日本の陸上競技の歴史を考える場合に、フレデリック・ウィリアム・ストレンジという東大の外国人教師が挙げられます。東大駒場キャンバスにレリーフの記念碑がありますが、日本に陸上競技や野球、ボートなどを紹介したイギリスからの外国人教師です。クラブ活動の余暇活動としてこれらのスポーツを楽しんだらいいということを紹介しました。
1912年ストックホルムオリンピックで三島弥彦さんと金栗四三さんが日本選手として初参加しました。1920年アントワープオリンピックでは野口源三郎さんが10種競技で12位。この方が日本の陸上競技の父と言われており、東京教育大学の陸上競技部の最初の部長となります。
織田幹雄さん、南部忠平さん、大島鎌吉さん、それから田島直人さん。オリンピックで金メダルを取った三段跳びは日本のお家芸だといわれた時代です。アムステルダムで人見絹枝さんが銀メダル。ロサンゼルス大会では吉岡隆徳さんが記録を残しておられます。
今日お話をしたいのは、特に大島“かまきち”さんについてです。鎌吉(けんきち)さんが本名です。当時、三段跳びの世界記録保持者でしたが、ロサンゼルスオリンピック大会では3位、ベルリンオリンピック大会では6位でした。
カール・ディームというドイツのケルン体育大学初代学長は、ヒトラーの「世紀の祭典」といわれるベルリンオリンピックのディレクターをやった方です。非常に学識が深く、特にスポーツには科学が必要だという、非常にしっかりした考え方を持っておられました。
大島鎌吉さんは、学生として留学したわけではないのですが、カール・ディーム氏に私淑してこの人は偉い人だと尊敬し、スポーツ科学の重要性を認識しました。
そしてドイツ仕込みの科学的トレーニング理論を重視して、まず1964東京オリンピックが来る前に、オリンピックに向けてスポーツ科学者の研究グループを作りました。そして日本体協(現日本スポーツ協会)の東京オリンピック選手強化の対策本部長、東京オリンピック日本選手団の団長を務め、陸上競技界きっての理論派と言われた方です。最新鋭のトレーニング理論を取り入れて、日本陸上界の近代化に大きな役割を果たしました。
日本体協に、指導者養成制度を作ったり、競技力向上、国民スポーツの振興、国民体力づくり運動、みんなのスポーツ、Sports for All、これらはドイツの考え方なんですが、そういうものを日本に定着させようとして、新聞記者として頑張っておられました。
大島鎌吉さんと非常に相性が良かったのが加藤橘夫という東大教授です。駒場の教授だったのですが、日本に戦後、新制大学の中に体育というものを位置づけた大きな功績があります。旧制大学のメンバーの中には「体育なんていうのはアカデミックの府にふさわしくない」という意見がありましたが、加藤教授は、「いや、これは大事なんだ」と主張し、語学と体育を新制大学のカリキュラムで必修化したという経緯があります。
新制大学の研究教育機関の中に体育の教員もポジションを得るわけですから、そういう人たちがサイエンスを発展させるという非常に良い力が発揮できる土壌がつくられたわけです。加藤先生は、体育やスポーツの科学化を図るために、優秀な人材を医学の分野から招請して学問の発展を意図しました。「いわゆる体育だけじゃ駄目だ、もっと医学的な視点を入れながらやっていかなきゃいけない」というわけですね。
加藤橘夫氏は、大島鎌吉さんとともに、スポーツに科学的なトレーニングを導入することの大切さを説いて、指導者の育成に尽力し、全国のいろんな指導者の講習会を回られました。僕も学生時代、奈良で行われた講習会に参加したのですが、先生たちは、ずっと全国を回っておられました。大島さんは、大阪体育大学の副学長として、加藤橘夫氏を東大定年後に大阪体育大学に招きましたが、加藤先生は、後に学長として大阪体育大学の熊取キャンパス移転にかかわりました。
2.陸上競技の科学化を進めた人
陸上競技の科学化を進めた人ということでは、日本陸連科学委員会に猪飼道夫先生がおられます。この方も医学部から加藤先生が体育界に引っ張って来られた経緯があります。猪飼委員長の跡継ぎは名古屋大学の松井秀治先生です。私の最初の勤務先は名古屋大学でしたが、松井先生はなかなかたいした先生でした。松井先生の後を受けて、私が3代目の委員長になり、4代目は阿江通良さんが引継ぎ、「その次は杉田正明さんだよ」って僕は指名しておいたらちゃんと5代目の委員長が杉田さんになり、それに応えて現在頑張ってくれています。その先は誰が引き継ぐのか分かりません。
日本体育協会にスポーツ科学委員会とそのプロジェクトがありました。体協のスポーツ科学研究所の所長が黒田善雄先生、お医者さんですが、ドーピングの世界的権威者です。塚越克己さん、雨宮輝也さん、伊藤静夫さん、こういう方達がすごく頑張っておられました。
一方、学生陸上競技連合があり、その指導者として東京教育大学の金原勇先生がおられました。この先生は非常に有名で身長が高く、走り高跳びが専門です。特に印象的だったのは、「私の言うことを聞かない人は強くなりません、大腿直筋を鍛えなさい」、「もも上げをやりなさい。」という言い方をされました。ずいぶん強気な先生がおいでだなと、学生時代に思いました。金原先生の教室から生まれたのが阿江先生です。それから関岡康雄先生が学生連合の会長をされていました。広瀬豊さんという方は、陸上競技社の社長なのですが、その前は陸上競技マガジンの編集長でした。月刊陸上競技を講談社から出して、その中で、「陸上競技の科学」のページを非常に大事にされました。関東学生陸上競技連盟の会長をされました。
先ほど出てきた松井秀治先生について、もう少しお話しすると、1998年のオリンピックをソウルでやるか、それとも名古屋でやるのか、候補地を争った時があるのです。名古屋は負けましたが、その時に松井先生はオリンピックの実現に向けて名古屋財界からたくさんのお金を集めました。
そして、名古屋オリンピックは実現できなかったが、集まったお金で「スポーツ医科学研究所を作ろう」ということで、愛知県の知多郡阿久比町に「スポーツ医・科学研究所」を作りました。2000年に東京都北区に「国立スポーツ科学センター」という立派な建物ができましたが、実は中身のコンセプトは、この阿久比の研究所の考え方をモデルにして、さらに大きくしたものだということができます。その当時、松井先生と一緒に僕なんかも「どういうコンセプトで日本のスポーツ科学や医科学を発展させたらいいか」ということを日夜いろいろ議論しながら、松井先生が理想的なイメージ膨らませて、世界中を回りながら「こういう研究所が必要なんだ」というビジョンを描き、小規模ではありましたが、阿久井のスポーツ医・科学研究所ができ、名古屋大学の総合保健体育科学センターができたという経緯があります。
松井先生はなかなか見識のある方だと思っているのですが、2009年に亡くなりました。スポーツ医・科学研究所は2022年3月に閉鎖されてしまい、町の施設になり、その歴史的な役割を閉じたわけです。そして国立スポーツ科学センターが発展し、ナショナルトレーニングセンターができていくわけですが、その最初のビジョンがずっと生きているように思います。
3.スポーツ科学に対する認識
しかし、当時としては、「スポーツ科学をやったって競技力が上がるわけがないだろう」という意見もたくさんありました。1980年代のスポーツ関係者の中にも批判的な意見がありまして、「スポーツ科学は測定はするが、測定しても結果が現場に役立たない」、「握力が上がって何が競技力と関係するんだ」、「背筋力を測って何が関係するんだ」、「垂直跳びを測ってどうなんだ」、そういう批判があるわけですね。「科学者は測定することが科学だと考えているから、測定はするけど結果がすぐに出てこない」、「科学的トレーニングはそのまま選手強化には結びつかない」など。
「科学的トレーニングは結局学者の趣味でやっているんだ」、「筋力測定をすると強い選手は筋力が強い、弱い選手は筋力が弱い、だから強い選手と弱い選手の競技力は筋力と比例関係にある」、そういうようなデータがたくさん出てくるわけです。
このような測定結果から「筋力をつけなさい」となる。「重いバーベルを担いでトレーニングすれば強くなる」。しかし、必ずしもそうじゃないですよね。そういうようなことで現場と科学的な測定はなかなか難しいところがありました。僕が駒場に転勤して来たのは1986年ですが、駒場の先生から、「スポーツに科学があるのですか」、「国体が先生たちの学会じゃないですか」とか言われるほど、スポーツ科学に対する認識は低レベルだったんです。某東大教授、名前はしっかりわかっているのですけどその某東大教授は、「大学のカリキュラムに体育やスポーツは不要だ、クラブ活動でいいんじゃないか、そういう意見もあってですね、本当に正課である必要があるのですか」という強い自論を吐き、激しい議論が委員会レベルで行われました。
もしも、大学カリキュラムの中で、正課から体育を全部外してしまうと、大学の体育学・スポーツ科学の先生たちも職を失いますから研究も発展しません。東大がいかにしてその正課体育を残すかっていうことについて、困難な考え方の上での戦いがあったわけです。
4.勝つためのスポーツ科学の構築
このような議論の中で、世間一般のスポーツ科学への認識を高めるためにも、「勝つためのスポーツ科学」を構築しなければならないという使命感を私は持ったわけです。
「スポーツでは勝たなきゃ人を納得させることができないんだ」という一面を持っていることを身に染みて感じさせられました。「それならばもう絶対勝ってやるぞ」という気概でこの時代は頭から湯気を出しながら頑張っていたのですね。
その頃、陸連の強化本部に小掛照二さんという方がおられました。小掛さんは、三段跳びで世界記録を作った方です。小掛さんから大学に電話がかかってきまして「小林さん科学部っていうのを作りたい。やってくれないか」という話になりました。
もう一方では技術研究部があり、関岡康雄先生が技術研究部長でした。なんで科学部かと言うと、「実は今までやっていた科学委員会は学者の先生たちが集まっているけど、全然競技力向上に役立たない、もっと選手強化と、直接に関わった強化本部付きの科学部として勝つためのことをやってほしい」と言われたのです。
「何を一番何やってほしいですか」と尋ねたら、「マラソンで金メダルを獲りたい。何とかメダル獲りたい」ということでした。マラソンでは、金メダル候補が、それまで全部失敗しているんです。それで「分かりました。何としてもメダルを獲りましょう」をいうことになりました。
「どうしたらいいのか」を一生懸命考えたわけです。それで、①競技に直結する医科学に基づいたサポートの実行、②実際の競技現場での医科学研究の遂行、③競技力向上に寄与する基礎的、応用的研究、④医科学に基づいた戦略、こういうことを全部やろうと考えたわけです。
それまでなぜ勝てないのか、まずその原因を挙げてみました。①体調を整えることが下手。②練習すればするほど強くなるという信念に固まってしまっている。③怪我、オーバーワークによる不調が多い。④アウトプットのための練習方法ばかり考えて、インプットとしての栄養に対する内容が貧弱である。⑤練習内容を外国から取り入れるものの独自の工夫が足りない。⑥トレーニング法が漸進的負荷の原理など、ステレオタイプ化している。負荷を段々強くしていかなきゃいけないなど、パターン化してしまっている。⑦練習からの回復方法が下手である。⑧グリコーゲン・ローディングなど無理な栄養コントロールにこだわる。⑨練習強度やサイクルなどにこだわる。⑩心理的コントロールがうまくいかない、等々。
「なんで勝てないんだ」、「勝ってもいいのに、練習しすぎて疲労骨折になった」、「試合当日になって急にダメになっちゃった」とか、そういうようなことの原因をまず明らかすることから手がけました。
5.科学部・科学委員会のスタッフと活動内容
そして「勝つためのスポーツ科学」には、結局総合的な力が必要なのだというわけです。
科学部、科学委員会の初期の構成メンバーは、若手研究者で構成し研究業績にこだわらず、陸上を強くすることに情熱を持つ人、できる人(能力のある人)を集めようとしました。どうしても学者だから今もそうですね、「あと3年で任期切れだから、何とかこの間にいい論文を1個でも書いて次のステップに」、ということにならざるを得ない。
そういう業績とは関係なく、陸上競技を強くするために協力できる人を集めました。
初期のメンバーをリストアップすると、運動生理では、私、杉田正明、井本、江橋、八木、石井好二郎、石井さんには、広島アジア大会の後ぐらいから入ってもらいました。バイオメカニクスでは阿江、松尾彰文、深代千之。深代さんは、現在、日本女子体育大学の学長ですね。それからスポーツ医学が川原貴、渡会公二、鳥居俊。スポーツ栄養は、石島まり子、杉浦克己 田口素子。杉浦さんは、今、立教大学の教授で、田口さんは早稲田大学のスポーツ栄養の教授になっていると思います。
それで、幸い、科学委員会の活動に成功するわけですが、どうやったら活動に成功できるか、その要素を上げると、「組織」がしっかりしてないといけない、「人」がちゃんとしていかなきゃいけない。「活動内容」にたいして「お金」がないとやっぱりうまくいかない。それに「運とツキ」は非常に大きい。「機会、チャンス、時代の流れの背景」ですね。それから「歴史の中で今どういうポイントにあって、ここまでどうやってきたか」とかいうようなものがやっぱりマッチングしないとうまくいかないというように思いました。
6.短距離走の歴史
それで短距離の歴史について少し話をします。なぜかというと、日本人は当時マラソンとしては、世界的レベルにあるけど、短距離は全くダメだったんですね。でも短距離だって、「どうしたら日本人が世界のレベルに行けるか」ということを考えていかなければならない。
100mで吉岡隆徳さんが当時として10秒3の世界タイ記録を出しています。暁の超特急という呼び名でした。その次はなんと飯島秀雄さんまで29年間その記録は破られてなかったのですね。飯島さんの記録は10秒1で手動時計だったのですが、ここに飯島秀雄さん、依田郁子さん、吉岡隆徳さんの写真があります。結局、飯島さんはあまりうまく行かなかったということです。
そして次に、天才ランナー不破弘樹さんが現れたわけです。この人は、高校生のときに農大二高でインターハイ10秒46の記録を出し、200m21秒、ロサンゼルスオリンピックで高校生オリンピアンとして話題になりました。その次がソウルオリンピックです。100mで19年ぶりの日本記録を樹立し、不破さんは、当然、ソウルオリンピックの代表になる人だったのですが、実はなれなかったんです。
なぜかというと、最終選考の日本選手権の決勝で負けちゃったんです。誰に負けたかっていうと、なんと、笠原隆弘さんという中京大学の学生にです。2番が早稲田大学の大沢知宏さん。この「大沢が勝つか、不破か」という予想で、ものすごく盛り上がった時代があるんです。
その時までは、ノーマークと思われる笠原さんが優勝しました。「なぜだ、なぜ笠原が急に出てきたんだ」、こういう話になってくるわけです。
7.ハムストリングスに注目
その頃、私はまだ名古屋大学の松井先生のところにいまして、松井先生が「体力測定は、どこでもできて比較ができやすい一般的な体力測定をやる」というから、私は、「それじゃ駄目です。もっと特殊な体力測定というのを考えなきゃいけない」ということで、体力測定項目についても「勝つための科学的理論の構築」をしないといけないと考えました。そして、ジュニア合宿が愛知県で行われたときの体力測定で、サイベックスマシンという当時としては最先端の等速性筋力計を用いて、「大腿四頭筋と大腿二頭筋」を比較するという、いわば「膝関節の伸展筋と屈曲筋の比較」が必要だと考えました。
大腿部の後ろ側の筋群は、ハムストリングスです。つまり、脚の裏側の筋群がすごく大事なんじゃないかと目をつけました。大腿部の前側は、「金原勇先生の大腿直筋」です。
大腿部の前と後ろ側の筋群の等速性筋力を測定するとなると、どうしてもサイベックスマシンが必要です。しかし、サイベックスマシンは僕には使えませんでした。当時、東大の大学院生だった金久博昭さんに頼みました。「こんな働き者が世の中にいるのか」というぐらいパワフルに働いてくれる人です。それで不破弘樹選手を含むジュニア選手の測定を行い、そのデータをできるだけ早く選手に示したいと思いました。金久さんは、測定をしたその日の夜、一晩徹夜してデータを作成してくれました。彼は今、鹿屋体育大学の学長をやっています。
今はもう常識的に「ハムストリングスは鍛えなきゃいけない」となっていますが、当時はそうじゃないんです。やっぱり「大腿直筋と腓腹筋でしっかり地面を蹴って、腿を上げて」という時代でした。不破弘樹さんの体力測定をやってみて、大変失礼な物の言い方になりますが、あまり優れたところがないんです。「体力もあまり強くないし、筋力も際立ってはいない。何であんな強いんだ」っていうことから「何か秘密があるはずだ。それは何だろうか」ということを一生懸命考えました。ひょっとして全天候用トラックが出てきたので、「足の運び方が違うんじゃないか」、「脚の表と裏の筋力のバランスがかなり良いことが必要で、表の筋力だけ強いんじゃ駄目なんじゃないか」などと。
当時、大腿部の裏側の方を強化してない人は、肉離れを起こすような傾向がありまして、そういうバランスが必要なこともうすうすわかってきていました。
そして、「大腿部の裏も鍛えるべきだ」とコーチ会議で説明しました。すると、私の陸上競技の実績が話題になりました。「僕はすごく有名な選手でも何でもありません。多少陸上はやっていて、東大では有名なんですけれど、対外的には有名じゃないんです。競技の業績も無く、じゃあ選手育てたのかというと、選手を育ててもいません」。「大腿部の裏側が大切だということがどこかの論文に書いてあるのですか」という質問には、「私の知る限り、論文に書いてありません」。「それじゃしょうがないじゃないか」という雰囲気でした。「でも、理論的によく考えてみて、この裏の筋肉を鍛えるのが必要なんです」と説明しました。
当時、私は名古屋大学の先生でしたが、「それまで寛道先生が言うならね、うちの学生で試してみる」と中京大学の勝亦紘一先生が言って、「何をやらせればいいんだ」といわれました。何をやればいいんだと言ってもレッグカールぐらいしか思いつかなかったので、「まずレッグカール、とにかく大腿部の裏側を鍛えましょう」と。勝亦さんが「僕もね、ちょっと青戸慎司選手をトレーニングしていて、なんかそんな感じがするから」といわれ、「じゃあうちの選手使って、ハムストリングス、寛道さんの言うようにやって見ますよ」と言ってやってくれたんです。
そうしたら、日本選手権で、1988年笠原隆弘優勝、ベスト10秒35、89年青戸慎司優勝、10秒28、92年鈴木久嗣優勝、10秒30、これで勝亦さんはすっかり有名になりました。中京大学を短距離王国を育てたということで、朝日新聞の「人」の紹介蘭で記事になったという経緯があるんです。僕と同じ年に生まれたのですが2018年に残念ながら亡くなりました。今日は追悼の意味も込めて勝亦先生の話をさせてもらいました。
8.1991年世界陸上バイオメカニクス研究班の活動
1991年に世界陸上が東京で開催されることになりました。
今までの研究というのは、実験室の中でいろいろと実験条件を設定して、有名な選手が来ても、その実験条件でやった結果を論文に書くということが普通でした。それじゃあやっぱり臨場感が出てこない。選手が、本気でやっている場面を、ちゃんとビデオとかで技術解析をすべきだと考えました。
ベルリンオリンピックの「世紀の祭典」の公式記録映画では、選手の競技技術がちゃんと残っているんですね。でも東京オリンピックの公式記録映画では監督が市川崑氏で、競技者のクローズアップ、例えばアベベの汗がパラっと滴り落ちるとか、選手の表情だとか、涙が出た、とかそういうスポーツのもつ体や感激や美の部分を撮るようになっていて、競技技術的な内容が盛り込まれていないのです。
その芸術的な映像ばっかりだから、それはそれで評価が高いのですが、市川崑監督に影響を受けて、NHKやいろんなスポーツの番組でも、「今、涙が出るかどうか」、「表情はどうか」、「お気持ちはどうですか」とか、こんなことばっかりなのですね。こういったのはサイエンスにならないので、きちっとした技術映像を撮るべきだと考えました。
せっかく世界から一流のアスリートが大勢来るわけですから、「よしそうならば、やってやろうか」という話なのだけれども、みんな「話が大きすぎて」通じないわけです。
結局、世界一流選手の競技技術分析研究はできたのですが、ここは阿江先生が詳しく話してくれると思います。プロジェクトメンバーは79名です。
今日のスライドに、誰の名前を入れようかと考えました。この日本陸上競技学会の理事の方や、明日、特別講演をしてくれる結城先生もこのプロジェクトのメンバーでした。
結局、日本のバイオメカニクスの研究者たちは、みんな仲良くなって、研究を「ガーッ」と世界のレベルまで押し上げていったんですね。バイオメカニクス研究班は、そういう一番最初の活動ですね。
9.カール・ルイス選手の技術分析
1991年世界陸上では、カール・ルイス選手が、100m9秒86の世界記録を目の前で出してくれました。僕としては、そういうバイオメカニクス研究のデータの他に、「カール・ルイスという人はどうしてあんなに強いのか」ということに非常に興味を持っていました。「カール・ルイスのように走るにはどうやったらいいか」ということを、私なりにいろいろ研究をしました。
1979年から96年まで、「短距離走は遺伝的に優れた若い人しか勝てない」という考えが一般的にありましたが、カール・ルイスは年をとるとともに、どんどん強くなっていくんです。それはトレーニングの成果なのですが、100mと走り幅跳で長い期間、オリンピックでトップを続けました。「この人はやっぱりすごいな」と思います。
それでカール・ルイス選手をはじめ、「世界一流競技者の技術」という研究成果の報告書が阿江先生を中心にまとまりました。その中で大阪体育大学の、伊藤章先生がカール・ルイスの動きと一般の選手を比較して、ルイスの特徴を指摘しました。
① ルイスと一般選手の腿上げ動作には差が無い、②ルイスは支持脚の膝は曲がったままキックしている、③ルイスは足首の動作範囲が少ない、④ルイスは100mの後半に速度が上昇する、⑤ルイスはつま先の着地前速度が速い。
すなわち、トレーニングするとしても「腿上げは有効ではない」、「膝は曲がったままで良い」、という話が出てきて、大分様子が変わってきたんですね。
日本人選手で、膝が曲がったままキック動作を行う強い選手が出てきたと伊藤章先生が指摘したのは、高校生であった末續慎吾選手でした。「末續は、膝が曲がったままキックしているぞ」という話があって、「そうかぁ」みたいな感じでしたね。将来の大物に違いないと。
大論争がどんどん陸上競技のスプリントの世界に起こってくるわけですね。それを契機に、ランニング技術に関する議論や研究が非常に多く行われました。
一方、私自身は、「カール・ルイスのように早く走る原理はなんだろう」、「地上を早く走るのは円が回転しているタイヤや車輪だから、その物理的な原理を走りに応用できないか」ということを考えて、「スプリントトレーニングマシン」というトレーニングマシンを1995年に3年がかりで作りました。
1996年に、朝原宜治選手に研究室に来てもらって「このマシーンどう思う」と体験してもらいました。「着地がうまくいく」と朝原選手は見抜きました。確かに、このマシーンを上手に使うと、着地の際に生じる前ブレーキが少なく、円の動きを生かした軌跡を描く形で、足が運ばれるので、腰が前に進みやすい。すなわち、着地時に前ブレーキをかけないでも、すっと脚に腰を乗せていくという走りの技術が、段々分かってきて、これはこれで今でもトレーニングマシンとしていろいろやっています。
10.体幹筋力に関する注目
2000年になると、モーリス・グリーン選手が出てきました。深い前傾姿勢のままで50m以上走り続けることが特徴です。体格が日本人選手とあまり変わらないのです。それまでは、高速で100mを走るのは「ものすごい大きな体格で足が長い選手じゃないと無理だろう」と言われていたのが、モーリス・グリーンのように日本人と同じような体格の選手が出てきた。「何でそんなに強いのか」、「体幹部の強さに何か秘密があるに違いない」と考えていたところ、NHKのディレクターが私のところに来て、「モーリス・グリーンの強さの秘密」ということで取材をするが、「どういうところに取材の焦点を合わせたらいいですかね」と尋ねた。「多分、体幹を鍛えるような何かをやっているに違いないから、その辺をちょっと注目して調べてくれませんか」といいました。
結局、シドニーオリンピックの100m走でグリーン選手は金メダルを取りました。アテネオリンピックでは100m走で銅メダルなのですが、この人の動きを見て、多分体幹の深いところの筋肉、当時で言う「体幹深部筋」「深腹筋」ですが、「体幹が非常に重要なんじゃないか」ということに気がついた陸上の人たちは非常に多かったと思います。
それで、「地上を一番速く走る動物は、馬かチーターか」と問われれば、答えはチーターです。チーターと馬の違いは、背骨です。馬の背骨は丸くならないのですが、チーターは背骨が丸くなるんです。馬は背骨が丸くならないので騎乗に適しているのですが、腰の動きが柔らかい馬が、競馬ではやっぱり強いんです。馬でも、そういうことが段々分かってきました。
チーターの柔軟な腰部の動きというのは、こういう風にお尻が丸まるですね、そして伸びる時はスッと伸びるんですよ。このようなことから、やはり身体の中の体幹の筋肉、背骨、腰椎の動き、骨盤の動き、それらがすごく重要だということに段々と行きついてくるわけです。
それで、皮膚に近い浅層筋と言われる表面の筋肉を鍛えることから、近年では深層筋を鍛える考え方に変わってきています。
日本のこういうウェイトトレーニングの指導は大きく分けて二つの流派、いわば原点がありまして、一つはパワーリフティングと、もう一つはボディビルディングです。日本の筋力づくりを指導している方は、大体ボディビルディングの系統からの人が多いのではないかなと思います。ボディビルディング的な考え方に基づいた筋の肥大や個々の筋肉を強めていく考え方です。
実は、スポーツに勝つためには本当に必要なところが多少違うのですよね。そこのところがちゃんと区別できていないと具合が悪いのですが。
それで大事なのは体の深いところの筋肉というわけで、脊柱起立筋をインナーマッスルに入れるかどうか議論はあるのですが、大腰筋、腸骨筋、梨状筋、大腿方形筋といった骨盤や背骨と脚を繋げる筋肉を鍛えることが注目されました、これで日本の陸上界はまたグーンと伸びましたね。
それで理論的に簡単な流れを言うと、まず「腿上げと強いキック力」、すなわち「1960年から86年ぐらいは大腿直筋、腓腹筋の時代」、「88年から98年の10年間はハムストリングスの時代」、「2000年以降は、体幹深部筋の時代」となります。全天候走路の走り方として、脚全体を大きく動かしていくには体幹に付いてる筋肉で脚を動かすという考え方を入れていかないと駄目だっていう話になって、今の体幹筋力というのに繋がってくるわけです。
11.科学部・科学委員会の活動内容と関係の深い人々
それでもう1回先ほど出てきた図なのですが、「組織」としては、日本陸連、日本体育協会、大学が示してありますが、「人」とか「活動内容」もありますね。今、尾縣先生が日本陸連の会長をされていますが、専務理事として、帖佐寛章先生、佐々木秀幸先生、桜井孝次さん、強化本部には、小掛照二さん、大串啓二さんたちがおられ、科学部や科学委員会の活動を非常によくバックアップしてくださいました。
それから監督では浜田安則さん、選手は山下佐知子さん、荒木久美さん、です。
小出義男監督は、お亡くなりになられましたが、選手は、有森裕子さん、高橋尚子さん。鈴木従道監督は、選手が浅利純子さん、藤村信子さん、藤田信之監督は、選手が野口みずきさん、宗茂監督は、選手が谷口浩美さん、森下広一さん、ですね。
科学部、科学委員会としてやった活動内容には、暑さ対策、高地トレーニング、バイオメカニクス研究、栄養サポート、食事指導、体調コンディショニング、研究会、報告、試合前特別サポート、などがあります。
12.暑さ対策について
それでまず暑さ対策ですが、それまでのマラソンは冬の大会だったのですが、世界陸上から夏の大会に変わりました。夏の大会に出た選手はもう選手寿命を失うって言われていた時代なんです。
それで「どうやったらその暑さでも勝てるか」というわけです。ロサンゼルスオリンピックのときに瀬古利彦さんは、「暑いところでの競技会なら、暑さに慣らして身体を鍛えるんだ」という中村清監督の考え方で暑さ対策を行いましたが、疲労が蓄積して失敗しました。
「厳しい条件だったら厳しい条件で鍛えてそれに慣れるんだ」という考え方は必ずしも科学的ではないといえるかもしれません。
それから当時としては水分補給をして、それを「汗にして蒸発熱で発散して皮膚を冷やす」ということが常識的な考えです。しかし、汗で体を冷やすには限界があります。
北海道マラソンですね、ここで谷口浩美さんが、体に水をかけていますが、水分を冷却水として使う作戦です。水温13℃の水冷作戦を、北海道マラソンで検証して、これを1991年の世界陸上の給水で実施したという経緯があるのです。
「なぜその水をかけるか」ということを説明するために、「マラソンレース中の体表面温度がどうなるか」ということを、赤外線カメラで観察しました。現在では普通に使われている赤外線を用いた体温計などは、当時は珍しく、日本アビオニクスという会社がそういうもの作っていたので、それを借りてきて伴走車に乗せ、ずっと谷口選手の体表面の変化を計測しました。体に水をかけると、水が冷たいこともあるのですが、体表面の温度は下がります。水をかけるばあい、「何℃ぐらいの水をかけたらいいのか」が問題になります。僕は感覚的に「15℃の水なら大丈夫だろう」と思いました。冷たい水を体にかけると、「お腹が冷える」とか、「心臓麻痺が起きる」とか、そういう話まで出てくるわけです。でも井戸水は、年間通じて大体15℃なので、「15℃ぐらいであれば大丈夫だろう」と思ったわけです。北海道マラソンでの検証の結果、一部の選手から「ぬるい」という感想が出たので、13℃にすることにしました。「水温をどうやって調整するんですか」という北海道陸協の人たちに対して、「スポンジを浮かせた給水槽の水温調節は、氷を入れながら温度計で測ってください」と説明しました。世界陸上東京大会でもそのようにしました。いろいろと皆さんに協力していただきました。
その結果、世界陸上のマラソン、すごく暑かったんですが、一番最初、山下佐知子さんが銀メダルを獲得して、みんな大喜びしたんですけど、最終的に金メダルを、谷口浩美さんが獲りました。
北海道マラソンの時に1グラム単位の体重計で、レースによって体重はどれぐらい減るのか、何グラムを給水したかを実際に測定して、正味の水分補給の必要量を調べました。
水分補給なしでは、多汗により体重が大きく減る人と、水分補給はあまり影響しない人がいました。
体温調節はどうなっているかを調べるために、「お尻の穴から体温計入れてください」と頼みました。谷口さんは今でも「お尻の穴から体温計を入れろとか言われて入れた」って、その時の話が出てくるんです。
1992年のバルセロナオリンピックでは男子マラソンで森下広一さんが銀メダルを獲りました。4位になった中山竹通さんは、あんまり科学部の言うこと聞かないのですけれど、この時だけは水冷方式を取り入れました。谷口さんは「こけちゃいました」で8位でしたが、本当は、この人は金メダルが獲れたと思うんですね。
女子マラソンでは、有森裕子さんが銀メダル、山下佐知子さんが4位になりました。
13.暑さ対策と科学的バックグラウンド
暑さ対策でどうしてそんな作戦を考えたかというと、実は私自身がカリフォルニア大学サンタバーバラ校の環境ストレス研究所という処で2年間汗の研究をしていたんです。高温多湿の環境で運動をしたときに、体温調節がどうなっていくかという研究を、気温49.5℃、研究の安全基準で50℃以上でやったら駄目なので、49.5℃としました。湿度が低いと高温環境でも快適さがあります。
ポッターベッドバランスという1グラム単位の変化が検出できるベッドの大きさの体重計の上に自転車エルゴメーターを設置し、自転車漕ぎをやるのです。それで1分ごとの体重変化や汗量、体温の変化をとらえるわけです。
写真に写っているのは僕ですね、これは被検者のBob君で顔を見ると分かりますが、真っ赤な顔をしています。仰向けの姿勢での運動では、意識が朦朧としてきやすいです。
耳の中の鼓膜温を測ると、これが40℃を超えると意識朦朧としてきます。
ただし直腸温だと、40℃以上になっても大丈夫なんですね。脳の中の温度、すなわち脳に行く血液の温度がそんな温度になってしまうとおかしくなってしまうことも分かっています。これは水を飲んで汗で蒸発熱を発散させるといった問題ではなく、直接冷たい水をかけるしかないという研究ですね。
14.高地トレーニングの始まりについて
浜田安則さんは、鹿児島大学を卒業して鹿児島中央高校の先生から京セラの監督になり、その後、陸上競技連盟の職員として陸上競技連盟の改革に非常に努力された方です。特に、強化システムの改革と高地トレーニングにかかわりました。ご本人も、マラソン2時間13分で走っており、荒木久美さんや山下佐知子さんを育成していますが、週1000km以上といったトレーニング距離だけで練習量を稼ぐのはもう限界で、高地トレーニングをやらなきゃいけないということを考えました。1990年に中国の雲南省昆明で最初の高地トレーニングを行いました。
科学部も高地トレーニングの最初のサポートを行いました、
1990年夏には、コロラド州アラモサとガニソンで、Joe Vigilというアメリカのコーチに指導を受けながら行いました。6週間のトレーニングが必要ということで、6週間の高地トレーニング合宿を行いました。
高地トレーニングでのコンディションチェックは川原貴先生が考えたことですが、睡眠時間の調査、起床時脈拍、血圧、起床時体温を測ったり、早朝尿を採集します。こういうコンディショニングチェックの方法は、今もこれを科学委員会で使っています。
それでPOMSすなわちProfile of Mood State。これやると身体の調子と心の調子が大体分かる、というわけです。
これは、実際の高地トレーニングでのヘモグロビン濃度の変化データです。高地トレーニングでは、皆さんヘモグロビンが増えると思っていますが、実際は違うのです。調子が悪いとヘモグロビン濃度が低下してしまう人もいるわけです。高地トレーニングはコンディション作りが難しいという話になるわけです。
15.バルセロナオリンピックでの事前調整合宿
代表選手に選ばれると、壮行会などがあって、「頑張ってこいよ」と言われてご祝儀をたくさん貰ってくるんですが、実は試合前に歓迎会とか壮行会とかに出席して、選手は皆ヘロヘロでくたびれてくるんです。そのような状態で、いきなり試合目前に選手村に送るんじゃなくて、1回で休ませましょうということになりました。
バルセロナオリンピックでバルセロナに飛ぶ前に、イギリスのヒースローの近くの小さなホテルを貸し切って、そこで1週間休ませて日本食を与えて、それから送り出しました。その時の栄養サポートをしっかりやったのが田口素子さんです。医事担当は鳥居俊さんで、僕はそこの宿主をやっていました。選手を引き受けて、そしてコンディションを調整するという事前の合宿調整だったのです。それでこういう良い結果が出たということがあります。
16.アミノ酸補助食品 「アミノバイタル」について
1990年代に中国に馬俊仁監督のもと、マー軍団というすごく強い女性の選手団が出てきました。驚異的な世界記録を出し、金メダルをどんどん獲っていきますが、「ドーピングじゃないか」という疑いがあるのだけど、結局明らかにならないのです。とにかくすごい記録を出すんですよ。冬虫夏草、すっぽん、朝鮮人参、阿膠(ロバの皮)、大棗(ナツメ)とか摂取するのですね。亀の生き血を飲むとか。
浜田さんが実際にマー軍団の合宿に行って、いろいろと調べてくれました。やっぱり「日本の選手でこういうことをやらせたら駄目だと思う」とのことでした。「みんなドーピングに走るかもしれないから、なんとかこれを食い止めるのも科学委員会の役目かな」と考えました。
6週間の高地トレーニングで完全な食事サポートしたのだけれど、「試合前に風邪をひきやすい」、「ピーキングによって免疫低下が起きる」、「筋肉のみを強化すると疲労骨折が起きるような傾向がある」。そういう問題とか、「強いトレーニングをしたり、高地トレーニングで練習量を増加させると貧血になる」、「強いトレーニングをすると、内臓、特に肝機能が非常に疲労する」、「超回復理論、すなわちしっかりと追い込んで、それから回復したらもっと強くなるという理論も当てにならないんじゃないか」、「強い負荷のトレーニングをすればその後の超回復が生じるとは限らない」、あるいは「筋肉痛が当たり前」。
こういうことをある栄養のセミナーで紹介しました。講演が終了してから、「先生、ああいう問題はアミノ酸を使えば解決できるんじゃないですか」という話があり、アミノ酸補助食品の開発が始まったわけです。
それで「これを飲むとポパイのほうれん草みたいに強くなっちゃう」と誤解されないように、「疲労回復っていう名目でやろう」ということになりました。
東大の大学院に大谷さんが社会人入学してアミノ酸の研究で博士号をとり、その後アミノバイタル3800という名前で商品化されました。僕が言った内容で一応特許が取れたのですが、よく調べてみると現在では少し内容が違ってるなっていう感じがしています。
17.活動予算について
はじめは、科学部の活動予算が無くて、年間80万円ぐらいしかなかったのですけれど、今、いろいろ協力してくれて600万円ぐらいいただいています。当時の財務委員長が、予算をつくる時に「小林先生いくら欲しいんだ」といわれたので、「100万円しかないってということなら100万円分だけやります。1000万円くれたら3,000万円ぐらいの仕事はしますよ。僕はたくさん出してくれたらその2倍か3倍仕事しますけど、ちょこっとしかくれないならちょっとだけやります」と答えました。財務委員長は、「うまいこと言うなぁ」と。そして「悪いけど600万円でやってください」ということになりました。その後も財務委員長は、みんな予算削減するのに科学委員会だけ600万円守ってくれました。杉田先生に聞いてみたら「一時1,300万までいったけど、今は300万円になりました」と。阿江先生の時代はそういう潤沢な研究費があったので、研究が進み、世界的な発展ができたということもありますね。
あとは高地トレーニングと低酸素トレーニングですね。今は、高地トレーニングが盛んですが、Vigilさんがいう6週間説とか、「リビングハイ・トレーニングロウ」すなわち「標高の高いところに住んで低いところでトレーニングする」という理論だと、ずっと高地に滞在しないといけません。
そうすると、日本の場合、標高2000m近くの山はもう山奥になり、国内での高地トレーニングはできません。何とか国内で高地トレーニングができるようにするには、新しい理論を構築しなければなりません。世界の兆候に反抗してですね。そこで、「3泊4日以上、できれば1週間で効果が出るような理論を構築しなきゃいけない」と考えて、研究を進めました。
富山県の立山の室堂付近が標高2450mあるので、ここで、3泊4日の高地トレーニング研究を進めました。すると、やっぱり効果あるんですよ。立山には、自然保護条例があるので、400mのグランドづくりは無理ということで、岐阜県からの誘致もあり、岐阜県に高地トレーニング場をつくることになりました。
写真に写っているのは、当時の村長さん、役員の方々、これは僕なんですけど、「ここに本格的な高地トレーニング場を開設する準備が始まりました。飛騨御嶽高地トレーニングセンターの開設に向けて走り出したところで、2020東京オリンピックが決まりました。
18.高地トレーニングと低酸素トレーニング
それで、「高地トレーニングでヘモグロビンが増える」という理論だけでは成り立たない。「別の理論を考えないといけない」わけです。当時、テキサス大学の教授が、「血管を弛緩させる一酸化窒素(NO)の発見」ということで、1998年にノーベル賞が授与されました。一酸化窒素(NO)は、血管弛緩作用があるので、それが抹消血管の血流をよくするから、「高地トレーニングは、組織が低酸素となっても血管拡張効果をもたらすのだろう」、という積極的な理論が構築できました。
低酸素ルームについては、専修大学の前嶋孝先生がスケート選手のために低酸素ルームを最初に作りました。それは滞在型でしたが、私は1998年に駒場にテント式の低酸素環境走路をつくり、低酸素環境下で、積極的に運動するという研究を始めました。
その後、「低圧低酸素環境でのトレーニングは有効である」ということが一般化し、ハイテクスポーツ塾をはじめ、小規模の低酸素トレーニングルームができ、今日では普通に低酸素トレーニングルームで運動するようになりました。この分野で、最初のパイオニアは前嶋孝さんだと思います。
19.日本陸上競技学会の誕生
陸上に関する月例研究会や第1回陸上競技の医科学・コーチ国際会議が佐々木秀幸先生を大会会長として駒場で行いました。その他の国際シンポジウムをやったりしていたのですが、2002年に、日大の澤村博先生が、陸上競技研究会や学連の陸上競技研究組織を一体化して、「日本陸上競技学会を作ろう」と世話役になり、それで合流してこの学会が生まれました。
日本陸上競技学会のますますの発展を期待しています。ご清聴ありがとうございました。