードリール約40本を撤去、回収した。このこともあって、寮生の行動は過激な方向に進んだ。学外者の暴力的な行動もめだってきた。特別委員会と学生自治団体との話し合いも、この頃までに400回をこえていたが、解決のめどはつかなかった。しかし、話し合いを繰り返すうちに、ものごとの道理がわかる学生もいて、徐々に学生の間でも意見が分かれ、分裂や学生同士のなかで廃寮反対の戦い方に、路線の違いが見えてきたようであった。大学の方針を理解し、大学と路線をあわせようとするグループと、学外勢力や政治勢力、さらにマスコミを味方につけて、大学のやり方に徹底抗戦する姿勢を計画的におこなおうとするグループに分かれ、やがて、もっとも強硬派が主導権を握るようになった。この意味では、解決の糸口が見えないといわれながら、400回以上の話し合いは、無駄ではなかったのである。
 原田義也学部長の任期が終わり、蓮實 重彦学部長が誕生すると、蓮實学部長は、「寮生と一緒にソフトボールでもやろうや」という呼びかけに応じて、教職員チーム、三鷹国際学生宿舎チーム、駒場寮チームに分かれて、駒場のグラウンドでソフトボール大会がおこなわれた。この時は和気あいあいの気分も味わえた。このときの駒場寮委員長は岡本君であった。その後、もう一度検見川総合運動場で、特別委員会と駒場寮自治会との話し合いを含んでソフトボール大会をおこなった。しかし、こうした駒場寮委員会が学部と仲良くしながら、将来の方向を話し合うという岡本路線に激しく反対した廃寮反対徹底グループとの確執が生じ、結局、強硬派が岡本派を追放する形になってしまった。
駒場寮廃寮が決定され、すでに「廃寮」とした建物に、教職員の「説得隊」がたびたびはいって学生の説得につとめる共に、寮内の実情を調べた。外部者の利用も多くおこなわれていた。
 1996年度予算として認められたキャンパスプラザの建設には、明瞭を取り壊す必要があり、6月に市村宗武学部長の決断により、法的措置をとることが教授会および大学評議会で決定され、9月には、東京地方裁判所による占有移転禁止の仮処分が執行された。法的措置をとるに至るまでには、大学がどこまで努力したかという事実が裁判所によって認められなければならないという。そして、どうしても法的措置をおこなわなければならない必然性と充分な下準備がなければ、裁判所は動いてくれないのだという。そのためには、膨大な資料を用意しなければならなかった。法律チームの小寺 彰教授、道垣内 弘人助教授、学生課長の右松鉄人氏、特別委員会では、生井沢 寛先生の働きが目覚しかった。法的措置といっても、その前途は多難であった。
 
永野三郎委員長は、1994年に評議員に選ばれた。永野先生の後釜として、私が委員長に指名され、生井沢先生が副委員長になり、新しくドイツ語の池田信雄教授が広報担当の副委員長として加わった。また、学生委員会委員長をおえた玉井哲夫教授(情報)が学生に対する対応が出来る人として、特別委員会の人になった。当時、心理学の人気教官であった下條信輔助教授も快く特別委員会のメンバーになってくれた。その1年後には大貫 隆教授(古典語)、吉岡大二郎教授(物理学)が加わった。
私は、委員長になっても、教授会の報告は永野先生に行ってもらうことにした。永野先生の説明は、誠に明快で、多くの人を納得させるものがあった。いよいよ実力行使の段階に入ると、私は「悪役」にならなければならなかった。そして、もっとも悪役は生井沢先生が引き受けてくれた。永野先生は、三鷹国際学生宿舎を建設に導き、三鷹寮廃寮を円満に導いた「良い特別委員会の顔」として、学生にも学部内にも印象ができている。この印象を傷つけないように常に配慮した。評議員は年2回の定例学部交渉の時以外は、学生とは直接交渉しないので、重大な決定をしなければならない時には、下準備が出来るまで控えの部屋に待機してもらい、最終的に「評議員の永野先生にご決断願う」という図式を作っていった。私が委員長になった時は、三鷹の入居が順調に始まっており、今度は、駒場寮を実質的に廃寮に追い込むといった、学生の側から見れば「悪役としての特別委員会」にならなければならなかったのである。
 数々の事件が次々に起こった。放火が何件も起こった。最初は、中寮の東玄関、次に学生課の入っている5号館となりのサークルのプレハブ棟(全焼)、北寮の東玄関付近、そして寮食堂(ほぼ半焼)が不審火であった。これまでも他大学の寮問題は、火災によって解決している。名古屋大学、東京工業大学、その他の場合も、突然不審火に見舞われるのである。
特別委員会は、こうした不審火からも寮生を守らなければならなかった。夜中に寮の奥の見回りを行ったこともあった。特別委員会にとって寮生は敵ではなく、いくら寮生達に罵倒され、暴力的な行為をうけても、彼等の生命や立場を守ってやらなければならなかった。私は、駒場キャンパスに隣接した場所に部屋を借り、いつでも緊急時に出動できるように備えた。町田市の京王線沿いに自宅はあるのだが、夜中に帰宅し、早朝に家を出るといったことが続いて、時間の節約は、通勤時間をなくすること以外になかった。もちろん、学校の近くの借り部屋にいつも泊まっているわけではなく、自宅にも頻繁に帰った。しかし、このことによって、夜10時頃に特別委員会の話し合いが終わっても、研究室で夜中過ぎまで仕事をすることができた。とにかく、特別委員会の仕事ばかりでなく、他にもいろいろな仕事を抱えていたので、絶対的な睡眠不足の日が続き、会議ではよく居眠りをした。第一委員会という大事な委員会でもイビキをかいて居眠りをしてしまったこともあった。教授会でも良く居眠りをした。こんなことでは委員長の役目は務まらないが、どうにも眠くて我慢が出来ないのである。    学生課の一室で行う特別委員会では、方針をめぐって時には怒号が飛び交うほど議論を続けたが、こんな時にも居眠りがでて、議論がようやく終盤になってなんとなく目が覚めて、「このようにしましょう」と提案すると、みんな賛成してくれた。いろいろの議論や意見の違いはあるが、最終目標がしっかりしているので、話はまとまりやすい。ある時には、全員が悲観的な気持ちに追い込まれることがある。しかし、そんな状況でも「小林先生が出来るというと、そんな気がしてくる」といわれるように、気を取り戻してくれる場面がいくつあった。
時々の判断は、「現場の長である委員長が決断する」という流れも出来てきた。副委員長の生井沢先生が、私の判断を尊重してくれて、「小林先生がおっしゃる通りにやりましょう」といつも言ってくれ、反対意見を持つ人を説得してくれた。刈間先生は、いつも「委員長のおっしゃるようにやります」という態度だった。私に求められたものは、どんなに難しい局面に出会ったときでも「判断を誤らない」ことだった。だから普段、会議で居眠りばかりしていても、いざという時の「判断を誤らない」ということだけは心がけていた。あとは仲間の先生にお任せすることが多かった。
教授会の一部のメンバーのうち「特別委員会は寮生にもっと厳しく対応しろ」「機動隊を導入して、早く寮問題を終わらせろ」という意見を持つ理系の教官もいた。「フェンスで寮をかこみ、早く追い出せ」という意見を学部長に直接進言した有力教授もいた。寮問題ごときで、大切な研究時間がとられることに我慢が出来ない教官の気持ちも理解できた。こうした内部のさまざまな意見にも耐えていかなければならなかった。後に、こうした教官で、「特別委員会のやり方は正しかった」といってくれる人もあるが、結果の評価ではなく、難しいのは途中経過なのである。
 特別委員会の方針は、「機動隊を導入しないで解決する」ことを基本にした。特別委員会が日常的にどれほど活動しているのか、学部長室の補佐になって初めて知ったという若い助教授の先生もいた。
駒場寮問題は、あらゆる意味で、東大紛争の最後の終結だったと位置づけることが出来る。もし、1969年ころ、我々のような「特別委員会」が本郷の本部に存在したならば、あれほどの犠牲とその後に続く深く長い後遺症を残さずにすんだことだろう。

駒場寮廃寮問題については、初代の三鷹国際学生宿舎特別委員会永野三郎教授が執筆された「三鷹国際学生宿舎の建設と駒場キャンパスの再整備計画」(駒場の50年:東京大学総合文化研究科 発行)に詳しくその経過が記述してある。この問題に一応の区切りが付いた2002年には東京大学の学内公報の特別号が発刊された。
学内広報の最後の頁に、小林寛道委員長の文章が載せられた。ここでは、その文章をもとに、2007年の新しい状況を少しだけ加えて、その原文を生かした形で記録にとどめておきたい。駒場寮問題については、あまりにも多くのことがあって一冊の本が出来そうでもある。しかし、立場が異なるとさまざまな評価が生じるので、じっくりと真実の内容を描くのは、もうすこし先の時期にしたほうが良いようにも思う。

『「駒場寮廃寮問題」はあしかけ11年間にわたって持続した。 この歳月は、学内外を含めて大きな苦しみをともなうものであった。それは、単に長期間かかったという時間的な問題だけでなく、日々の内容や展開、様々に生じる事柄や事件にたいする対処対応においても、極めて密度の濃い苦悩をともなうものであった。初期には、不審火と見られる火事もたびたび生じた。
 問題解決の糸口にふれそうになっては、またそれが断ち切られるという場合も少なくなかった。結果として、「10年もかかってしまった」というところであるが、「こうした問題は10年はかかるものですよ」という達観めいた意見もきかれる。ともあれ、問題の大きさと、それにからみついたさまざまな複雑性の故に、問題解決には10年の歳月が必要であったということなのであろう。
 この間、問題解決や、折々の局面打開にあたって、駒場キャンパスの教職員が費やした時間とエネルギー、および精神的肉体的負担はとても通常のものさしでは計りきれぬほどのものであった。
 6代にわたる学部長室を、教授会、パーマネントメンバーによって構成された三鷹国際学生宿舎特別委員会、有志教官による拡大特別委員会(約140名)、学生委員会および事務職員組織が支え、総長室、大学本部事務局の支援のもとに、数理科学研究科と一体となって対処した「駒場寮廃寮問題」は、まさに歴史的なプロジェクトであったといえる。
 駒場キャンパスには、旧寮跡地にキャンパスプラザA、B棟、多目的ホール(C棟)が建てられ、学生達の利用が盛んである。周辺にはシャワー棟、柏蔭舎(伝統文化活動施設)が建てられた。2003年には、新図書館が建設され、廃寮が完成した後の2005年にはコミュニケーションプラザ北棟、2006年にはコミュニケーションプラザ南棟が完成した。コミュニケーションプラザの中庭には、旧駒場寮の部屋の柱のあった部分に光を発する窓が地面に設けられ、往年の寮建物の勇姿を髣髴させる演出も施されている。21世紀をになうにふさわしい大学のあり方をすすめる上で、駒場キャンパスは、その可能性を拡大したということができよう。
 これまで御苦労いただいた歴代の学部長、事務部長をはじめ、御協力、御尽力いただいた多くの教職員の方々に深く感謝申し上げるとともに、特に第一線でこの問題に取り組まれた評議員、学部長特別補佐、三鷹国際学生宿舎特別委員会、法律担当の先生方について、お名前をあげてその労をねぎらいたい。また、歴代の学生委員会委員長、委員の先生方、および学生との直接的な対応窓口となり、特別委員会や学生委員会の活動を支えてくれた学生課長、課長補佐をはじめ学生課職員の方々の昼夜を問わぬ長期間の献身的な御尽力があったことを銘記し、ここに深甚の謝意を表したい。』
(敬称略)
歴代学部長 原田義也(平成3~5年2月)、蓮實重彦(平成5~7年2月)、市村宗武(平成7~9年2月)、大森 彌(平成9~11年2月)、浅野攝郎(平成11~13年2月)、古田元夫(平成13~15年2月)
駒場寮問題担当評議員・学部長特別補佐名簿
川口昭彦(平成3~7年評議員)、永野三郎(平成7~9年評議員、平成9~13年学部長特別補佐)、浅野攝郎(平成9~11年評議員)、浅島 誠(平成11~13年評議員、平成13~14年学部長特別補佐)、鈴木賢次郎(平成13~15年評議員)、小林康夫(平成13~14年評議員)
三鷹国際学生宿舎特別委員会名簿
永野三郎(平成3~7年:委員長)、小林寛道(平成3~14年:平成3~7年副委員長、平成7~14年委員長)、生井澤 寛(平成3~13年:平成7~13年副委員長)、小寺 彰(平成3~14年)、刈間文俊(平成3~14年)、堀川穎二(平成3~5年:副委員長)、池田信雄(平成7~14年:副委員長)、玉井 哲雄(平成7~14年)、下條 信輔(平成7~9年)、大貫 隆(平成8~14年)、吉岡 大二郎(平成8~10年)、大越 義久(平成9~14年)、下井 守(平成11~14年:平成13~14年副委員長)、木村 秀雄(平成13~14年)、上村 慎治(平成13~14年)、小川 桂一郎(平成13~14年)
法律担当
道垣内 弘人(平成8~14年)、斎藤 誠(平成12~14年)