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第17回愛知厚生年金会館での高齢者健康教室1980~1988

第17回.愛知厚生年金会館での高齢者運動指導
       (2007年 執筆)(2019年8月 体力テストおよび写真を加筆編集)

愛知厚生年金会館が、名古屋市の地下鉄東山線池下駅に隣接して建設されたのは昭和55年(1980年)である。厚生年金に関連した潤沢な資金を生かして、日本各地に厚生年金会館(東京、大阪、名古屋、札幌、滋賀、岐阜、・・)や保養施設としての厚生年金休暇センターが次々に建設され、比較的安い料金で高級な施設を利用できる極めて恵まれた環境が整えられつつあった。社会保険庁の外郭団体に、年金加入者と受給者のための厚生福利事業を展開することを目的とした財団法人「厚生団」という組織が作られており、厚生省や社会保険庁、および関連の公的機関からの天下り先として役員が送り込まれていた。
愛知厚生年金会館には、体育施設として地下1階に300㎡ほどの広いアスレチック施設が整えられ、独立の建物としてバドミントンコートが3面とれる広さのフロアーをもった立派な体育館が建てられた。
愛知厚生年金会館の建設工事が進められている折、準備室担当の安田支配人と設立準備室の三浦さんが名古屋大学の松井先生を尋ねてこられ、今度設置するアスレチック施設に導入する機器の選択や、配置について相談に乗って欲しいこと、アスレチックジムが完成した後、これを運営する上でのアドバイザーとなって欲しいこと、体育施設を利用して文化教室を開設したいので、講師を紹介して欲しいこと、高齢者を対象とした健康指導教室を開設するので、指導をお願いしたいこと、など、いくつかの要望を持ってこられた。
松井先生は、すぐに私を同席させ、「これらのことについて小林君が具体的には担当するので、大丈夫です」とすべての要望を引き受けられた。早速、私は愛知厚生年金会館の建設工事現場に案内され、大掛かりな施設が出来る途中経過を目の当たりに見る機会を与えられた。
この頃、私は岐阜県多治見市に50坪ほどの土地に立てられた平屋の建売住宅を昭和47年に購入して家族5人で住んでいた。愛知厚生年金会館が出来ると、アスレチックジムの指導に週2回夜7時から9時まで勤務しなくてはならなくなるので、多治見から通うことは無理になる。今は、多治見は完全に名古屋の通勤圏として電車の本数が増えているが、当時は国鉄千種発、夜8時6分の快速電車に乗れなければ9時21分の南木曽行きの電車となり、その後は10時47分の美濃太田行き、そして0時過ぎの夜行列車という不便さであった。途中の高蔵寺駅まではその間の時間帯に電車があったが、多治見というと、愛知県をこえて岐阜県に入るので通勤のための住宅地は高蔵寺までという感覚が普通であった。
なぜ、そんな不便な多治見市に建売住宅を購入したかというと、昭和52年までには名古屋大学の前を通る地下鉄が完成する計画が発表されており、千種駅と名古屋大学前との交通も便利になるので、多治見も通勤圏として不便ではなくなるという読みがあった。中央線の車窓も高蔵寺から先の庄内川沿いの古虎渓が四季折々に美しく、毎日古虎渓を見ながら多治見市に抜けるという通勤ルートも良いのではないかと考えた。川沿いに走る愛岐道路(有料)もくねくねとして崖も垂直に切り立っており、観光道路としての風情も充分であった。引っ越し当初は、こうした自然の風景を味わいながら通勤することに喜びを感じていたが、大学の仕事が非常に忙しくなり、こうした通勤にともなう時間のロスは、どうしても身体に疲労を蓄積させる結果を招いていた。通勤も車を使うようになり、満タンにしたガソリンも3日で空になる状況であった。高速道路を毎日利用すると、その出費もかさんだ。
さらに、第8回国際バイオメカニクス学会大会の準備も重なり、いくら時間があっても仕事をこなせない状態にもなっていた。
愛知厚生年金会館の仕事を引き受ければ、さらに忙しくはなるが、通勤時間が10分程度に短縮できれば、その分仕事に集中することが出来るし、厚生年金会館からいただけるアルバイトのお金で、何とか住宅ローンも支払っていけるのではないかと考えて、大学の裏手に当たる東山公園内の傾斜地を利用して建設中であった戸建住宅を購入して転居する決心をした。こうして、愛知厚生年金会館の仕事が増えても、何とかこなせる体制をととのえた。

財団法人「厚生団」が、高齢者開発事業のひとつとして、厚生年金受給者を対象として開設することになった「健康指導教室」は、医師、保健婦、栄養士、運動指導者が、お互いの領域を活かし、高齢者の心身の健康と体力の保持・増進を図る目的を持ったものであった。男性60歳、女性55歳以上が厚生年金の受給者であり、「健康指導教室」は、2週間に1回、2時間、20回開設するものであった。内容は、運動指導を中心とした総合的な健康指導を目指すものであるが、講師スタッフには、医師、保健婦、栄養士、運動指導者が加わった形となることが義務付けられていた。
運動指導は私がやるとして、医師については名古屋大学総合保健体育科学センターの保健科学部助手の近藤孝晴先生にお願いした。保健師は刈谷市保健所の現役である梶野友子さん、栄養士は豊田自動車で働いていた管理栄養士の奥村久美子さんがスタッフに加わった。(2期目からは、保健師は高見たつ子さんに交代)。
第1期生として、40名が受講生になり、「健康指導教室」が開始された。
4人の指導スタッフとは別に、愛知厚生年金会館の小田和利君、女性職員、事務の三浦さんが教室運営に当たった。
毎回の教室では、近藤先生と保健師の梶野さんによる、健康状態のチェックや健康相談がおこなわれ、実際の運動に入った。
高齢者(厚生年金受給者)を対象として、運動の実際指導をおこなうことは、指導者側に立ってみると、なかなか勇気の要ることであった。長い間、運動することのなかった高齢者が受講者の大部分を占めているからである。
初年度には、体育館でおこなわれる1回1回の教室が終了するたびに、運動指導者としての緊張感と、受講者に生気をすっかり吸い取られたような感覚とが重なって、ぐったりと疲労する状態が続いた。これは、自分だけの感覚かと思っていたが、高齢者の運動指導に当たっている人たちは、皆さん同様な感じを味わっているという現実を理解できるようになった。
運動を指導するものにとって、高齢者が一体どの程度の運動を実施できる体力的なものを持っているか、ということがわからないことに大きな不安を感じるのである。そして、突発的な危険や事故はいつでも起こりそうな気がする。そうかといってあまりにも消極的なことに終始すると言った考え方にも賛成しかねるのである。運動に関する書物に当たってみると、高齢者の身体的・体力的弱点を指摘するにとどまっており、高齢者の運動指導に対する実践経験を踏まえた記述が、著しく少ないという現状に突き当たった。
愛知厚生年金会館で行なった健康指導教室は、(財)厚生団の教室開設趣旨に沿ったものであった。他の教室の実際の運動指導教室での医師、保健師、栄養士、のかかわり方を調べたところ、医師は病院長のような人がメンバーとなり、事故が起こったときの対応が配慮されている程度であり、医師の代わりに看護師が血圧を測定したり、事故に備えて待機している役目としてとらえられていた。保健師は、生活指導の講義をし、栄養士が食事指導をするといった内容であった。実質的には、運動指導者が、大勢の高齢者を相手に運動を行なわせるといった教室運営がとられているところがほとんどであった。

2007年の今日になってみると、25年以上前(1980年)にだされた、厚生年金受給者を対象とした健康指導を、医師、保健師、栄養士、運動指導者が協力して取り組むようにという企画は非常に新鮮であり、そのための予算付けも行なわれたことは画期的であった。全国の厚生年金会館や厚生年金休暇センターを会場にして実施された「健康指導教室」の指導者の研修会が年1回行なわれた。第1回目が千葉、第2回目が名古屋、第3回目が大阪、第4回目が三重で行なわれた。この研修会の座長は、東京学芸大学教授の小野三嗣先生であった。その時は、なぜこんなところに小野先生が関わっておられるのか不思議な気がした。しかし、よく考えてみると、こうした進んだ考え方を提案して、役所を動かしてそれに予算付けするまでに至ったのは、政治力のあった小野三嗣先生の尽力によるところが大きかったのではないかと推察できるのである。小野先生は東京慈恵会医科大学の出身で、日本体力医学会の理事長を務めており、医学と運動の関係を結び付けようと努力されていた。そうした努力の現われとして、医師、保健婦、栄養士、運動指導者の連携を企画されたのではなかろうか。医師、保健師、栄養士(管理栄養士)は国家試験に基づいた資格があるが、運動指導者については国家試験に基づく資格制度が何もなく、その状態はいまも続いている。高齢者の健康増進に、国家資格のない運動指導者が関わることに、かなり大きな抵抗があったことが伺われる。2006年から厚生労働省は、「1に運動、2に栄養、しっかり禁煙、最後に投薬」という標語を掲げて、生活習慣病の予防やボリックシンドロームの改善に取り組み始めたが、ここではじめて体育系大学での健康運動指導士資格の養成に関する単位認定が可能なような制度改革に着手している。
小野先生は、高齢者対象の財団法人厚生団の体力テスト作成小委員会の座長となり、昭和58年度に健康指導教室体力テスト(厚生団)を作成し、厚生年金会館での運動指導教室の効果を測定する試みが開始された。
 高齢者にとっての体力を考えると、①日常生活を行うのに必要とされる体力、②生活を十分エンジョイできるための体力、といった、いわば人間として必要な体力を、長い年月保持し続けられるようにすることが、重要な意味を持っている。このことは、若いスポーツ選手が自己の体力の最高限界を高めようとしてトレーニングすることとは本質的に異なった意味を持っている。
 この高齢者体力テストでは、目標値を比較的低い水準に設定し、その水準を超えればよい、という考え方に基づいている。また、体力テストそのものが運動となり、同時に楽しさを感じられるように意図されている。

種目は、①握力(右手で5回連続して最大筋力を測定する。各回の間隔は10秒間。次に左手で5回行う。)

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②飛行機(伏臥姿勢をとり、両手を左右に伸ばし、両足をそろえて伸ばした姿勢から、背をできるだけそらして、顎と膝が床から離れるようにして、5秒間飛行姿勢を保持する。10秒間の休みを挟んで、5回連続して行う)

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③伏臥上体そらし(伏臥姿勢を取り、両手を腰にあて、ゆっくりと顎を床から離し、上体をそらせる。介助者はふくらはぎを抑える。30㎝以上は行わない。)

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④足習字(両足を伸ばして座った姿勢から、膝を曲げずに足先をあげ、足先で、空中に大きく数字を書く。手は体の後方の床について、体が後ろへ倒れないように支える。数字は、1,2、・・・と連続して書いていき、足は床につけない。最高15まで。)

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⑤長座体前屈(両足をそろえ、できるだけ膝と足首を伸ばした姿勢をとる。両足を前方でそろえ、足先に向かって手を伸ばす。
⑥その場足踏み(立位で両手を軽く握り、肩の高さで水平に前方に伸ばす。閉眼でその場足踏みを50回行い、その時の足の移動距離と方向を記録する。膝は、太ももが45°の角度ぐらいまで上げるようにする。)

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⑦棒反応時間(1㎝ごとに目盛りを付けた、直径18mm、長さ70㎝のビニール製中空パイプを用いる。パイプの下から10㎝のところをゼロとする。被験者は、聞き手の前腕部を机の上に置き、手首から先を机の角から出して指先を2㎝話すようにして、棒をつかむ構えを作る。検者は、棒の先端をもって、棒の目盛りがゼロのところが被験者の親指と人差し指で作られた弧の上縁と同じ高さとして、スタート準備とする。被験者は棒を注視して、棒が落下し始めたら、できるだけ早く棒を握る。棒を握りしめた手の上縁に相当する目盛りを読む。5回繰り返す。

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⑧5分間の歩または走(1周80m以上のコースを5分間歩くか、または走ってその距離を測る。

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小野三嗣先生は、2007年春になくなったが、運動医学の実践場面で道を開かれた先駆者ではないかと、改めて懐かしさを覚えるのである。小野三嗣先生は、べランメイ調で話をされるので少し変わった感じがするし、講演を聴いてもいつも同じ内容で新鮮味があまり感じられなかった。話の内容も大衆受けを狙った感じで、アカデミックさに欠けているように受け取られた。しかし、小野先生のバイタリティーには素晴らしいものがあり、体力科学という学会誌一冊に掲載された原著論文数編のすべてに小野先生の名前が入っており、体力科学を「小野論文雑誌」と別名で呼ばれる一時期すらあった。小野先生は、小野財団を作って若い人たちの研究費を助成されてきたが、「平均値とその標準偏差から外れたような研究に助成金を出す」という変な条件を公言されていた。今になって考えてみると、私自身、小野先生が考えておられた視点をよく理解できる段階に成長してきたようにも思われる。
東京大学大学院で同期生であった生田香明君は、学芸大学の小野先生の研究室の出身で、いつも小野先生を尊敬する言葉を口にしていた。

愛知厚生年金会館での運動指導教室で行われた、運動の内容は、全体が2時間30分の教室で、はじめの30分は血圧や脈拍測定、5分連絡事項、15分講話(医学、体育、栄養、社会福祉、生活習慣など)、30分ストレッチを主とした健康体操、10分輪投げ、30分(卓球、バドミントン、フォークダンス、フリスビーなどの軽スポーツ)、30分ソフトバレーボール(ゴム製の大きくやわらかいボールを使用)、5分整理体操、というものであった。

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近藤先生は、私が高齢者に運動指導する様子を、当初はハラハラして見ておられたようで、「小林先生、死人だけは出さないようにお願いします」といわれた。受講生たちも、近藤先生が傍にいるから安心して運動に取り組めるということがあり、近藤先生が毎回教室に参加してくれることは、指導者の私にとっても非常に安心であった。
この「健康指導教室」は、保健師さんの交代はあったが、10年以上継続し、毎年の卒業生が「すこやか健康フレンドシップ」という自主的運動サークルを作り、「健康指導尾教室」で学習した内容を踏襲しながら工夫を凝らし、立派な高齢者運動サークルに育った。このサークルの指導者が第1期卒業生の浜田 貢氏である。浜田氏は、非常に優れた指導力のある人格者であった。この活動の運動指導者として近藤先生と私が引き続き参加した。昭和59年度からは2組、昭和61年からは3組の編成となり、実質活動人数が平成3年には261名となり、平成3年(1991)に10周年記念パーティーが開催された。記念誌として「健康を拓く-高齢者10年の記録」が出版された。ここに10年間の詳細な記録がとどめてあり、毎年おこなわれた体力テストの結果も掲載されている。
バドミントンの指導には、1968年度ダブルスで世界チャンピオンとなった天野博江先生に特別講師として指導に来ていただいた。このお陰で、シャトルコックにラケットが全くあたらなかった人たちも大変上手になり、私もかなわないような水準に多くの人が達してしまった。高齢者の上達振りは素晴らしいものであるが、年齢にかかわらず、あれだけトレーニングすれば無理なく上手になっていくことの見本を見る思いがした。

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私は、1986年に名古屋大学を離れたが、愛知厚生年金会館で送別パーティーが開催された。会館の特別な配慮があり、会費のわりには一人一人に立派な鯛がならべられた。愛知厚生年金会館で高齢者の指導を行っている姿が、中日新聞に掲載されたが、その記事は、「東海の頭脳」の連載であった。なぜか私が東海の頭脳の第1号として評価された。その理由は、大学の知性を実際社会で身をもって実践している姿が評価されたということだった。1986年4月に東京大学に移ってからも、毎週水曜日には新幹線にのって、健やか健康フレンドシップの指導に出かけた。一日3コマの指導を終えて帰りの新幹線に乗ると、ほとんど意識がなくなるほど眠りこけた。こうした努力も3年しか継続しなかった。東京での仕事が忙しくなり始めたからである。

この健康指導教室では、年1回バス旅行なども行われた。

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また、ほかの施設で行われている健康指導教室との合同交流会も行われた。

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スポーツを中心とした「高齢者の健康指導教室」は、愛知厚生年金会館だけであり、埼玉では体操とレクリエーションゲームを中心としたもの(牧野先生)、熊本では「楽しい遊び」を中心とした運動(大塚先生)、大阪では「ダンス」(松本廸子先生、河野先生)、千葉では「体操、健康運動、レクリエーション」(篠田基行先生 元国際武道大学教授)が中心であった。
(*私は、篠田基行先生は、高齢者を対象とした健康運動実践指導者として、わが国で最初の人、すなわちパイオニアであると考えている。それ以前には、そうした分野での指導者はいなかったと思われる。篠田先生の高齢者に対する懇切丁寧な運動指導には、啓発されるところが多かった。篠田先生は、1993年に「長寿ライフと健康運動」、1996年に「健康運動の意識革命」、を出版している。専門は体育哲学で、ヒューマニズムとスポーツ思想に関する論集などがある)

 私は、近藤孝晴先生と共著で、1985年に「高齢者の運動と体力」(朝倉書店)を出版した。高齢者の実際指導にもとづく内容や、それまでに蓄積してきた研究データを盛り込んだ本としては、わが国では最初の出版物ではないかと思われる。この本は、現在(2019年)に至っても発売されている。この本を出版した頃から、小林先生は、「高齢者体育の専門家」という評価を受け、全国から口演の依頼が多く寄せられるようになった。

高齢者と運動本の表紙


その後、私は、陸上競技連盟の競技力向上に力を注ぐことになる。しばらく高齢者の体力問題は、お休みすることに決め込んだ。このあと高齢者に関する研究のブームが湧きあがり、多くの研究者がこの問題に本気で取り組むようになってきたからである。そうすれば、安心して次の課題に取り組むことが出来る。私は、どうしてそうなるのかわからないが、時代が要請する課題の先端を切り開く役割を担っているかもしれないと思うことがある。
高齢者問題には、2007年現在、介護予防の問題も含めて、再び本気で取り組みを開始している。高齢者を対象にした研究と実際指導してきた10数年の経験からすれば、人間の加齢による影響は、生活習慣や身体をどのように活動させるかという後天的な智恵によって、かなりの程度改善できるという可能性が高い。20数年前からさらに発展した方法や智恵が、広く世間に受け入れられるかどうかが、現在の課題なのである。

この健康指導教室は、OB会「すこやか健康フレンドシップ」という名称で、その後自主的な活動に入った。リーダーの浜田貢氏(左端)、副会長の沖田完三氏(左から3人目)、角田氏、中島氏、幹事の岩月氏(右端)は、良きフレンドシップ精神を発揮して会員をリードされた。

フレンドシップ役員撮影