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高齢者の体力の追跡研究 1973~1991

13.高齢者の体力の追跡研究
                          (2007年 執筆)

高齢化社会が進行しているが,日本人の人口の4人に1人が65歳以上高齢者で、高齢者が多い地域では、3人に1人が65歳以上となっている。実際のところ、健康状態に問題がなければ、70歳ぐらいまでは働けるし、元気な人は80歳で働いている人も少なくない。高齢者を対象にしたトレーニングを実施してみると90歳でも元気な人は元気に運動している。したがって、年齢を関連させた体力や健康課題に関しては、一昔までの人間の生き方の考え方や感じ方を大いに変化させなければならない。これが高齢者の意識改革運動である。こんな運動は、まだ表立ってはいないが、日本人に必要なものは、意識改革そのものなのではないかとおもわれる。
団塊の世代が定年退職し、大量の労働力の移動がおこなわれることから、2007年問題とされているが、基本的に人間には定年というものはなく、基本的に動くことができるうちは、活動を続けることが必要だと考えられる。ただ、社会的には大量の退職金が支給されたり、職場がなくなったりすることで多少の生活上の変化はあるが、おおらかな考え方をしていったほうが社会的にも個人的にも都合が良いといえる。
やがてこのような社会が来ることは充分に予想されていたことなので、社会の受け入れ体制も徐々に整いつつあるといってよいであろう。

1985年には世界一の生存長寿者として120歳の泉重千代さんがいた。この年の100歳以上生存する日本人は1940人であった。1950年には100歳以上生きている人は97人であったから、100歳以上生きることは極めて珍しかった。しかし、2005年の統計によると、100歳以上の人は25000人を超えており、人口の年齢構成を見るとやがて、100歳を生きる人が10~20万人をこえると考えられる。ちなみに、2005年では90歳以上の人が100万人をこえている。誰でも90歳や100歳まで生きる可能性を持っているということができる。しかし、健康を害し、活動が不自由で寝たきりとなり、認知症患者として生きている人も多い。願わくは、健康で長寿を授かりたいと思う心が自然であろう。健康で長寿ということは欲張りであるという意見もある。そういう人は、長寿はいいから、生きているうちは健康でありたいという気持ちを持っている。今、世の中では、健康寿命、活力年齢を延ばすといった考え方で、さまざまな工夫が考えられている。
私が、中高齢者の体力測定を始めたのは、今から34年前の1973年からである。子どもや青少年の最大酸素摂取量の測定に取り組んでいて、中高齢者を対象にした研究に発展した。中高年者の測定は、子どもの追跡測定と同様な手法で、個人を追跡測定することを目標にした。1970年代と80年代に、名古屋大学で毎年追跡測定を実施したが、1986年に東京大学に転勤となったため、「死ぬ直前まで追跡測定を続けましょう」という測定対象者との約束は果せないままとなってしまった。高齢者の最大酸素摂取量をトレッドミルで測定するといった危険を含んだ測定は、測定する人と測定される人とのお互いの信頼関係に基づいて初めて成り立つものである。したがって、しっかりした人間関係が結べないような場合では、こうした追跡測定などは不可能である。1973年から開始した測定は、対象人数が200人ほどであるが、10年以上にわたって5回以上の測定が出来た人数は、20名程度である。最後の大規模な測定を1991年に実施して、中高齢者の最大酸素摂取量の測定には一つの区切りをつけた。名古屋大学に在籍し続ければ、さらに10年以上の追跡測定を継続できたであろうが、1986年に東大の駒場に転勤後は、高齢者を対象とした研究条件がなく、1991年には、古巣の名古屋大学の施設を借りて、追跡測定を実施した次第である。職場が変わって、その仕事が後進に引き継がれることが理想的かもしれないが、そうした体制を維持することは、個人の研究テーマでは現実には難しい。高齢者の最大酸素摂取量の研究は、一応18年間で完結した形になっている。

1970年に名古屋大学に技官として採用された当時、名古屋大学教養部には、一階に2つの実験室があり、その一つに大きなトレッドミルがすえつけられていた。1973年のある時、名古屋大学農学部を卒業し、YMCAの主事をしている青樹和夫氏が研究室を訪ねてこられ、これからは中高年の健康問題が重要になるので、中高年の最大酸素摂取量をはじめ、中高年の体力に関する研究をしてもらえないか、という依頼であった。青樹氏の依頼は、共同研究をしようというものではなく、純粋に研究上の興味からの提案であったようだ。青樹氏は、YMCAの活動をつうじて、地元ラジオの健康番組に出演したり、新聞に体操の指導者として登場するような活動的な人で、周りの人からは青樹先生と呼ばれていた。私は、青少年の最大酸素摂取量の測定には従事していたが、中高齢者の最大酸素摂取量を測定したことはなかった。青樹先生は、名古屋大学学長の芦田 淳教授(栄養科学)の研究室の出身者で、時々、芦田先生のお酒の相手役を勤めているという。松井秀治先生と芦田先生は親しい間柄で、松井先生の話では、「芦田学長から、青樹君が体育の研究に大変興味を持っており、松井先生のところで勉強したい気持ちを持っているということを聞いている」ということであった。青樹先生がある機会に直接私に話をしたところによると、「松井先生のところで勉強したい気持ちは持っていたが、小林寛道さんというすごい人が松井先生のところに来たので、自分はとてもかなわない。小林寛道さんをサポートすることで、自分のやりたかった研究をしてもらうという立場で協力させて欲しい。」ということであった。青樹先生は、昭和16年生まれで、私の2歳年上の人だった。
私は、青樹先生の研究の提案を受け入れて、中高齢者の最大酸素摂取量の測定を実施することにした。この頃は、有酸素運動という語がようやく世の中に現れた頃であった。1968年にアメリカのケネス・クーパー博士が、「AEROBICS(エアロビクス)」という本を出版し、これが爆発的な人気を博して、世界中が「エアロビクス」に注目しだしていた。クーパー博士のエアロビクスが出版される以前は、アメリカでは、キュアトン博士の健康づくり運動が普及していたが、1968年以降はクーパー博士のエアロビクス一色になった。この本は、ジョギングブームの火付け役ともなった。それまでは、ランニングという運動はスポーツ選手や学生・生徒のやるものであり、一般の人が走ったりする習慣はなかった。しかし、健康の維持、とりわけ心臓病の予防、その原因となる肥満退治にジョギングが有効ということで、これまで運動とは縁のなかった一般の市民がジョギングを始めるようになったのである。日本では1979年にカーター大統領が来日した折、お付の人たちを引き連れてジョギングする姿が新聞で報道され、健康のため、比較的ゆっくりとしたペースで走ることがランニングではなく「ジョギング」であるという言葉の意味が一般化した。

青樹先生の紹介で、最初に中高年の最大酸素摂取量の測定の対象になったのが73歳の彫り物の職人さんであった。鶴舞公園で運動をしているということであった。
心電図電極を胸に貼り付けて、トレッドミルの上を最大限界まで歩いてもらうのである。スピードは80m/分と一定であるが、坂道の傾斜が毎分1%づつ上昇し、このスピードについていけなくなったら運動を終了する。運動時間はおよそ15~20分で、徐々に身体を追い込んでいく。口と鼻を覆う呼気ガス採集用のマスクを装着し、マスクの呼気を蛇管で連結したダグラスバッグに1分間毎に連続採集し、換気量と酸素濃度を測定し、酸素摂取量を算出する。運動中に消費された酸素量が多い方が呼吸循環機能を表わす数値が大きいということになる。
この測定では、転倒を含む事故、および心臓や循環機能に運動をおこなうことによる突発的な変化、意識喪失などが警戒される。トレッドミルの運転は、どの時点で、停止させるか、そのタイミングを逃さないようにしなければならない。運動中の被検者には時々「大丈夫ですか」と声を掛けるが、心電図にあらわれる変化や心拍数が上昇してくると、測定している検者の緊張度が高くなる。
運動をしている人は、気持ちの良い汗をかき、「久しぶりにこんなに追い込んだ」などと語ってくれるが、時々、私のわきの下から冷たい汗が流れ落ちることもあった。「冷や汗をかく」という表現が本当であると体験したことが何度かあった。もっとも怖かったのは、心電図を記録していたが、記録される心電図波形の電位が低下していき、心電図が記録できないような直線記録になってしまった時である。この時は、汗で心電図電極が肌から浮いてしまい、記録の電位が弱くなったことが原因であったが、本当にこちらの心臓が止まるような気持ちになった。
名古屋大学の有名教授で須賀太郎先生を測定したことがある。須賀先生はすでに退官されて名誉教授になっておられた。学校の廻りを走ることを習慣化されており、名古屋大学の行事である「須賀杯駅伝」の創設者である。須賀先生に心電図電極をつけてみると、はなはだしい不整脈が記録されてくる。「須賀先生、不整脈が見られますが」と問いかけると、須賀先生は「そう、不整脈が出ててね、医者が驚くんだ」という回答であった。それでも平気だということなので、トレッドミルで、手順どおり運動してもらい「もうここまで」という段階まで頑張ってもらった。心電図記録には、はなはだしい乱れた波形が現れたが、じっと我慢して、須賀先生が、「ここまで」という合図を出してくれるのを息を凝らすようにして待った。運動後、須賀先生の息子さんは滋賀大学の医学部の医師で、心臓は見てもらっているということを伺った。人間の心臓とは不思議なものである。須賀先生に出会ってから、多少不整脈などが出ても、人間は簡単には参らないものだということを知り、不整脈が出る心電図に遭遇しても、落ち着いて対応できるようになった。須賀先生は、その後もお元気で天寿を全うされた。

財津和夫さんは、営林署の勤務によって山歩きの多い仕事に従事していたが、退職後、80歳からフルマラソンを志してトレーニングを開始し、5~10kmのレースに多く出場するようになった。はじめの2年間の出場回数は1年に2~3回であったが、3年目からは平均25回出場し、最多出場は87歳時に33回である。10km走の記録は、80歳時に88分04秒であったが、82歳時に77分51秒、83歳時に73分41秒、85歳時に72分26秒と時間を短縮させ、85歳時にホノルルマラソン(42.1954km)を10時間54分11秒でゴールインしている。この時は初出場で、途中空腹によるコンディション作りに失敗したため、翌年の86歳時に再度ホノルルマラソンに挑戦し、8時間38分18秒でゴールインした。この時は途中転倒し、出血の手当てなどをした後のゴール到着であった。目標としたマラソン完走後は、5km走を中心とした大会に出場したが、88歳以後は10km走の記録が85~100分台にやや低下している。

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 財津さんの体力測定を、89歳と90歳の時に実施したが、このときには毎朝4時30分に起床した後、8kmのジョギングを行い、週二回の体操教室と週1回の体操教室に通う生活状況であった。財津さんは、耳も目も普通であり、会話もまったく中高年の人と変わらない感じであった。トレッドミル歩行法によって、最大酸素摂取量を測定した結果では、最高心拍数が89歳で158拍/分、90歳で142拍/分であり、体重あたりの最大酸素摂取量は23.3ml/kg/分、90歳で21.0ml/kg/分という値であった。この値はあまり高い値であるとはいえない。
私は、この値が、常識的に考えると小さすぎると感じた。
そこで、日頃ジョギングをしており、年齢のわりに成績が良いとされている81~87歳のスポーツ愛好高齢者5名について測定してみると、24.6~40.7ml/kg/分という値の範囲にあり、財津さんの値が必ずしも小さいということはなかった。
 このことは、最大酸素摂取量が大きな値でなくても、高齢者にとって、充分活動的な日常生活を送ることができるというということを証明する事実として、重要な意義を持っていると考えられた。しかし、早いスピードで走ろうとすれば、大きな最大酸素摂取量が必要である。最大酸素摂取量が大きくなければ健康度が低い水準にある、という常識的な考え方を改めて、最大酸素摂取量は小さい値でも、それを有効に活用すれば良いのだということを理解させてもらった。このことは、私にとって、最大酸素摂取量に関する革命的な認識であった。財津さんからはいろいろのことを教えていただいたが、いつも一緒だった奥様がなくなって急に元気がなくなり、94歳で他界された。

最大酸素摂取量を測定することは危険が伴うということで、最近ではあまり直接的な測定がなされなくなっているが、高齢者を対象に測定を実施してきた経験にもとづけば、
トレッドミル歩行法によって速度をほぼ80~110m/分の範囲で設定して、一分間に1%ずつ角度を高めていく角度漸増法がもっとも安全で、確実である。このようなゆっくりペースで測定したのでは時間の無駄だということで、より急激に速度を上げていく方法がアメリカではスタンダードになっているが、私は、ゆっくり負荷を上げていく方法が良いと考えている。
前述したように、1991年2月に最後となった最大酸素摂取量の追跡測定を男子被検者のみを対象として実施した。
その結果、60歳代15名(平均64.1歳、60~68歳)体重あたりの値が37.8 ml/kg/分、70歳代(19名、平均74.2歳、70~79歳)36.5 ml/kg/分、80歳代(5名平均83歳、81~87歳)30.5 ml/kg/分であった。

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60歳代の最大値はトライアスロンの平松要介さん52.0 ml/kg/分、70~74歳代では、競歩の愛好家の三石 清さん 48.6 ml/kg/分、75~79歳代では75歳のジョギング愛好家中島さん、46.8 ml/kg/分、80歳代では、81歳のジョギング愛好家Sさん40.7 ml/kg/分、87歳の田口さん(富士登山愛好家)25.3 ml/kg/分、84歳のジョギング愛好家石川さん33.9 ml/kg/分であった。ジョギング愛好家の値に比較して歩くことを続けている田口さんの値はやや小さいが、日常生活で実にかくしゃくとした様子であった。
 1974年から、創設間もなかった「クレージーランニングクラブ」のメンバーを毎年測定した。熊谷幸夫さんが会長で、副会長が沖田完三さん、特に熱心だったのが下 宏さんだった。60歳代を中心に、健脚ランナーがそろっていた。60歳代の人がこれほどまでに体力があるものかと、意識改革をさせてもらった強力な人たちであった。2007年、会員の減少により、同クラブを解散します、という手紙が届いた。
名古屋壮年フィジカル・フィットネスクラブ、名古屋サンデイ・ジョギングクラブ、愛知ヘルスクラブ、などの会員などが測定の対象であった。