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名古屋から駒場に転勤 1986~2006

16 名古屋から駒場へ

 駒場に入学したのが昭和39年。東京オリンピックの年である。アンツーカートラックに新装成った駒場第一グラウンド(陸上競技場)には、オリンピックに出場する外国の選手たちが本番に向けたトレーニングを行っていた。素晴しい体格で力強くスピーディに走る外国選手たちの姿や想像をはるかに超えた遠い距離にハンマーを投げる選手の姿は、外国人を身近に見たことのなかった私に名状しがたい感激とスポーツへの憧憬を深める大きな機会となった。
 当時の東大陸上運動部の監督は体育科主任の加藤橘夫先生であった。加藤先生は新制大学に体育を必修とする制度を取り入れることに尽力された人である。駒場には、昭和38年に日本で最初のトレーニング体育館が建設されており、これも加藤先生の力によるものであったと理解している。駒場の学生時代は、すばらしいスポーツ環境に恵まれ、人生の最も輝かしい時期を過ごすことができた。それから20年がたち、昭和61年に私は名古屋大学から教養学部助教授として転任してきた。体育の研究棟は、昭和41年に立てられたままで、古く汚く、玄関の軒先には苔が生えており、その景観は今も変わらない。トレーニング体育館の床はぼろぼろ。第1、第2体育館は一高時代からの古い飛行機の格納庫のようなものであり、第3体育館は、ブロックを積み上げた壁に屋根がついた粗末な武道場であった。陸上競技場は草が生えて畑の土と変わらなくなっており、雨が降ればどろどろのぬかるみとなり、靴についた泥が多量に校舎に持ち込まれるような有様であった。こうした状況を目の当たりにみて、「加藤先生の時代のように、学生が良い環境でスポーツや運動を行うことが出来るようなキャンパスをつくりたい」という強い使命感が湧き上がってきた。そのためには、体育の重要性を教養学部の先生方に理解してもらわなければならないと思った。
東大に赴任まもなく、旧第1、第2、第3体育館を取り壊し、新しく3階建ての第一体育館に立て替える計画が進行した。この機会を生かして、いろいろな工夫を凝らした体育館の内部設計を考えた。渡辺融先生からは、「小林さん、そんなにいろいろ注文しても無理じゃないですかね」という意見を頂戴した。問題は、制限された建物面積の中で、どのように活動面積を大きく取るかということにあった。苦肉の策として、3階の倉庫は空中に飛び出たかたちになった。玄関フロアーにじゅうたんを敷きロビーとして使用できるようするため、靴置き場が建物から2m離れて、別棟としてつくられる結果となった。この玄関フロアーは、学生たちにもっとも便利に使われている。
剣道場には大きな鏡を張り、不要の時は引き戸で閉めるというアイデアは施設の若い職員の方が考えてくれた。こうして念願の第一体育館は、想像を超える立派さで完成した。
近隣への埃対策の一環ということで、陸上競技場の全天候用トラックが生まれた。これは細川内閣の時代の政治的混乱の賜物で、西田事務部長の力添えが大きくものをいった。サッカー場、野球場、軟式テニスコートも順次整備され、夜間照明も陸上競技場、サッカー場、第二グラウンドに取り付けられた。夜間照明は、第一限の授業開始が8時30分から9時に変更される機会に、教授会で発言し、クラブ活動に支障がないようにという意見を出し、夜間照明をつけることの配慮をえた。第二グラウンドの夜間照明はホッケー部の先輩の寄付によるものである。運動部の卒業生たちは、駒場の運動施設の充実に、多くの資金的、物的援助をしてくれた。駒場の運動施設は、何物にも変えがたい価値と人をはぐくむ原動力を宿していると考えられる。これを大切にしていかなければならない。
1986年頃から始まった教養学部の改革案では、第9委員会(将来計画)杉本大一郎委員長の「大学体育不要論」には苦しめられた。「東大から体育実技をなくしたら、先生方がどんなに良い講義をされても、銀杏並木には精神的に問題を持つ学生があふれてしまいますよ」と必死に主張した。委員会内で助けてくれたのは、岡本和夫先生(数学)である。岡本和夫先生は、後に数理科学研究科を立ち上げ、若くして研究科長の要職を勤め、全学的な委員会の重要な役割を次々とこなしている。体育科の重要な後見人となってくれた。第5委員会(教養学部報)では、荒木昭太郎先生に、新聞の作り方、紙面の割付を習った。荒木先生は駒場40年史の編集委員長も勤めた。新聞作りには非常な執念めいた情熱を注いでいた先生である。教養学部報の校了の日には築地の魚岸に買出しに生き、駒場で一杯やるのが慣わしであった。私は、料理人をやったが、何かと口うるさい池田信雄先生から、「小林さんは、蛸を切るときの包丁捌きが良い」といって褒められた。第2特別委員会(カリキュラム)委員長の加藤昭先生は、飛行船のように大きな頭といたずらっ子のような目で、「体育は大切」だと理解を示された。映画で見た加藤隼戦闘隊長のご子息で、人間的にも多くの刺激を受けた。第2委員会はやがて第1小委員会(改革特別委員会)に吸収され、渡邊守章委員会(俗称革命評議会)が結成された。

東京大学運動会について
東京大学には、運動会という独特の組織がある。東京大学運動会は財団法人組織となっており、会長は東京大学総長である。理事会が組織され、理事には運動部の部長や、各学部の学部長の役職指定理事、学生理事が就任している。理事会の下に評議委員会があり、加盟団体の部長および運動会が管轄する保健体育寮の委員長、および有志教官、によって構成されている。学生は、入学時に運動会費4年分を徴収されるので、全学生が運動会の会員であり、運動部学生ばかりでなく、一般学生のためのスポーツ・運動活動にさまざまな便宜が図られている東京大学の独特な組織である。
私が運動会の総務担当理事に就任したのは、平成10年からで、青山善充副学長からの依頼であった。青山先生は、体育科の青山昌二先生の弟で、法学部長のときに運動会の理事長を務め、このたび副学長になるので、そのあと理事長には工学部長の中島尚正先生、会計担当には国友先生、総務担当は小林寛道にという指名であった。私は、陸上運動部の監督、その後陸上運動部の部長を務めていた。
理事長となった工学部長の中島先生は、その後1年で定年となり、平成11年からは、副学長の任期が終わった青柳先生が理事長になり、青柳先生が西洋美術館館長として退職された後は、平成16年に河野通方先生(新領域創成科学研究科研究科長)が理事長に就任した。私は、平成10年から平成18年3月に定年退職するまで、ずっと運動会の常務理事・総務担当を務めることになる。ここで培った人脈は広くて深い。
平成13年頃に、検見川総合運動場を東大農学部(農学生命科学研究科)の農場に作り変え、検見川運動場の機能を柏市にある千葉大学園芸学部の農場の1区画に移転させる話が急浮上して来た。水面下でいろいろな話があったようであるが、表に表れてきたのは平成15年頃である。東京大学に、柏・西千葉・検見川整備計画委員会が組織され、宮島 洋副学長が委員長となって、これらの地区のキャンパス再編計画を策定することになった。
そもそも東大の柏キャンパスは、柏に土地を取得し、第3のキャンパスを造ることが目指された。この土地の取得には、六本木にあった生産技術研究所の土地を売却することによって充分まかなえる資金が準備できる予定であった。しかし、バブル崩壊によって土地の値段は下落し、そのうえこの土地には千葉大学の権利が絡んでいて、土地の売却は複雑な経緯をたどることになった。元をたどれば東京大学の工学部と千葉大学の工学部とはその源流が重なり合っており、六本木の土地にも千葉大が何がしかの権利を主張できる根拠があった。そこでさまざまな交渉ごとがあり、結局、千葉大学が柏キャンパスの園芸学部の土地8.3ヘクタール(25000坪)を東京大学に移管することで話し合いがついた。ところが、国の財務局が、六本木の土地を売却した費用で柏キャンパスを整備する約束であったものが、費用が不足しているので、それに見合う土地を大蔵省に差し出すようにとの要求を東京大学に突きつけてきた。そして目をつけられたのが農学部の田無農場である。田無農場の20ヘクタールの土地を国に移管するようにという要求が出されたものであるから、驚いたのは農学部である。農学部は、田無農場に相当する面積を補償しないのであれば、移転には応じられないということになった。20ヘクタールの土地が都内近郊にあるわけがない。大学本部は、千葉大学から移管された8.3ヘクタールで何とかならないかという打診を農学部に行ったが、頑として聞き入れられない。そこで仕方なく20ヘクタールの土地を有する検見川総合運動場を農学部の農場にするという案が浮かび上がってきた。驚いたのは検見川運動場を使っている運動会である。大学本部としては、検見川総合運動場の機能を、千葉大学から移管される8.3ヘクタールの土地に移転させる青写真を描いて、運動会との話し合いを開始したのである。
検見川総合運動場は、学生や教職員の重要な身体活動の場として利用され、近年では近隣住民のための運動施設としての利用も高まっている。特に、サッカー場4面、テニス(9面)、芝生を利用した野球、アメリカンフットボール、ラグビー、ホッケー、アーチェリー、陸上トラックがあり、クロスカントリーの利用者も多い。駒場の身体運動実習(体育実技)で、ゴルフの実習も行われている。年間数万人が利用している総合運動場の機能を、おいそれとは移転するわけには行かないのである。それに検見川運動場は、運動部の先輩達がもっこを担いで運動が出来る状態に整備したという歴史的経緯もある。東京大学本部が最も恐れたのは、こうした運動会の先輩達が築いた運動場を移転させることに対するOBたちの反発であった。
運動会の実質的な管理運営体制は、3人の常務理事を中心とする企画小委員会が担当していた。こうした検見川問題の解決には、OBたちの了解が必要であり、前理事長であった石井紫郎先生にその役割をお願いした。検見川問題はいまだにくすぶって入るが、実質的に農学生命科学研究科の機能を検見川に移すことには問題が多すぎるし、検見川の住民の反対もあるようである。
しかし、この検見川移転問題を大学と交渉する過程で、「生涯スポーツ健康科学研究センター」の構想が浮き上がってきたのである。検見川移転問題は、どうやらそのままで動きが止まっている。