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第9回カリフォルニア大学に留学 1976~1978

カリフォルニア大学サンタバーバラ校環境ストレス研究所 <S.Horvath> <D.V.Dill> <Buskark> <P.Komi>

昭和51年9月から53年7月(1976~78)まで、1年10ヶ月にわたってカリフォルニア大学サンタバーバラ校環境ストレス研究所に留学した。留学の切っ掛けは、松井秀治先生がIBP研究プログラムで共同研究したホーバス教授に研究員として勉学する機会を与えてくれるように依頼してくれたことである。すでにホーバス教授の研究室には、田口貞善さんが2年間の留学期間を終了して京都大学の先生になっていたし、大阪体育大学の豊岡示朗さんが1年間の留学をおえて帰国したばかりであった。ホーバス教授は親日家ということもあって、日本人の留学生が多く訪れている。1975年には、松井先生がサンタバーバラで金子公宥先生、田口貞善さんとともに日系2世の体力比較をするためにホーバス教授のスタッフと共同研究を行っていた。
ホーバス教授は、ハーバード大学の疲労研究所の出身で、アメリカの運動生理学の草分け的存在であるディル博士(D.V.Dill)の教え子であり、ディル博士のお嬢さんと結婚している。ディル博士は義理の父親にあたる。このような関係もあり、ディル博士は、サンタバーバラ環境ストレス研究所で自分の誕生日に最大酸素摂取量の測定をおこなっていた。ディル博士が90歳の時にトレッドミルで最大酸素摂取量の測定をしている風景を目の当たりにした。ディル博士は、90歳を超えても学会に出席して若い研究者との交わりを楽しまれ、93歳で他界している。ディル博士は、論文も時々学会誌に投稿されているが、他の研究者の論文とは異なって、非常に自由な論調での論文内容であった。
当時、運動生理学および環境生理学の分野では、東のバスカーク教授(Buskark)、西のホーバス教授がアメリカの双璧と言われた。バスカーク教授はペンシルバニア州立大学の教授で「ヒューマンパフォーマンス研究所」の所長をしており、のちに有名な学者となったフィンランドのコミ教授(Komi)やカバナー教授(Kavanagh)を育てている。バスカーク教授は体の大きな人で、顔も大きく、「フーフン、フーフン」と鼻から音を出しながらうなずき、人の話を良く聞いてくれる好人物であった。
 西のホーバス教授のもとには、ポストドクター研究員が数多く集まり、毎年5人ほどの新人がホーバス教授の門をたたいていた。当時のアメリカでは、体育関係のポストドクター研究員を受け入れる機関が限られており、ホーバス教授の存在は実に大きなものであった。
 毎週水曜日にはポストドクターのセミナーがあり、それぞれが研究の成果を発表し、ホーバス教授の指導を受けていた。学生は非常に緊張した面持ちで自分の研究経過を発表し、学生同士も意見を言ったり討論する風景は、今日の日本の大学院の授業風景と同じである。時々世界的に著名な学者がホーバス教授を訪問したり、招待したりで、その折には簡単なレクチャーやセミナーが行われる。ストレス学説で有名なノーベル賞受賞学者であるセリエ教授(Serie)が訪れた時には、普段行儀が良くない学生たちも直立不動の姿勢をとってセリエ教授を迎え、簡単なセミナーが開催された。アメリカの学生達があのように礼儀正しい姿でセリエ教授を迎えたということに驚かされた。
科学者に対する敬意の気持ちは、日本人よりも遥かに強いものがある。
徐々にわかってきたことであるが、アメリカでは「サイエンティフィック」(科学的)という言葉が非常に頻繁に使われ、「科学的である」と言うことに我々日本人が感じる以上に大きな価値と尊厳をもって接しているのである。したがって、逆に、却下したり、否定する時は、「それは科学的でない」と言う言葉を用いると相手を黙らせることが出来るという面もある。
サンタバーバラの研究所では、土曜、日曜は休みで、平日は午前8時から4時間、午後1時から4時間の計8時間勤務で、この時間帯で実験などを行う。午前8時から4時間の勤務は、結構に充実したもので、冬期には、真っ暗なうちから研究所に到着しなくてはならない。会議も雑用もなく、ひたすら毎日8時間を研究に費やすのであるから、仕事がはかどらないはずがない。しかし、それだけに言葉のハンディキャップや環境になれない緊張感が続いて、仕事場で気を許すことが出来なかった。
夕方4時55分になると秘書室長(事務長)が部屋を見回って、部屋の鍵をかけていく。帰宅する準備の様子も見せずに机にかじりついて文献を調べ、論文を書く準備をしている私に向かって、いつも早く帰宅するように促した。
「Kando go home. You spoil your life. I have never seen such a hard worker like you.」
(寛道さん、早くお帰りなさい。そんなに働いてばかりいると人生をスポイルしてしまうわよ)
秘書室長のメアリーリンさんは、独特の青い目をしたスタイルのよい美人であったが、いつも5時15分にはスキンヘッドの旦那さんが自転車で玄関まで迎えに来ており、彼女の行動は完全にコントロールされているようであった。
日本では、ついだらだらとした時間を勤務時間にふくめてしまいがちである。当時、日本では、朝8時から夜8時までおよそ12時間を学校で勤務しており、忙しい時はおよそ14時間を学校で過ごす生活が続いていた。しかも土曜日は休みでなく、日曜日も時々勤務していた。アメリカでは土曜と日曜が自由であったので、ゆっくりと家族で一緒に過ごす時間ももつことが出来た。
私が英語の会話に不自由していたので、メキシコからの留学生であるフランシスコ・ディアスが夜学の無料の英会話教室に通うように勧めてくれた。水曜日と金曜日の夕方6時から8時までの2時間、英会話が出来ない人たちのための社会教育プログラムとしてサンタバーバラ市が開設したものである。講師は、ニュージャージー出身の大変個性の強い中年の女性であった。この教室には、本当に英語が出来ない人たちが参加していた。私は英語の文法は理解していたが、言葉の組み立てや発音、およびヒアリング能力が著しく低かった。この教室に通う人は、少し出来るようになると参加しなくなってしまう傾向があったが、私はこの教室に少なくとも1年半まじめに通い、最後には先生から「アンダースタンダブル(理解できる)」という評価を戴いた。この社会教育の英語教室には、実にさまざまな人が参加していた。イランのパーレビ国王の国立大学教授、メキシコからの労働者、ビザなしの入国者、ベトナム戦争で南ベトナムが陥落する時にサイゴンで米軍の特別許可をもらい米軍機で入国したベトナム空軍のパイロット、トルコからの移住者、南北の緊張が続く韓国からの移住者、ベトナムからボートで脱出したボートピープルの一人、レバノンの内戦で帰国すれば射殺されるとアメリカに逃れた自動車の修理工、ドイツからの19歳の女子留学生など、アメリカという国が民族の坩堝であるという表現がぴったりのような不思議な英会話教室であった。先生を囲んで車座のように椅子を並べて英語を勉強するのであるが、生活に必要な英語を学ぼうとする気持ちは誰にも共通していたので、連帯感も芽生えていた。
この社会教育の英会話教室も、社会教育予算の削減によって閉鎖され、英語の先生は失業を嘆いていた。世の中にあった余裕と言うものが、アメリカ社会でも失われはじめた象徴のようにも感じられた。

研究所での研究は、私と、メキシコの医学博士であるフランシスコ、アメリカ人のポストドクター研究員のD.ブランスフォード博士の3人が組んで、「いろいろな姿勢で運動したときの血液動態に関する研究」、および「高温多湿環境で運動したときの体温調節に関する研究」を組み合わせてひとつの実験として実施することになった。プロジェクト名は「ホットバイク(hot bike)」である。

名古屋大学総合保健体育科学センター(略称 保体センター)が昭和50年(1975)に発足して、当時3500万円する人工気候室を備えることが出来た。しかし、環境生理学に関する研究者は日本には数少なかった。名古屋大学では、かつて汗の研究分野で久野寧教授が有名で「汗の話」という名著がある。久野 寧先生はすでに退官されていたが、久野研究室で使われていたという人体天秤(10g単位で計測可能)を譲り受けてきて、人工気候室の入り口付近に設置した。
現役では、エール大学のジョン・ピース・ファンデーション研究所で勉強した、大阪大学の中山 昭教授が有名であった。堀 清記教授は、兵庫医科大学の生理学の教授になりたてであり、大御所の吉村寿人教授(京都医科大学)は寒冷環境の生理学の専門家であった。また、愛知医科大学の朝山正己先生(現中京女子大学)が、カプセルをもちいて発汗の研究を始めた頃であった。
私は、ホーバス教授の元で、勉強して、名古屋大学の人工気候室を有効に利用した研究を行いたいと考えていた。当時の発汗の研究は、どの論文を見ても乾燥した環境での発汗作用や体温調節についての研究がほとんどで、「高温多湿」環境での研究は全くといってよいほど行われていなかった。「汗が滴り落ちるような実験環境では、きちんとした研究結果が出せないので、発汗された汗はすべて蒸発するような環境でのみ発汗の基礎研究が行われていた。私は、高温環境49.5℃、湿度32%と言う条件を選んだ。なぜならば、50℃以上の環境での人体実験は倫理上許可されなかったし、湿度32%は、研究所の研究室でコントロールできる多湿環境の限界でもあったからだ。
「なぜ高温多湿の環境での研究が必要なのか」という質問に対して、「アジアはモンスーン地帯であり、夏は高温多湿状態になる。こうした環境で運動したときの生理的反応を研究したい」と答えた。
研究所の人工環境室は、低温環境室と高温環境室の二つがあり、それぞれに実験を行うことができる。高温環境室には、「ポッターベッドバランス」という大型の人体天秤が設置されており、このベッドバランスの上に自転車エルゴメータを設置して運動することが可能であった。このポッターベッドバランスはかなりの年代もので、最近では使った人がいないということであった。よく調べてみると、体重の変化が1g単位で計測でき、それを記録紙に書かせることが出来るものであった。大きな問題は、精密すぎてすぐに目盛の針がスケールアウトしてしまうことだった。10g程の変化があると針はスケールの上限に達してしまうので、基準値をあわせるダイヤルを回していつも目盛りが中央に位置するように調節しなければならない。ベッドの上に横たわって、静かに体重の変化を計測するために創られた装置のうえで、自転車をすえつけて運動したときの体重変化を継時的に捉えようとするのであるから、難しいことこの上ない。しかも不安定な目盛りの調整を手動で行わなければならないので、その技術は神業に近い。この仕事をどうしても成功させてやろうと思い、目盛りあわせの技をトレーニングした。まず、目盛りをあわせるときには息を止め、気持ちを集中させ、決して身動きしないことである。手首や指先に神経を集め、微調整を計る。こうして訓練するうちに、調整の要領も身についてきたので、目盛りあわせの術は身についたものになった。
高温多湿環境では、汗が滴り落ちるので、その汗を集めたり、布に吸収させる装置を工夫し、体からしたたり落ちる汗の量を5分間隔で計測した。皮膚温度の測定装置、直腸温および耳管温(鼓膜温)、の測定、呼気ガス測定装置などにも工夫を凝らして、実験を開始した。自転車エルゴメータを漕ぐ姿勢を、通常の姿勢、座位姿勢、仰向け姿勢の3つに分け、それぞれの姿勢で45分間の安静と45分間の運動に分け、運動の強度も2種類について行った。血液性状の変化も継時的にとらえるといった大掛かりな実験になった。被検者のほかに、ベッドバランスの目盛り調整と汗の採集のために、私が常に高温多湿の実験室に閉じこもって作業した。あまりの暑さのために、看護婦のブリジットは、ビキニスタイルで高温環境室にはいり採血する様子が面白かった。
こうした実験を1年間にわたって、週2回、1回4時間のペースで実施した。出てきた測定結果をみてホーバス教授は「マーベラスデータ」といって感心してくれた。滴り落ちる汗の継時的変化をとらえた論文はこれまでなかった。そして、これを論文にまとめる作業に入った。体温調節に関する論文ばかりでなく、周辺の論文を含めて、およそ250~300篇の論文を読んで、関係しそうな表現をノートに写し、論文の主要な部分をメモした。この作業はとても根気の要るもので、精度の悪いコピー機で複写した細かい字で書かれた英文の論文を薄暗い照明の部屋で読み進むうちに、すっかり視力を弱めてしまった。アメリカではじめて近眼鏡をはめることになった。カリフォルニア大学図書館に行くと山のように蔵書が並んでいる。なかから関連する論文を目次を見ながら探していくのである。今日のような文献検索のコンピュータなど存在しない時代の話である。どの論文を読んでも面白く、知的興味を充分に満喫することが出来た。しかし、よくよく論文を読み続けていくと、案外大切な部分の研究がなされていなかったり、つまらないことに執着してなかなか抜け出ることが出来ない研究者の姿なども浮かんできて、ある意味で、「研究論文の穴」なども見抜けるような力がついてきた。

 研究論文の作成は、意外に手間取り、一つ一つの事象をとらえると共に、その事象が意味する内容を証明するものでなければならなかった。結局、高温多湿環境での運動は、これまでの研究論文や物理学的な熱計算ではマッチングしない部分が生じており、その原因は、体表面についた汗の層が蒸発熱による体温の調節能を低下させ、体温の体内蓄積を高めるためであると結論づけた。この論文は「Journal of Applied Physiology」に採用され、高い評価を受けた。後日、インターネットによって、この論文を検索してみるとどうしてもでてこない。その理由を調べてみると、著者名の入力が正しく行われていないことによることがわかった。
 研究データの統計処理は、バーバラ・ドリンクウォーター博士(後にアメリカスポーツ医学会会長)が一手に手がけてくれていたが、彼女はなかなか私の発する英語の発音を理解してくれなかった。しかし、論文にするための原稿をみてもらったところ、「Kando! How can you write such a nice English paper」(あなたは英語が下手であまりしゃべれないのに、どうしてこんな素晴らしい英語の論文が書けるの)と 目をむいて大声で驚いてくれた。ノートに写し取ったさまざまな英文の言い回しをつなぎ合わせて編集し、それに自分の思想にも似た考え方や考察を吹き込んだ作品を、なかなかコミュニケーションにてこずったバーバラも理解してくれたようだ。
 アメリカ人の中には、オリエンタルなアクセントを全く理解できない人もいる。ドイツ訛は比較的嫌われ、フランス訛は好感を持って受け入れられる。我々も中国人や韓国人が発するあまり上手でない英語が良くわからないことがある。日本が経済力を持つようになってからは、日本語訛の英語でも聞き耳を立ててくれるようになってきており、あんな英語でよく通じるなと感心させられることが多い。言葉は、聴こうとする気持ちがないと、なかなか通じにくいものである。アメリカ人にとっても、下手な英語であれこれ話しかけられても、さぞかし面倒なことであろう。

 アメリカには、家族と共に出発したが、まるで冒険に行くような命がけのたびであった。日頃から、用意周到さに欠け、とにかく飛び込んでしまってから奮闘するタイプの人生を送ってきたが、その際たる例がアメリカ留学であった。妻昌子32歳、ゆい7歳、たけふみ5歳、よしえ2歳の5人家族で、多治見の家を離れ、羽田空港から飛び立ったまでは良かったが、ロサンゼルスの空港では乗り換えに苦労し、サンタバーバラ空港に出迎えてくれるはずの人影は見当たらず、電話も通じず、空港には同じ飛行機で荷物が乗らず、翌日渡しになるなど、初日から苦戦を強いられた。サンタバーバラ空港についたものの、泊まる家もないので、一泊はホリスターインというモーテルに宿泊し、翌日に研究所に出かけたが手紙がその日についたので迎えに行くことが出来なかったという。宿舎も秘書の人が用意してくれているものとばかり思っていたが、何の手当てもなく、当日になっていろいろとアパートを探してくれたが9月の新学期が始まったばかりでどこにも空きがなかった。行く当てもなかったところ、研究所の研究員のジョン・ベディ博士が、「自分の家が空いているので泊まっていいよ」といってくれたので、その夜からおよそ1週間一家5人が泊めてもらった。親切な人もいるものだ。翌日からいろいろとアパートも探してくれ、セサミートリーという3ベッドルームの高級アパートに入居した。しかし、家賃が高くて払えないので、1月後に2ベッドルームに移動した。しかし、2階の住人がうるさく、家族の健康状態にも異変が出てきたので、日当たりの良い静かな別のアパートに転居することになった。アメリカの生活に少しずつ慣れ、様子もわかってきた。翌年には、フランシスコの紹介で家族用の大学宿舎に応募し、数ヶ月間待ってようやく入居させてもらえることになった。フランシスコもこの宿舎を借りていた。
アメリカでは5箇所住処を移動したことになる。大学の宿舎にはいって、ようやく落ち着き、2年目の留学生活は、充実したものになってきた。子どもたちも、サンタバーバラの市内の白人ばかりの小学校から、大学宿舎に近い小学校に編入し、ゆいは、ミセス・アイスラーという先生が担任で可愛がってもらった。子どもたちは、この頃英語で喧嘩をするようになっていた。家族の冒険談となると、我が家ではこの頃の話が何度も繰り返されている。