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マラソンの暑さ対策 1989~2004

18.暑さ対策研究について (1989~2004)
                           (2007年 執筆)

2004年アテネオリンピックの女子マラソンで、野口みずき選手が金メダルを獲得した。世界記録を持つラドクリフ選手は36kmで棄権した。暑さと坂道の多い難コースが影響したようだ。土佐礼子選手は5位、坂本直子選手は7位となり、日本の女子選手は全員入賞を果した。この好成績には、これまでに蓄積された高地トレーニングや坂道対策、および暑さ対策のノウハウが生かされていると考えられる。暑さ対策として、野口選手は、スペシャルドリンクのボトルの水を体にかける作戦を充分に取り入れていた。
わが国のマラソンに対する暑さ対策研究は、1991年に東京で開催された世界陸上選手権大会のマラソン戦略としておこなわれた。その成果は、世界陸上東京大会での、谷口浩美選手の金メダル、山下佐知子選手の銀メダル、1992年バルセロナオリンピックでの有森裕子選手と森下広一選手の銀メダル獲得などに結びついたが、その後も、世界選手権大会やオリンピックでは、必ず日本選手が3位以内の上位入賞をつづけている。このことは、わが国の選手層の厚さとともに、スポーツ科学の裏づけに基づいたトレーニングや戦略が継続的におこなわれるようになっていることが大きい。
しかし、1990年以前の時代では、「暑さ」は長距離やマラソン選手にとって大敵であった。マラソンは、冬のスポーツであると考えられ、オリンピックや世界選手権大会が、夏シーズンに行われるようになったことから、その対策には苦慮していた。日本人選手は暑さに弱く、暑さの中で過酷なレースをすれば、選手寿命を縮めると信じられていた。
しかし、昨今では、日本のマラソン選手は暑さに強いとされ、高温環境になるほど、日本人選手にとって有利な状況になっている。
日本の暑さ対策研究が、実際のマラソンレースで成功している経緯について、マラソンの暑さ対策に関するテレビ番組制作で、NHKの取材を受けた時、ディレクターの人から、そうした研究の記録をきちんと残しておくようにとのサジェスチョンを受けた。特に、なぜ、マラソンで水を飲むことのほかに、体に水をかける作戦が日本から生まれたか、ということについてである。

マラソンの暑さ対策の失敗
マラソンの暑さ対策の失敗は、1980年当時、世界最強のマラソンランナーといわれた瀬古利彦選手にまつわるものである。瀬古選手は1980年のモスクワオリンピックに日本が参加していれば、金メダル獲得が確実といわれた。しかし、世界政治の事情で日本はモスクワオリンピックに不参加を表明した。1984年のロサンゼルスオリンピックでは、暑さの厳しい環境の中でレースが行なわれた。その過酷さは、スイスのアンデルセン選手がふらふらになってゴールにたどり着く場面がたびたびテレビで紹介されているほどである。
ロサンゼルスオリンピックの日本のマラソン代表は、瀬古利彦、宗 茂、宗 猛の3選手であった。瀬古選手は、中村清監督の指導の下、暑い環境でレースをするのだから、暑さに負けないように暑い環境でトレーニングし、身体を慣らすという作戦を取った。そこで、東京やグアムの酷暑の中で毎日数10kmの走り込みを行なった。その結果、さすがの瀬古選手も体力の消耗が激しく、疲労した状態でオリンピックのレースに臨むことになった。国民の大きな期待にも関わらず、結果は14位に終わった。瀬古選手は、暑さ対策として靴の底に穴を開け、空気の流通をよくしようと工夫したが、かえって路面の熱さが足裏に伝わり、具合が悪かったという。また、暑さ対策として、旧日本軍が用いたような日よけをつけた帽子なども工夫した。
宗選手の場合は、暑いところは避け、比較的涼しい場所でトレーニングを積み、試合の一週間前に現地入りしていた。男子マラソンの当日はそれほど暑い環境条件ではなかったので、普段の通りに走ることが出来た。宗兄弟の場合は、給水に最も力を入れていた。レーススピードで走りながらコップの水を飲むというテクニックは、やってみると意外に難しいものだ。宗選手は、走りながらコップの水を一気に飲む技術を練習して、比較的多量の水を一気に飲み込む特技ともいえる技術を身につけた。その頃、「給水しなければ脱水症状がおきて走れなくなる」という生理学的な知識が選手たちに普及していた。ロサンゼルスオリンピックでは、宗 猛選手が4位に入賞した。
1988年のソウルオリンピックでは、中山竹通選手が金メダル確実といわれながら、暑さのために4位、瀬古選手は9位、新宅永灯至選手は17位であった。ソウルでは、レースの4日ほど前から晴天が続き、夏の直射日光による熱が舗装道路にこもり、路面の温度が40度近くになっており、このため路面からの熱気が選手を消耗させる状況となった。ソウルオリンピック大会は、日本の女子マラソン選手が始めて出場した大会であったが、その成績は、浅井えり子選手25位、荒木久美選手28位、宮原美佐子選手29位と世界の厚い壁を思い知らされた。


暑さ対策の開始
1989年に日本陸上競技連盟の強化本部長であった小掛照二氏から電話が有り、「暑さ対策を何かやってください」ということだった。私は、「少しお金もかかりますが」といったら、「お金はかかってもいいです」ということだった。
日本陸上競技連盟では、8月におこなわれる北海道マラソンを「暑さ対策」のための指定マラソンとして、暑さに強い選手を日本代表に選ぶことにした。1989年4月、日本陸上競技連盟強化本部に科学部が設置され、本部長は小掛照二氏、強化委員長に大串啓二氏、科学部長に小林寛道が就任した。松井秀治先生が約20年にわたって科学委員会委員長を勤めておられたが、組織替えをおこなって科学委員会を解散し、強化本部付きの科学部を発足させたばかりであった。新生の科学部委員のメンバー選考はすべて私に任されていたので、川原 貴先生を副委員長として、医学、運動生理学、バイオメカニクス、栄養、心理の各分野から、陸上競技を強化することに興味を持つ若手メンバーを集めた。暑さ対策研究は、科学部の最初の取り組みであった。1989年の7月におこなわれた札幌ハーフマラソン大会では、選手の体温がどの程度上昇するかを調べた。8月におこなわれた北海道マラソンでは、レース中の給水量と体重減少量、耳管温、直腸温、および走行中の皮膚温を調べた。このころ、体重変化を1グラム単位で即座に計測する精密体重計は極めて珍しい時期で、名古屋大学の桜井伸二さんがいろいろと調べてくれ、「A&D社」が開発したばかりのデジタル体重計がある、ということを教えてくれた。そこでA&D社にお願いして、開発されたばかりのデジタル体重計を借りることにした。会社の人が北海道まで運んできてくれた。この精密体重計は即座に10g単位で体重の変化がデジタルで計測できたので、大いに役に立った。耳管温は、ゴムのキャップで耳栓を作って真ん中に穴をあけ、サーミスタと呼ばれる温度センサーを先端に取り付けたコードを通し、他方の端を50チャンネルの記録器に接続させ記録した。耳管温は、スタート前およびゴール直後に計測することにした。ランナーの走行中の体表面温度をなんとかして計測できないものかといろいろと調べたところ、赤外線をもちいた温度計測装置があることがわかり、「日本アビオニクス」という会社にお願いにでかけ、技術者つきでマラソン選手の体表面温度を計測する研究に協力してもらうことになった。北海道マラソンの大会本部には、「科学測定車両」を用意してもらい、先頭の選手にほぼ併走する形でその車両を走らせることの許可を取ってもらった。また、各給水地点で選手がレース中に摂取した水分量を計測するために、あらかじめ水分が外も漏れないような蓋つきで給水ノズルのある給水容器を用意し、200mlの水を入れておき、これを選手に手渡し、飲み終わったら捨てずに手渡してもらうように研究補助者を配置した。各給水地点には小型のはかりを用意して、水分の減り具合を計測するのである。こうした測定の研究補助者として、北海道大学の川初清典先生と学生さんの協力を得た。実験準備をいろいろと整え、各方面に連絡をして、測定がスムーズに進行するように手配した。特に、北海道陸上競技協会の鈴木会長を始め、大会組織委員会の全面的な協力体制を得ることができた。
 このような準備をして、いよいよ本番の測定が開始された。科学測定車には、私と日本アビオニクス社の技術者、およびNHKのテレビカメラマンが乗り込んだ。NHKのテレビカメラマンは、科学測定車に乗り込む直前に、突然私のそばにやってきて「車に一緒に載せて欲しい」と頼んできた。科学の測定に興味を持ったカメラマンはほとんどいない時代だったので、「感心なカメラマンだ」と思い、すぐにNHKと大きく書いたゼッケンをはずさせ、さも科学部のスタッフのような振りをして車に乗り込ませた。NHKのカメラマンだけを特別扱いしたことをだれにも悟られないようにするためだった。
レースが始まると、谷口浩美選手が先頭になり、科学測定車は、ほぼ谷口選手の斜め前方に位置づけて走ることが出来た。赤外線カメラで走行中の谷口選手の様子をとらえると、温度が高くなっている部分は赤色になり、冷えている部分は青色となっている。赤色は濃いほど温度が高く、青色は濃いほど温度が低い。中間は緑色になるように計測スケールが設定されている。谷口選手は、途中までフセイン選手と先頭争いを演じ、ふとももの温度や顔の温度が非常に高くなる様子が手に取るようにわかった。そして、あまりの暑さに、谷口選手がふとももに水をかけると、太ももの温度は下がり、しばらく走っていくとまた太ももの温度が上昇するという様子がとらえられた。この温度変化の様子は、赤外線カメラのモニターテレビに鮮明に映し出され、その様子をNHKのカメラマンがカメラに捕らえていた。ゴールイン直後、谷口選手は直腸温の測定にも協力的であった。その日の夕方のNHKニュースでは、谷口選手の赤外線による温度変化の映像も紹介された。実は、この温度変化の様子は、モニター用のテレビからビデオテープに連続記録したはずであったが、北海道大学からの借り物の録画装置の具合が良くなく、テープに全く記録できていなかった。赤外線温度測定装置に内蔵されたコンピュータには静止画面として記録されたが、動画としては、NHKのカメラマンが撮影した映像が、唯一の記録されたものとして残った。
赤外線温度測定装置を用いた谷口選手の体表面温度の変化の様子から、ある作戦を思いついた。それは「給水は、飲むことよりも、冷たい水をかけることが効果的」という、「水かけ作戦」である。
一般的な常識として、脱水状態を予防する目的では、「水を上手に飲んで、上手に汗をかくことが大切」とされていた。しかし、高温多湿環境では、いくら水分補給をしても蒸発熱によって身体が冷やされる効率は悪くなるのであまり有効ではない。直接冷たい水を身体にかけて、筋肉や脳内温度の上昇を防ぐ方がはるかに効果的である。汗をかいて身体を冷やす方法が「空冷式」とすれば、冷たい水を直接かけて身体を冷やす方法は、「水冷式」ということになる。私のカリフォルニア時代の体温調節の研究成果が、ここで大いに役立つことになった。世間一般の常識の中だけにとどまっていたのでは、勝負の世界でぬきんでることは出来ない。
ところで、水冷式を用いる場合には、水温をどのようにすれば良いかが問題になる。そこで「水温15度の水を、太いももと顔にかける」という作戦の基本部分を思いついた。水温を15度としたのは、井戸水が一年中ほぼ15度の水温を保っていることからだった。
翌年(1990年)の北海道マラソンでは、「水冷式」作戦にあわせて作られたユニフォームや靴を、有力選手に着用させてレースに臨んだ。ユニフォームや靴の開発は、アシックス社が担当した。どんなに水をかぶっても身体にべとつかず、重くならず、肌触りが良く、軽い素材を用いた。ランニングシャツはメッシュとし、全体のデザインや脇のカットの具合にも配慮した。ランニングパンツも太陽熱を反射する白色の布を用い、しかも水を含んでも肌が透き通って見えないように工夫された。靴はメッシュを用い、出来るだけ軽量化し、水を浴びても重くならず、足が靴の中でグジュグジュにならず、靴底は下水の蓋を踏んでも水で滑らないように工夫された。こうした装具の開発は、「水冷式」作戦をとることを1年前に決めたので、私と陸連関係者とが神戸のアシックス本社にでかけて、製作スタッフとの綿密な打ち合わせをしたうえで作成されたものであった。アシックス社では、このユニホームの作成のために、特殊な糸の素材や織り方を繊維メーカー(旭化成)と工夫したという。
給水については、選手は、自分のスペシャルドリンクを用意するが、それとは別に、給水スタンドには水温13度の水を用意した。給水スタンドは5kmごとに設置されるが、飲料用に透明なコップに水を入れたものとは別に、水槽のような箱に水温13度の水を蓄え、その中に豆腐の大きさのスポンジを浮かせておいた。選手はこのスポンジをとって、走りながら身体を冷やすことが出来るのである。この年の7月におこなわれた札幌ハーフマラソンで、水温15度に設定して、同じ様な方法で給水をおこなったところ、大変好評であったが、もう少し冷たい水温の方が良いというアンケート調査も得られたので、8月の北海道マラソンでは13度に設定したわけである。給水所では、氷と水温計を用意し、水の温度がちょうど13度になるように調節するのである。これらの水温調節は北海道陸上競技協会の役員の方々がおこなってくれた。
この年の北海道マラソンには、陸連科学部のサポートで高地トレーニングを積んだ篠原 太選手(1位)、北島克己選手(5位)、女子では山下佐知子選手(2位)、吉田光代選手(5位)、峰岸里江選手(6位)が「水冷式」作戦を用いた。当日のレースでは、男子では先頭を走っていた渋谷俊浩選手が、暑さのため失速し、篠原選手が後半猛烈なスパートをして渋谷選手を追い抜いて優勝した。女子では、アメリカのワイデンバック選手が優勝した。渋谷選手は陸連科学部のサポートを受けていなかった。
この大会では、暑さ対策と高地トレーニングを組み合わせた選手がいずれも好成績を残し、当時の大串強化委員長からレース後、「科学委員の先生方、ありがとうございました」と、最敬礼を受けてしまった。あの大串委員長が、軍人のように姿勢を正し、頭を深深と丁寧に下げてお礼を述べていただいたことに、私はびっくりすると共に、何かからだの奥から熱いものがこみ上げてくる思いがした。「科学が競技力強化に直接役立つ」ということの証を得ることが出来た手ごたえ感があった。
その翌年の、1991年の世界陸上選手権東京大会では、まず女子マラソンがおこなわれ、山下佐知子選手が2位、有森裕子選手が4位、荒木久美選手が12位という成績を収めた。3人とも暑さ対策と高地トレーニングの組み合わせを行なった選手達である。9月1日午前6時から男子マラソンが始まった。朝もやがかかり、何もしないでいても暑苦しい日であった。レースの途中で谷口浩美選手と篠原 太選手が並んでトップを走り、あわや1,2位独占かと思われたが、谷口浩美選手が念願の金メダルを獲得し、篠原選手は後半力が続かず5位、科学部のサポートとは関係がなかった中山竹通選手は途中棄権となった。中山選手は、いわば自然児であって、科学的なサポートは一切受付けず、体力測定にも参加したことがなかった。谷口選手は、テレビのインタビューで関係した多くの人たちに感謝の気持ちを述べると共に、科学委員の先生にも感謝すると述べてくれた。科学委員長の先生の名前を思い出そうとした様子が見えたが、名前を忘れてくれたことがかえって良かったと思う。
世界陸上の本番レースの準備段階で、暑さ対策の「水冷式」作戦を日本選手だけに適用するものにするか、外国選手にも利用できる方法にするかという議論が陸連内部で起こった。私は、「大会のホスト国として、すべての選手を暑さの危険から守る配慮をおこなったという意味でも、13度の飲料水を選手が自由に手に取ることが出来るようにすること、および13度の水に浮かしたスポンジを自由に取れるようにすること」を提案した。この提案は受け入れられたが、このような飲料水やスポンジをどのように使うかということについては、情報を出さないということで了解がなされた。
女子マラソンの時と比較して、男子マラソンの当日は異常とも言えるほど蒸し暑かったので、外国の選手は「水分補給」に気を配ったが、有力選手の一人であったメコネン選手は、水を飲みすぎて途中で嘔吐するような場面もテレビで中継された。日本選手は、水はたくさん摂取するのではなく、冷たいスポンジで身体を冷やす方法を取り入れながら本番のレースに臨み、好成績を収めた。
この水冷式作戦を採用するに当たっては、「夏でも腹が冷える」「痙攣が起きるかもしれない」「心臓麻痺がおきたらどうするのだ」という心配が有力コーチから出された。こうした心配の種をとるためには、実際におこなって、安心させると共に、生理学的な実証データで説明することが必要である。スポーツ科学の現場では、コーチや監督たちの誤解や、こうしたいろいろな心配事を取り除いていく作業も、スポーツ科学を信頼してもらうためには必要であった。
1992年バロセロナオリンピック大会では、大会本部で冷たいスポンジを供給してもらえないので、魔法瓶に冷たい水を蓄えて、給水地点でスペシャルドリンクとして選手が利用する作戦を取った。有森裕子選手は、魔法瓶に入れた氷が解けなくて、氷水をかぶった状態となり、テレビ中継では頭に氷のかけらが載ったまましばらく走る光景も見られた。有森選手は銀メダル、山下佐知子選手は4位、男子では、森下広一選手が銀メダル、中山竹通選手が4位、谷口浩美選手が8位に入賞した。谷口選手は、給水地点で足を踏まれて転倒し、その後先頭を追いかけたが、惜しくも優勝を逃した。谷口選手は、ゴールイン後「こけちゃいました。これも運ですね」という名せりふを残し、一躍有名人になった。小鴨由美選手は、レース出場が危ぶまれるほど体調が悪く、実力が出せなかった。しかし、男女6名のマラソン代表選手のうち、5名が入賞し、2つの銀メダルを獲得できたことは大成功であったということが出来る。中山竹通選手は、この時は「水冷式」作戦を使った。男子マラソンで優勝した韓国の黄選手は、日本でトレーニングしているときに「水冷式」作戦を知り、日本人と全く同じ作戦を用いた。
有森裕子選手の監督である小出義雄氏は、私が「何であんなに氷が出てきたのですか」と質問すると、「5時間前にスペシャルドリンクを預けるんだけれど、氷が解けちゃうと思って多めに入れておいたんだよ。そしたら解けていなかったんだよね。」と応えてくれた。
バロセロナオリンピックでは、私はロンドン郊外の小さなホテルで、選手の試合直前一週間前のコンディションの調整を担当し、試合3日前にバロセロナの選手村に送る役割を担当していた。全員がロンドンでの調整をおこなってからバロセロナに向かった。したがって、バロセロナオリンピックは、最後の男子マラソンしか見ることが出来なかった。バロセロナの宿舎は、大学のゲストハウスで、小出監督、藤田監督、宗監督たちといっしょに楽しい時を過ごした。小出監督や藤田監督の豪快で、芯から陸上好きな人たちの考え方や生活態度にも触れて、こういう人たちがいるのかと勉強にもなった。
バロセロナオリンピックが終わってからも、1994年まで暑さ対策研究は継続され、アトランタオリンピックで一応の区切りとした。アトランタオリンピックでは、有森裕子選手が3位に入賞した。浅利純子選手に期待したが、レースの直前に激しい雨がふり、普段はいていた靴下を履かずにレースに臨んだところ足に豆が出来、惜しくもメダルを逃した。レースに勝つということには、さまざまな要因が絡む。「勝負は時の運」ともいわれるが、勝ち運にめぐまれることも非常に大切な要素の一つである。