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高所トレーニング環境システム研究会について

高所トレーニング環境システム研究会について

日本陸上競技連盟では、1990年から本格的な医科学サポート陣容を整えて高所トレーニングに取り組んだ。当時は「高所トレーニング」という語を用いたが、高層ビルディングにおいても「高所恐怖症」などという言い回しで「高所」という語が使われるので、「高地トレーニング」という方が良いだろうということで、途中から日本オリンピック委員会や日本体育協会では「高地トレーニング」に統一された。平成3年(1991年)には、「日本体育協会スポーツ医・科学研究プロジェクト」として、順天堂大学の青木純一郎先生を班長とする「高地トレーニング医・科学サポート研究班」が組織され、冬季スポーツを含めた形で、オリンピック選手や強化指定選手を対象にした研究とサポート活動が開始され、サポート研究活動は、その後平成13年まで、11年間に渡って展開された。陸上競技(小林寛道)、水泳競技(若吉浩二)、スキー競技クロスカントリー(吉本俊明)、スキー競技ノルディック複合(川初清典)、スケート競技スピードスケート(前嶋 孝)、バイアスロン競技(米田継武)、低酸素施設利用(村岡 功)がそのメンバーである。これらの研究成果は、毎年の研究報告書のほかに、「高地トレーニング~ガイドラインとそのスポーツ医科学的背景」(㈶日本体育協会 発行)にまとめられた。これらの活動と成果に対して、平成17年には、第8回秩父宮記念スポーツ医科学賞奨励賞が授与されている。
 日本オリンピック委員会に委託事業である日本体育協会の「高地トレーニング医・科学サポート研究」とは別に、私は「高所トレーニング環境システム研究会」を発足させた。これには次のような経緯がある。
1996年に竹中工務店の木村興三さんが、駒場の研究室を訪ねてこられた。用件は、「低酸素環境で運動したときに、どのような効果があるのか教えて欲しい」ということであった。   私は、大学3年生のとき、当時大学院生であった林 裕三さんの被検者になって、低酸素を吸ってトレッドミル上を「オールアウト」まで何回も走った経験があった。また、東邦大学医学部の朝比奈一男先生のところに勤めていた中川功哉さんや浅野勝巳さんの実験の被検者として、立川市の航空自衛隊基地内にあった航空医学実験隊の低圧室にトレーニング被検者として通ったこともあった。こうした経験を持っていたので、低圧低酸素環境や、低酸素を吸入してトレーニングすることにはなれていた。しかし、今回の話は、気圧は通常の1気圧のまま、空気の成分を変えて低酸素状態の空間を作り、そのなかで滞在したり、運動したりすることの効果を知りたいということであった。
外国では、低酸素の状態を作るのに、普通の空気に多量の窒素を混入させる方法をとっていた。このことから、外国では低酸素室を「ナイトロジェン・ハウス(窒素室)」という表現で呼んでいる。しかし、低酸素を造る方法として、新たに「膜分離方式」というものが開発されたという。この方法は、通常の空気を取り込んで、膜フィルターを通過するうちに酸素分子が取り分けられ、酸素濃度の少ない空気と酸素濃度が濃い空気が同時に精製されるという画期的なものであるという。
木村さんは、低酸素の空間としてかなり大規模なもの想定しているようであった。話を聞いていくうちに、「そのような装置はどこにもないので、実験装置を作ることは出来ないか」と問いかけてみた。木村さんは「検討してみます」といって、帰っていった。しばらくたって、木村さんは、長さ50m、幅3m、高さ3mの低酸素空間をテントで囲む案を持ってきた。私は、この計画は面白いと思って、後々選手強化にも役立つことであるから、どこか選手強化を目標にする大学に設置して研究すると有意義であると思った。そこで、日本体育大学に設置してはどうかと、日本体育会理事長の高嶋 冽氏(当時)に話をもちかけた。しばらくして高嶋理事長からの返事は、「適当な場所がない」ということであった。そのほかの大学にも2、3の心当たりを当たったが、いずれも「そんなスペースの余裕はない」ということであった。そこで、駒場キャンパスのどこかに作ることを考えた。いろいろと場所を考えてみたが、適当なところが見当たらず、結局、身体運動科学研究棟の南側にある広場に設置することを教室会議で認めてもらった。この場所は、アスファルト敷きのテニスコート1面が取れるスペースで、昔は体育科の教官たちが愛用する絶好のテニスコートとして、体育科内テニストーナメントが行なわれていた場所である。体育科全員が集まれる教員室のような控え室の窓からテニスの観戦が行われ、黒田善雄先生、平田久雄先生、渡辺 融先生、石川 旦先生、福永哲夫先生たちが、プレイヤーをさまざまに評価することを楽しみにしていたようだ。助手として井上洋一さんが採用されてからは、一段とテニスのランキング争いが激しくなった様子であった。
しかし、この頃(平成5年)には、職員テニスコートが山手通り沿いに作られていたため、体育科教官の優先テニスコートの存在理由は薄らいでいた。
東京大学では、環境の保全や一度建てたプレハブなどの管理がずさんで、その後の土地の権利を主張して建物の取り壊しや移転に支障を生じているなどの経験から、平成5年頃からは余計な建物は建てさせないという方針が作られていた。低酸素の実験装置を屋外に作るに当たって、身体運動科学研究棟の管轄区域であり、将来計画にも支障がないということを主張して、様々な制約条件を何とかクリアーして環境委員会や大学本部に設置を認めてもらった。
この頃、私は駒場寮の廃寮に関わる三鷹国際学生宿舎特別委員会の委員長として学生の対応に身を削っていたが、そんなこともあって、私の申し出にはなんとか便宜を図ってあげようという気持ちが、事務方の人たちにもあり、好意的な形で、実験テントの設営が認められたように思う。当初は、50mの走路を持った低酸素テントを設置しようとしたが、どうしても無理なので、30mの直走路と、外から入る玄関に相当する4㎡ほどの前室、および機械室を備えた長さ35m、幅3m、高さ3mの規模のものとなった。この設置工事は、竹中工務店の木村さんの尽力で大学の費用は使わず、すべて無償で行なわれた。テント内の走路は、長谷川体育施設㈱のご好意で全天候用のウレタン走路が設置され、テント装置は三機工業㈱、低酸素発生装置はタバイエスペック㈱によって提供された。
この低酸素テントを「低酸素環境走路」と命名し、テントの表面に「低酸素環境走路 実験用テント 1998.12」と表示した。このような大規模はテント装置による低酸素環境室は、世界にも類がなく、アメリカのジャーナリストも取材にきたほどである。読売新聞やデイリーヨミウリにも掲載された影響であると思われる。 
この低酸素環境走路は、標高3500m(14.6%O2)までの低酸素状態が確保できるのもので、低酸素環境でのランニングが可能である。
 このころ、世界では、「リビングハイ、トレーニングロウ:Living High, Training Low」の考え方が支持されるようになり、高地滞在を意図した「滞在型の低酸素環境室」が考え出されていた。この装置はフィンランドのヘイフキ・ルスコ博士によって「アルプスルーム」という名称で開発された。その装置は、窒素ガスを空気に混入させるもので、1993年に発表され、標高2500m(15-16%O2)に保つことが出来るものであった。
外国には、低酸素環境は滞在するものである考え方があり、ことごとく「リビングハイ、トレーニングロウ」の考え方に凝り固まっていた。しかし、私は、低酸素環境は、滞在するものではなく、トレーニングに利用する環境であると思っている。

低酸素環境で積極的なトレーニングを実施した最初の人は、スピードスケートのコーチでもある専修大学の前嶋 孝教授である。前嶋氏は、日本のスケート界を世界的水準に引き上げた初のオリンピックメダリストである黒岩 彰選手の先生であり、専修大学のスケート選手を対象に次々に新しいアイディアを実現させてきた創意工夫の人である。私が最も感心したのは、足の短い日本のスケート選手をどうしたらオリンピックや世界選手権大会で優勝させることが出来るかという工夫のなかで、スケート靴のエッジの使い方を工夫して日本人が勝てる滑りのテクニックを見出したことである。さらに加えて、その技術を身につけるために、夏でもトレーニングが可能なようにローラーが一列に縦に並んだローラースケートを発明し、コンクリートのトレーニング場でローラースケートのトレーニングを取り入れたことである。そうした技術トレーニングに加えて、持久力を高めるために、常圧低酸素環境に滞在してトレーニングを行なうために、簡易型の低酸素テントを手作りで開発し、選手をそのテントに8時間寝かせて、昼間は通常の環境でトレーニングを行なった。この装置は、ルスコ博士たちが考えた時期とほとんど同じで、お互いに何の情報を持っていなかった。前嶋氏は、低酸素環境に選手を寝かせている間、なにか起こってはいけないと思い、自分は眠ることができずに選手を見守っていたという。
 日本体育協会の委員会の席上で、「低酸素環境で運動するべきだ」という私の意見も参考にしてもらえたのだろう。やがて、前嶋氏は低酸素空気をマスクで吸入する方法で自転車エルゴメータを漕ぐ運動を積極的に用いるようになった。長野で開催された冬季オリンピックでは、民家を借り切って低酸素環境室を作り、選手を合宿させ、教え子の白幡圭史選手が長距離種目(5000m)で日本人初の7位入賞を果たしている。
 低酸素環境を用いたトレーニングの最初の実績は、前嶋氏が最も優れたものを持っている。近年では、マラソンランナーの谷川真理さんが主管する「ハイテクスポーツ塾」(2002年開設)において、スプリントトレーニングマシン、車軸移動式スプリントパワーバイク、高速トレッドミル、低酸素環境室の組み合わせで、ランニングパフォーマンスを向上させているが、長距離ランナーのトレーニングでは、「低酸素環境室」でのトレッドミルランニングが重要なトレーニングメニューに取り込まれている。
東京大学に、低酸素環境走路が完成する前年に、「高所トレーニング環境システム研究会」を発足させた。発足当時もメンバーは、会長小林寛道、副会長前嶋 孝、専門委員会委員は、浅野勝巳、大貫義人、川初清典、川原 貴、杉田正明、高岡邦夫、村岡 功、安田好文、山西哲郎、の11名であった。幹事は大学院生の禰屋光男とした。当時、高地トレーニングや低酸素トレーニングに実際的に取り組んでいたメンバーは、日本国内で10数人しかいなかった。
この研究会の最も重要な活動として、毎年1回国際シンポジウムを開催することにした。国際シンポジウムといえば大げさであるが、ヨーロッパで会議が開催されると2~3カ国以上の国からシンポジスが集まれば「国際シンポジウム」となるのだから、われわれの場合も、日本以外から2名の外国人ゲストスピーカーを招待すれば「国際シンポジウム」と呼んでもおかしくないという論理である。外国から、この道の最も著名な研究者や指導者、実績のあるコーチ、最先端の知識や経験を持つ人を招待することにした。いちいち外国に出かけて議論するよりも、招待してじっくり話を聞き、相手の考えの本質を捉える方が、よほど参考になる部分が多い。それに、若い研究者たちが外国の著名な研究者とじかに話が出来る機会を作りたいという意図もあった。また、わが国では、「国際シンポジウム」「国際会議」を開催することによって、様々な財政的支援を受けやすいというメリットもある。
 「第1回高所トレーニング国際シンポジウム‘98群馬」は、1998年3月28,29日に群馬県松井田町立文化会館で行なわれた。大会委員長は群馬大学の山西先生であった。
 この記念すべき大会の冒頭に、私は次のように挨拶した。
「高所トレーニングは、一部のエリート選手のためばかりでなく、幅広い年齢層の人々やいろいろなレベルのスポーツ選手にとっても身近なものになりつつあります。また、陸上競技中長距離、マラソン、水泳に限らず、高所トレーニングの有効性は多くのスポーツ種目で認められつつあります。一方、人工的な低圧、低酸素環境を用いたトレーニングも行なわれるようになって来ました。そこで、高所自然環境および人工的高所環境システムを用いたトレーニングに関する情報の交換や、高所環境での適切なトレーニングのあり方等について、スポーツ医科学の立場から研究・検討するとともに、その成果を社会に還元し、スポーツとスポーツ医科学の発展に寄与することを目的として「高所トレーニング環境システム研究会」を平成9年(1997)11月に発足させました。
 第1回の国際シンポジウムを自然に恵まれた群馬県において内外の高所トレーニングの研究者や実践者をお呼びして開催できることは大変意義深いことであると思います。特に外国からは、恵まれた高所トレーニング施設とそれを利用した実際的研究実績が豊富な中国国家体育研究所の翁 慶章先生、および、近年低酸素室を用いたトレーニングで競技成績を高めて注目されているアルプスルーム設計者であるフィンランドオリンピックスポーツ研究所長のヘイフキ・ルスコ博士を招請しました。この大会を通して、高所トレーニングの認識を高めるとともに、参加された方々との交流を深めたいと考えております。最後に、この大会の開催に当たってご協力をいただいた地元松井田町をはじめ関係各位、および関係諸団体の方々にお礼申し上げます」
この大会には178名の参加があり、協賛企業も20社を数えた。この国際シンポジウムには、多くの新聞記者やテレビ局が集まった。それは、この年、長野新幹線が開通して、信越本線が廃線となり、横川・軽井沢間をむすぶトンネルを低酸素環境トレーニング施設に改良して、碓氷峠を一大スポーツ拠点にしようという構想を打ち上げたためである。この構想は、竹中工務店の木村興三氏や、安井 泉氏が、かねてから練っていた案で、地域の活性化を意図したプランの提案でもあった。
トンネルの視察では、予想を超える大人数が集まり、われわれが動くとカメラの放列も一緒に移動するといった大変なことになった。NHKをはじめ、マスコミ各社がこの構想や国際シンポジウムの開催に興味を持ったようだ。ちなみに、松井田町は、「安政遠足」で知られる「日本マラソン発祥の地」とされ、ここで高所トレーニングを積んだ選手がオリンピックで活躍するという構図は、それなりに価値があるように思われた。
その後、国際シンポジウムは、毎年開催され、今日に至っている。平成19年には10月に下呂市民会館と飛騨御嶽高地トレーニングエリアで開催される予定である。これまでの開催された内容を記してみると、次のようになっている。

高所トレーニング国際シンポジウムの開催経過

1 第1回 ‘ 98群馬 大会会長:山西哲郎(群馬大学)
 期日:平成10年3月28日(土)、29日(日)
 場所:松井田町立文化会館(群馬県碓氷群松井田町)
外国招待講師:Heikki Rusko(フィンランドオリンピックスポーツ研究所)
       Weng Qinzhang(翁 慶章)(中国国家体育科学研究所)

2 第2回‘ 99つくば 大会会長:浅野勝己(筑波大学)
 期日:平成11年2月27日(土)、28日(日)
 場所:筑波大学大学会館ホール(茨城県つくば市)
 外国招待講師:J. Stray-Gundersen(テキサス大学メディカルセンター・USA)

3 第3回‘ 99立山 大会会長:山地啓司(富山大学)
 期日:平成11年7月23日(金)、24日(土)
 場所:富山県女性総合センター(富山市湊入船町)、立山高原ホテル(中部山岳国立公園天狗平)
 外国招待講師:Jack Daniels(ニューヨークカレッジ州立大学・USA)
    Richard D. Telford(グリフィス大学ゴールドコースト校・オーストラリア)

4 第4回 2000上山 大会会長:大貫義人(山形大学)
 期日:平成12年7月21日(金)、22日(土)
 場所:月岡ホテル(山形県上山市)、蔵王坊平アスリートヴィレッジ
外国招待講師:Benjamin D.Levine(テキサス大学サウスウエスタン医学センター・USA)
        Hermann Buhl(パークヘーエスポーツ医学センター・ドイツ)

5 第5回 2001飛騨     大会会長:佐々木秀幸(早稲田大学)
 期日:平成13年8月17日(金)、18日(土)、19日(日)
 場所:飛騨・世界生活文化センター(岐阜県高山市)、ホテルアソシア高山リゾート(岐阜県高山市)、チャオ御岳スノーリゾートセンターハウス(岐阜県高根村日和田)
 外国招待講師:Liu Haiping(劉 海平)(青海省体育科学研究所・中国)
        Rymantas Kazlauskas(オーストラリア政府分析研究所)

6 第6回 2002東京 大会会長:川原 貴(国立スポーツ科学センター)
 期日:平成14年8月23日(金)、24日(土)
 場所:国立スポーツ科学センター
 外国招待講師:Chris J.Gore(オーストラリア国立スポーツ研究所・AIS)

7 第7回 2003飛騨御嶽 大会会長:小林寛道(東京大学)
 期日:平成15年8月22日(金)、23日(土)
 場所:燦燦朝日館(岐阜県朝日村)、チャオ御岳スノーリゾートセンターハウス(岐阜県高根村)
外国招待講師:Katja Heinicke(カリフォルニア大学サンディエゴ校医学部生理学講座)

8  第8回 2004東京 大会会長:川原 貴(国立スポーツ科学センター)
 期日:平成14年10月23日(土)、24日(日)
 場所:国立スポーツ科学センター
 外国招待講師:Randy Wilber(アメリカオリンピックトレーニングセンター)
        John Hellemans(ニュージーランド)

9  第9回 2005 in 飛騨  大会会長:小林寛道(東京大学)
 期日:平成17年8月25日(木)、26日(金)、27日(土)
 場所:飛騨・世界生活文化センター、
飛騨御嶽高地トレーニング場(チャオ御岳スノーリゾート)(岐阜県高山市)
 外国招待講師:Randy Wilber(アメリカオリンピックトレーニングセンター)
        Philo Saunders(オーストラリア国立スポーツ研究所・AIS)
        Natalie Harlan(ノーザンアリゾナ大学)

10 第10回2006東京  大会会長:川原 貴(国立スポーツ科学センター)
期日:平成18年10月14日(土)
 場所:国立スポーツ科学センター
外国招待講師:Paul Robach(フランスシャモニー国立スキー山岳学校)