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幼児の発達運動学について 1979~1997

15.幼児の発達運動学について

博士論文では、小学校5年生から高校3年生までを対象にした最大酸素摂取量の測定結果を基にして、自然発育の様子や、トレーニングの効果について考察した。しかし、幼児や小学校低学年の子供についての縦断的な研究はまだなされていなかった。1970~80年当時、幼児に関する研究は「体育科学センター」の研究プロジェクトとしておこなわれていた。
幼児期は、「調整力」という要素が大切だとされ、(財)体育科学センターでは、幼児を対象にした研究グループとして、「調整力専門委員会」を設け、中京大学の石河利寛先生が委員長となっていた。この委員会のメンバーは、松井秀治(名古屋大学)、勝部篤美(名古屋大学)、近藤充夫(東京学芸大学)、松浦義行(筑波大学)、宮丸凱史(筑波大学)、森下はるみ(お茶の水女子大学)、清水達雄(東洋大学)、浅井英典(愛媛大学)、渡部和彦(広島大学)と言った先生方であった。
 私は、松井秀治先生が他の委員会委員と重複していることから、松井先生の変わりに体育科学センターの調整力専門委員会の委員として参加させてもらえることになった。委員になると年間研究費を30万円配分され、その報告書を必ず毎年提出しなければならないという義務を負うことになる。
幼児体育の分野では、名古屋大学の勝部先生が名古屋市内の幼稚園を対象に、「幼児の調整力テスト」の作成に取り組んできており、数多くの測定種目との相互関係を調べていた。その結果、「とび越しくぐり」「反復横とび」「ジグザグ走」の3種目を体育科学センター調整力テストとして定めたところであった。
体育科学センター調整力専門委員会では、「調整力とは、心理的要素を含んだ動きを規定する体力の一要素(身体資源)である」と定義した。石河先生は、「調整力」という言葉が学校体育の中で正式に用いられたのは、1968年の小学校学習指導要領においてであると記述している。この学習指導要領では、体育の目標として、全学年を通じて「各種の運動を適切におこなわせることによって、調整力を養う」と述べられており、調整力は体力の一部として位置づけられ、平衡性、巧緻性、敏捷性の3つに区分されている。いろいろな研究者が調整力について定義を試みているが、「調整力」という言葉自体にあいまいな部分が多く、言葉の定義についてはさまざまな議論が可能である。そうした言葉の定義をあれこれと議論することは、ある意味では結論のつかない回答を求めるようなものであるので、あまり深入りせず、私なりに、「幼児の場合の調整力は、やや複雑な動作を上手にコントロールしながら敏捷に動作することが出来る能力をさす。」というように単純化して考え、調整力の問題を処理しようと考えていた。
幼児を対象とした実験フィールドが見つからなかったので、1978年当時名古屋市内で子ども体操教室を開設していた三宅邦夫先生(中日子ども会)をたずねて、実験研究の協力をお願いした。最初の測定は、1979年に名古屋織物会館(なおり会館)の体育館でおこなった。この時、名古屋大学に宮下充正先生を指導教官として内地研究員として勉強していた水谷四郎先生が、4人の三重大学教育学部の学生をつれて手伝いに来てくれた。測定は、形態、調整力テスト、グランウンドランニング法による最大酸素摂取量の測定であった。しかし、対象となった子どもたちは、運動遊びを目的としてあつまった体操教室の参加者達だったので、人数も年齢も不ぞろいで、測定したデータは、統計的処理の上で問題があった。水谷先生は、三重大学の卒業生で紀伊長島の幼稚園長になった人がいるので、研究に協力できるか尋ねてみてあげるといってくれた。
私は、1978年にアメリカから帰国して、一応の研究の区切りはついていたものの、博士論文で足りなかった年齢層の子どもたちの最大酸素摂取量を測定してみたかった。最大酸素摂取量は、思春期発育スパートで大きく発達するが、この発達には幼児期からの運動の影響が強いのではないかと考えていた。
幼児期に活発な運動をおこなった場合と、あまり運動をしなかった子どもでは、体力や運動能力に差が生じ、それが生涯にわたって大きな影響を持つと考えられるのである。幼児期の運動の大切さを論じる記述は散見されているものの、それを実証するデータは、どこにも存在していなかった。そうした事実の実証データを得るためには、個人の発達の状態を追跡的に測定する縦断的研究を継続しなければならない。
幼児や発育に関する本や教育論を読んでも、あまりに情緒的、哲学的な記述ばかりがおおく、実際の科学的研究成果が蓄積されていない分野であることを強く感じていた。教育学部で、教育学を学んだが、いずれの教育学の内容も知的興味を満足させてくれる内容ではなかった。教育というものはすぐには効果を発揮しなくても数十年を経てくるとその効果がはっきりとしてくるものである。教育は100年の計といわれるが、そうしたものの考え方にたった教育論や教育実践の基礎となる学問が築かれることが必要であると考えていた。
体育科学センターの研究費では、わずかな活動しか出来ず、限界があった。そこで、子どもの体力・運動能力の縦断的研究を実施するために、文部科学省の科学研究費を申請したところ、1980年度からの採用がきまり、測定を開始することが可能となった。問題は、こうした研究に協力してくれる対象園を探すことである。水谷先生は、三重大学の同僚の先生の奥様が久居市で経営している「すぎの子保育園」、および「紀伊長島町立幼稚園」、を候補に上げてくれた。

紀伊長島を訪ねて

三重大学の講師であった八木規夫先生の案内で、1980年の夏、紀伊長島の長井芳幸園長を尋ねた。長井芳幸先生は三重大学教育学部保健体育科の第1期卒業生で、卒業後三重県教育委員会に教員として採用され、小学校の教員、および紀伊長島の社会教育活動に携わったのち、1980年から町立紀伊長島幼稚園の園長に就任したばかりであった。時に50歳、男盛りで血気盛んな熱血漢であるという噂をきいていた。三重大学の臨海学習の現地指導者として、学生達を容赦なく怒りつけるということだった。「恐る恐る」という気持ちも抱いて八木先生の運転する車で海の見え隠れする紀州路(国道42号線)を走った。「紀伊長島中州の長井芳幸先生といえば知らぬ人はいないから、行けばわかる」といった、いい加減な道案内の情報を元に、人に尋ねながら、新築されたばかりの長井先生の自宅を訪れた。
潮風の通る天井の高い和室の一室に通され、紀州弁丸出しで教育に関する情熱を語る長井先生の人柄にもふれ、全面的な実験研究への協力を受けることになった。新築された長井先生の家は紀州材で作られている。無垢の柱は、「木曾の檜が一番」と思い込んでいた、私の建築材料に対する知識は、実は何も知らないことと同じで、家作りに関してもいろいろな知識を教えていただいた。その後、家作りにも多少の知識を持つことが出来るようになったのも、長井先生との出会いが大きい。
木曾材は白いが、紀州材は赤みがかっており、材質的にも優れているということであった。長井先生の家は、柱も太くがっしりとした作りであった。この家の普請には同和の人たちがとてもよく協力してくれて、本当にありがたかったという。同和の人たちは、山の集落に住んでおり、主として林業に携わっている。長井先生は社会教育の担当で、特に同和問題にも取り組み、その人たちに感謝された話をいくつか聞かせてくれた。なぜ同和の人たちが生じたかについて、長井先生の説では、戸籍が明治時代につくられたが、この時期に戸籍の記載に漏れてしまった人たちが同和として扱われてしまったということらしい。1980年当時は、「差別のない社会」をつくることが目指され、「人権宣言」など、あちこちで同和問題が大きな社会問題となっていた。にせ同和問題が生じたのもこの頃である。
東京に育った私には、同和といってもあまり意味がわからず、同和問題の根底や根の深さも知らなかった。その後、紀伊長島に測定に通う機会に、教育委員会から同和地区に口演に言ってほしいという依頼をうけ、2回ほどA地区の公民館に口演にいったことがある。そこで、健康に関する口演を行ったり、メキシコからもってきたお土産を抽選で配ったりして喜ばれた。中部・東海地域の同和解放同盟の創設や活動に中心的な役割を果した指導者が、この地区の出身者であり、そうした指導者とも懇談するうちに、日本の社会で、差別された人々がどのような暮らしぶりをしてきたかについての知識や、どのような職業を営んできたかについて、当事者から生の話を聞くことが出来た。また、国家行事(たとえば天皇の崩御)などの際に果す重要な役割などについても知ることが出来、やがて、日本社会を形成している2重、3重の階層構造などについても知ることが出来るようになってきた。同和の人たちの連帯感は強く、「手助けが必要な時はいつでも応援しますよ」という好意的な約束事も指導者の方から頂いた。私が2度も口演に出向いたことがとても気に入られたようであった。不思議な体験をしたようにも思うが、同和の人たちが味方についてくれたら怖いものがなくなるという話にも何か真実味が感じられてくるようであった。
長井先生は、海の話が大好きである。当時、紀伊長島港は、魚の水揚げ量が日本で4番目の漁港になっており、漁業が盛んで海の男たちの生活や気性、海社会のしきたりなどについても話をしてくれた。どれもこれもこれまで耳にしたことのないような話であったので、実に興味深く、まるで民俗学の勉強に来たような思いがした。後に、幼稚園のPTAの人たちとの会合で海の男たちと話をする機会があった。漁業も近代化されるようになり、生活も安定したものになってきているが、一昔前の漁業組合があまり関与しない時には、大漁の時は1億、2億という金が一機にはいり、不漁の時は何も収入がないといった生活で、収入が安定しなかったという。しかし、それだけに大稼ぎをすることもできたようだ。今は、沖合いから仙台、東京、大阪などで取引される魚相場を知って、出来るだけ高い買値のつく港に船を走らせる。その走らせ方が勝負なのだそうである。
紀伊長島町には町立の幼稚園が一つだけで、就学前1年間はほとんどの子どもが紀伊長島幼稚園に入学する。長井先生は、我々の測定研究を受け入れると同時期に文部科学省の「体力向上に関する研究指定」を受けることにして、園児たちの体力向上に関する教育を推進することになった。
測定は、1980年10月から開始され、5ヵ月後の3月に再測定し、その間の体力、運動能力の変化の様子をとらえることになった。測定項目は、身長、体重、座高、上肢長、下肢長、頭囲、胸囲、腹囲、胸郭厚、皮下脂肪、握力、背筋力、綱引き力、両手ぶら下がり時間、腹筋運動回数、背筋運動回数、25m走、垂直とび、立ち幅とび、3歩とび、5歩とび、テニスボール投げ、飛び越しくぐり、反復横とび、ジグザグ走、3・5・7シャトル走、肺活量、最大酸素摂取量、といった項目であった。
この後、毎年10月と3月に同様な測定が繰り返され、1997年入園児まで、継続実施された。
1980~83年に紀伊長島幼稚園に入園した子どもについては、紀伊長島町立東小学校、及び西小学校進学者について6年間追跡測定を実施し、さらに紀伊長島町立紀北中学に進学した生徒を3年間追跡測定した。
すなわち、紀伊長島の子どもたちについては、6歳から15歳までの追跡測定が実施された。1980~87年には入園児が140名ほどいた。幼稚園での測定は3日間で実施できるが、中学生になると最大酸素摂取量をトレッドミルで測定するので、一日に20名が限度である、ほぼ1週間「民宿あずま」に泊り込んでの測定となった。
測定のスタッフには、名古屋大学から、助手時代の桜井伸二、研究生の小松佳世(のちに桜井佳世)蛭田秀一、島岡みどり、の諸氏が加わったが、もっとも重要な役割を演じてくれたのは、三重大学の水谷四郎、脇田裕久、八木規夫、長井健二、並木洋子の諸先生であった。三重大学の学生も10年間で毎年15名ほどが手伝ってくれた。そのなかには、後に東京大学の助手となり、現在三重大学の助教授になっている杉田正明学生の姿もあった。
測定は紀伊長島に留まらなかった。上半身裸保育を実施している久居市のすぎの子保育園(大西末野園長)、1983年から開始した三重大学教育学部附属幼稚園(牛尾秀子園長)、1981年の浜松市のあすなろ幼稚園(坂本 清園長)、1982年の高山市の高山短大附属幼稚園(中村好明園長)などに出向いて測定をおこなった。特に三重大学教育学部附属幼稚園の卒園児(1986~89)については、附属小学校に進学した全卒園児、およびその後教育学部附属中学校に進学した卒園児について中学3年生までの追跡測定を遂行し、1997年にすべての測定を完了した。最大酸素摂取量の延べ測定回数は、軽く1万回を超え、教員および研究スタッフは13名、三重大学の学生協力者として参加してくれた総学生メンバーは150名に達した。それぞれの測定には、さまざまなドラマがあった。
1991年3月に三重大学を定年退職される水谷四郎教授(教育学部長)に感謝する意味も含めて、総ページ数294ページの「幼児の発達運動学」(ミネルヴァ書房)を発刊した。この本には、この間に測定したデータを総結集させるとともに、幼児の体力・運動能力に関する標準値を作成して掲載した。本の中身は、しっかりしたものであるが、肝心の最大酸素摂取量に関する記述は少ない。1982年に発刊した「日本人のエアロビックパワー」(杏林書院)の続編を出版する際にそれらの研究データを掲載しようと思う。測定資料は、ダンボール箱と透明な収納ケースおよそ50個以上に収められており、これに日の目を当てることが、大きな仕事として残っている。