この自伝的随想は、コミュニティ誌「月刊わたしの世田谷」に2010年5月から2013年3月まで35回にわたって連載された内容を再編集して収録したものです。著者である小林寛道と様々に交流があった方々の人物史のような側面や、スポーツ科学に関する歴史的背景などをわかりやすく解説するということを意識して記述されています。
第1回油彩画 14cm×18cm 能仲ヤツヲ
1.初めに 世田谷に寄せて 小学校校長遠藤先生
昭和初期の世田谷といえば、小田急線が開通し、新興住宅地として発展し始めた頃であ
る。私が子どもの時から大学院を卒業するまで20数年間住んでいた経堂の家は、昭和3年、
小田急線が開通して間もなく、代々木から移り生んだ祖父母の代に建てられたものであった。庭先から50mほど離れたところを走る小田急線は、2両連結の時代で、たまに3両や4両連結の列車が通るものならばとても珍しく思えた。たまに「ロマンスカー」が「キンコーン、カンコーン」というマイク音を発して通り過ぎて行った。
世田谷区立経堂小学校に入学したのは昭和25年、その時の校長は遠藤五郎校長先生である。遠藤先生は大変話が上手で、毎週月曜日に校庭で行われた全児童が集合する朝礼では、その時々の話題をわかりやすく話され、「学校が空襲を受け、校舎の屋根に爆弾による大きな穴がいくつもあいたこと」や、勤労感謝の日には、「ご飯を食べる時には、田植えや、夏の暑い盛りの草取り、稲刈りの重労働によって実ったお米を作ってくれたお百姓さんに感謝の気持ちを忘れないように」といったこと、「すずらん通りを走る路線バスの後ろバンバーにつかまってローラースケートで滑っていた経堂小の児童(S君)がいたこと」(これは注意と叱責)など、記憶をたどるといろいろな話が思い出される。その中で、校長先生が特に言いたかったことは、「皆さんのように若い人たちが一生懸命勉強して、これからの新しい日本の国づくりに頑張ってほしい」ということだった。
ランドセルで背中が隠れてしまうような小学校児童を対象に、はたしてこうした校長先生の話は、どこまで子どもたちに理解されたであろうか。しかし、振り返ってみると、校長先生の思いは不思議に私たちの世代の人間には少なからぬ影響を与えたといえる。
遠藤先生は、のちに全国連合小学校長会の会長(第8代)となって、文部省の中央教育審議会委員(委員長は森戸辰男氏)となった人である。相当な人物であったことは間違いない。昭和41年10月に中央教育審議会は、「後期中等教育の拡充整備について」という第20回答申を有田喜一文部大臣宛に行い、この中に有名な「期待される人間像」が別記として記述されている。この答申を今になって読み返してみると遠藤先生の顔が浮かぶような内容がびっしりと記されている。当時の大人たちが次の時代を担う若者たちの教育の在り方について、その期待と情熱が伝わってくる。
2.1964オリンピック 東大駒場の練習場
昭和39年(1964)に、東京オリンピックが開催された。日本が戦争に敗れて後、初めて国際舞台に復帰した大きなイベントであった。私は、経堂小学校、世田谷区立緑が丘中学校、都立新宿高校を卒業して、東京オリンピックの年には、東京大学教養学部の駒場キャンパスに通学していた。
東京大学駒場キャンパス内にある第1グラウンド(陸上競技場)は、千駄ヶ谷の国立競技場に比較的近い距離にあることから、オリンピック陸上競技選手たちの公式練習場に指定され、オリンピック前や期間中に外国の選手たちが多数練習におとずれた。私は、東京大学陸上運動部の部員として、練習場の整備などの役割を担った。
東京大学教養学部体育科の主任教授であった加藤橘夫先生は、陸上運動部のOBであり、陸上運動部の監督をされていた。加藤先生は、東京オリンピック組織委員会の科学委員会委員長を務めておられ、この機会に、東大駒場に本格的なトレーニング施設の建設とグラウンドの整備を実現させた。当時は、バーバルを用いたウェイトトレーニングは日本の選手には馴染みがなく、おもりを持ったウェイトトレーニングを行うと「筋肉が硬くなってしまう」ということを信じる人たちも多かった。加藤先生は、第1グラウンドの隣接地に「トレーニング体育館」と名付けたトレーニング場を建設させ、外国の選手たちの使用に合わせた本格的なウェイトトレーニング設備を設置した。バーベルのシャフトだけで20㎏の重さがあり、シャフトの両サイドには、ボールベアリングがついたプレート止めの装置がついており、1枚が20㎏の大きなプレートを左右2枚ずつ付けると100㎏の重さになる。ウェイトトレーニング機器(フリーウェイト)は20セット程揃えられるとともに、大型トランポリン3台、登攀用ロープ、肋木、跳び箱、腹筋台、ベンチプレス台、リクラインベンチ、スクワットラック、体操競技の機器1式(鉄棒、跳馬、吊り輪、平行棒、平均台、マット)などが備え付けられた。
このような立派な設備を持つトレーニング体育館はこれまで日本にはなかったので、灘尾弘吉文部大臣(当時)がわざわざ視察に見えたほどであった。こうしたトレーニング機器を用いて外国のオリンピック選手たちは、競技の前日までトレーニングを続けていた。
通常、選手たちは試合前2~3日は調整期を設け、練習量を落として「バネ」をためる。しかし、外国の選手たちはたくましくトレーニングを続けていた。たぶん、調整はしていたのであろうが、それにしてもものすごい負荷での練習であった。特に印象的であったのは、ハンガリーのジボツキー選手で、よく練習場に通ってきた。投擲の練習場は、東大駒場キャンパス内で、現在ホッケー場とテニスコートとして使われている第2グラウンドであった。ジボツキー選手はハンマー投げで銀メダルを獲得した。日本選手では、ハンマー投げで岡本登選手が練習に来たが、実力の差は練習の段階で明白であった。アメリカの選手も大勢練習に来た。北朝鮮の辛金丹という女子選手(400m、800m出場予定)も練習に来たが、政治的理由によって本番のレースには出場しなかった。出場していれば優勝という予想であった。
スポーツ選手の体格の良さ、逞しさ、美しさはこれまでに目にしたことのない別世界のもののように思えた。スポーツのもつすばらしさに魅了され、こういうスポーツの世界で仕事がしたいと思うようになった。
油彩画 14cm×18cm 能仲ヤツヲ
第2回
3.体力テストとサーキットトレーニング <加藤橘夫>
東京大学に作られたトレーニング体育館は、日本のスポーツ界や体育界に大きな影響をもたらせた。まず、第1に、ひ弱な東大生の特訓である。毎年の新入学生全員に4種目(垂直跳び、反復横とび、腕立て伏臥腕屈伸、踏み台昇降運動)の体力テストが行われ、合計点および一種目でも基準点に達しなかった場合には、「トレーニングコース」に配属される。そこで「サーキットトレーニング」を中心としたトレーニングを1学期受講する。体育実技は週1回、4学期(2年間)必修であった。1学期のトレーニング成果が上がると、2学期からはスポーツコースの選択が許可された。
私自身は、身長178cm、体重60㎏と痩せた体格で、腕力が弱く、腕立て伏臥腕屈伸で最低基準の24回をクリアーすることが難しかったが、初めからスポーツコースを選択したかったので、腕立て動作をごまかしながらなんとか最低基準をクリアーした。
サーキットトレーニングは、体育館内の様々な筋力トレーニング機器や、鉄棒(懸垂)、マット(腹筋)、バーベル(スクワット、ベンチプレス)、鉄アレイをもちいて、一定時間内にできる各項目ごとの最大回数を測定し、その回数の50%程度の負荷で10~12種目を休みなく1巡するもので、心拍数はほぼ最大基準の毎分180拍まで上昇する。筋肉と持久力の両方を同時に高めることを目標に、当時イギリスで開発された方法を取り入れたものであった。サーキットトレーニングは、室内でできる全身的なトレーニングである。
加藤橘夫教授は、「自分の場合、体育の学問を始めたのは晩学であるが、用いる方法は最先端である」と自負されておられた。「東京大学に入学した諸君は、卒業後社会の中核となって活動することになろうが、体力がなければ最後の踏ん張りがきかない。上に立つものほど体力が必要なので、東京大学を卒業する学生は一定以上の体力を持っていることが卒業の要件として必要である」という哲学を持っておられた。新制大学に保健体育が必修科目として位置づけられたのは、加藤橘夫教授の尽力によるところが大きいとされている。
ちなみに、東京大学に入学した学生全員に対して、2019年の現在でも1964年当時からの体力テストが同じ4種目で実施されている。文部科学省の体力テストは、2000年から「新体力テスト」としてそれまでの項目と異なるものが実施されている。東京大学では、45年間にわたって全く同じ測定項目で体力テストが行われているので、東大生の体力の時代変化を如実にとらえることができる。そのための研究プロジェクトが活動し始めており、近いうちにその研究結果が報告される予定である。
また、近年では、女性のみを対象にした30分間の健康体操教室として、「カーブス」が人気があり、世界的規模でカーブスのトレーニングが実施されている。我が国のカーブスの店舗数は1900店舗以上あるという。カーブスが用いているトレーニングの方法はサーキットトレーニングであり、その方法は、軽いレジスタンス運動と有酸素運動の組み合わせである。女性を対象とし、ウェストが細くなったり、体脂肪を減少させるといった、一般的に受け入れられやすい形でアメリカの大学教授がビジネスモデル化したことが成功しているといえる。理論的な源流となるものは、すでに45年前に東京大学の体育授業で行われていたサーキットトレーニングと同じである。
4. 東京大学のウェイトトレーニングのスーパースターたち <松尾昌文> <石井直方>
東京オリンピックを契機に整備されたウェイトトレーニングの機器を用いて、東大ボディビルクラブ(B&W)発足した。B&Wの発足時の顧問教官となったのは、松尾昌文助手(当時)であった。32歳であった松尾先生は、ウェイトトレーニングに大変興味を持ち、その時期から本格的なトレーニングに励み、我が国の中心的な指導者になった。
松尾先生は週3回、休日には一日8時間のトレーニングを積み、20年後の1983年には、カナダで行われた世界マスターズパワーリフティング選手権大会に出場して、ベンチプレス145㎏、スクワット210㎏、デッドリフト240㎏を挙げ、トータル595㎏で50歳代の体重90㎏級クラスの世界チャンピオンシップを獲得した。国内大会における最高記録は、53歳時のベンチプレス150㎏、スクワット270㎏、デッドリフト260㎏、トータル680㎏であり、ベンチプレスについては55歳の時に155㎏を挙げている。最高能力は、松尾先生の場合50歳を超えてから得られている。
一方、東大B&Wのメンバーは、国内学生選手権で優勝を重ね、東大生が学生ボディビル界では最も優れた地位を築いていた。クラブが発足して10年ほどしてとてつもない快男児が入学してきた。石井直方氏(現・東大教授)である。B&Wに所属し、1975年から関東学生パワーリフティング選手権で6連勝、1981年、1983年には、ミスター日本のタイトルを取り、1982年にアジア選手権に優勝している。石井直方選手の雄姿は、写真1にみられるとおりである。石井氏は、東大理学部・大学院を卒業し、ケンブリッジ大学から帰国した理学博士であるが、1990年に理学部の助手をしていた時に「駒場の体育の先生になってはどうか」と、教授になったばかりの私が石井氏を誘った。石井氏は、他大学理学部助教授のポストが決まりかけていたが、私の要請を受け入れて、駒場の体育科で1年間助手を務め、翌年には助教授に昇格した。現在は、筋力トレーニングに関して、スロートレーニングの提唱者としても知られ、名実ともに日本のリーダーとして活動されている。
2016年に全学共用機構として、東京大学スポーツ先端科学研究拠点が設立されたとき、石井直方教授は、初代拠点長となって、東京大学の各学部や研究機関に係るスポーツ科学研究の推進を図っている。関連学部は、医学部、工学部、理学部をはじめ学内16研究機関にわたり、近年では、スポーツ科学の関連領域の広がりが改めて認識されている。
第3回
5. 学生時代のウェイトトレーニング <三島由紀夫> <玉利 齊> <窪田 登>
大学の受験勉強で痩せて筋肉が落ちてしまっていた若者が、大学入学後、3ヶ月ほどでたくましく、筋肉質の身体に変身していく様子を見ると、筋肉というものがトレーニングに対して豊かな可塑性を持っていることが理解できる。身体が細かった私も、何とかたくましい筋肉質な身体になりたいと思った。大学のトレーニング体育館をよく利用したが、授業時間帯は使わせてもらえなかったことから、トレーニングを徹底して行うために、父親にねだって150kgのバーベルセットと鉄アレイ2組を購入した。木製のベンチプレス台を手作りし、経堂の自宅の庭で「筋力トレーニング」が始まった。内容は、ベンチプレス、フルスクワット、ジャーク、アームカール、などである。当時45歳であった母親も「筋トレ」に興味を持ち、軽いバーベルを担いで、自分なりの筋力トレーニングを開始した。私は、週3回、砧緑地公園までの早朝ランニングと筋トレを行った後に通学したが、トレーニングの効果は、身体をしっかりしたものに育ててくれた。胸や腕、肩や背の筋肉がたくましくなり、Yシャツの胸ボタンがきつくなるなど、筋肉が張りつめた感覚は、快い充実感をもたらしてくれた。
この頃、ボディビルへの世間的な興味は少しずつ高まっていた。作家の三島由紀夫氏も昭和30年(1955)から本格的なボディビルを自宅で開始し、肉体改造によって弱かった胃腸が丈夫になったことなど、テレビのインタビュー番組で本人の口から語られていた。三島由紀夫氏にボディビルを最初に手ほどきしたのは、当時早稲田大学バーベルクラブの主将であった玉利 齊氏(前・日本ボディビル連盟会長)であった。この頃、三島由紀夫氏は、小説「金閣寺」の執筆準備中であった。三島氏は、鍛え抜かれた肉体への美意識を高め、「憂国」などの映画出演で「切腹」のシーンを自ら演じたりしたが、実際に昭和45年(1970)に市谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺してしまった。「肉体と精神の関連」なども大きな話題となった。
東京オリンピックが行われた頃は、筋力トレーニングが日本に導入されて間もないころであり、1955年に初めて日本ウェイトリフティング協会によって「ボディコンテスト」が行われ、窪田 登氏が優勝している。窪田氏は、ウェイトリフティング競技でローマオリンピック大会(1960)に7位入賞を果たしているが、その後、早稲田大学教授(2002-2004年には吉備国際大学学長)として、わが国の筋力トレーニング指導の第1人者となって長年活躍し、100数十冊におよぶ筋力トレーニング関係の著作を出版している。
私も、東大駒場のトレーニング体育館で窪田先生の「筋力トレーニング」の講習会に何度か出席し指導を受けた。身体も心も非常にパワーフルな先生で、その独特な話術は人をひきつける魅力があり、実技指導も面白かった。
近年では、筋力トレーニングはボディビルダーやスポーツ選手のためだけではなく、一般的な体力の維持向上や、生活習慣病の予防、寝たきり予防のためのトレーニングとしてすすめられ、多くのフィットネスジムでは、さまざまな形で筋力トレーニングが行われている。ただし、その方法を正しく用いないと、怪我をしたり、かえって身体に害となることがある。
バーベルやダンベル、鉄アレイなどの重量物を用いる筋力トレーニングばかりでなく、1960年代には、アイソメトリックトレーニングという方法が導入された。アイソメトリックトレーニングとは、静的筋力トレーニングともいわれ、筋肉の長さを変えずにいろいろな筋力発揮姿勢をとって6秒間力を加えるというものである。この方法は、ドイツのTh.ヘティンガーという学者が考えたもので、1970年には、「アイソメトリックトレーニング」(猪飼道夫・松井秀治訳)が出版されている。3秒から6秒間力んで力を発揮するだけで筋力が増し、筋肉も太くなる、という内容は大変新鮮であった。原本はドイツ語で書かれているが、その翻訳のお手伝いをしたので、理論の内容はよく理解できた。
この翻訳本が出版される以前から、へティンガーのアイソメトリックトレーニングは、東大の松尾昌文先生や窪田登先生によって紹介され、私が大学1年生の時からすでにトレーニングの授業に取り入れられていた。
第1回油彩画 14cm×18cm 能仲ヤツヲ
1.初めに 世田谷に寄せて 小学校校長遠藤先生
昭和初期の世田谷といえば、小田急線が開通し、新興住宅地として発展し始めた頃であ
る。私が子どもの時から大学院を卒業するまで20数年間住んでいた経堂の家は、昭和3年、
小田急線が開通して間もなく、代々木から移り生んだ祖父母の代に建てられたものであった。庭先から50mほど離れたところを走る小田急線は、2両連結の時代で、たまに3両や4両連結の列車が通るものならばとても珍しく思えた。たまに「ロマンスカー」が「キンコーン、カンコーン」というマイク音を発して通り過ぎて行った。
世田谷区立経堂小学校に入学したのは昭和25年、その時の校長は遠藤五郎校長先生である。遠藤先生は大変話が上手で、毎週月曜日に校庭で行われた全児童が集合する朝礼では、その時々の話題をわかりやすく話され、「学校が空襲を受け、校舎の屋根に爆弾による大きな穴がいくつもあいたこと」や、勤労感謝の日には、「ご飯を食べる時には、田植えや、夏の暑い盛りの草取り、稲刈りの重労働によって実ったお米を作ってくれたお百姓さんに感謝の気持ちを忘れないように」といったこと、「すずらん通りを走る路線バスの後ろバンバーにつかまってローラースケートで滑っていた経堂小の児童(S君)がいたこと」(これは注意と叱責)など、記憶をたどるといろいろな話が思い出される。その中で、校長先生が特に言いたかったことは、「皆さんのように若い人たちが一生懸命勉強して、これからの新しい日本の国づくりに頑張ってほしい」ということだった。
ランドセルで背中が隠れてしまうような小学校児童を対象に、はたしてこうした校長先生の話は、どこまで子どもたちに理解されたであろうか。しかし、振り返ってみると、校長先生の思いは不思議に私たちの世代の人間には少なからぬ影響を与えたといえる。
遠藤先生は、のちに全国連合小学校長会の会長(第8代)となって、文部省の中央教育審議会委員(委員長は森戸辰男氏)となった人である。相当な人物であったことは間違いない。昭和41年10月に中央教育審議会は、「後期中等教育の拡充整備について」という第20回答申を有田喜一文部大臣宛に行い、この中に有名な「期待される人間像」が別記として記述されている。この答申を今になって読み返してみると遠藤先生の顔が浮かぶような内容がびっしりと記されている。当時の大人たちが次の時代を担う若者たちの教育の在り方について、その期待と情熱が伝わってくる。
2.1964オリンピック 東大駒場の練習場
昭和39年(1964)に、東京オリンピックが開催された。日本が戦争に敗れて後、初めて国際舞台に復帰した大きなイベントであった。私は、経堂小学校、世田谷区立緑が丘中学校、都立新宿高校を卒業して、東京オリンピックの年には、東京大学教養学部の駒場キャンパスに通学していた。
東京大学駒場キャンパス内にある第1グラウンド(陸上競技場)は、千駄ヶ谷の国立競技場に比較的近い距離にあることから、オリンピック陸上競技選手たちの公式練習場に指定され、オリンピック前や期間中に外国の選手たちが多数練習におとずれた。私は、東京大学陸上運動部の部員として、練習場の整備などの役割を担った。
東京大学教養学部体育科の主任教授であった加藤橘夫先生は、陸上運動部のOBであり、陸上運動部の監督をされていた。加藤先生は、東京オリンピック組織委員会の科学委員会委員長を務めておられ、この機会に、東大駒場に本格的なトレーニング施設の建設とグラウンドの整備を実現させた。当時は、バーバルを用いたウェイトトレーニングは日本の選手には馴染みがなく、おもりを持ったウェイトトレーニングを行うと「筋肉が硬くなってしまう」ということを信じる人たちも多かった。加藤先生は、第1グラウンドの隣接地に「トレーニング体育館」と名付けたトレーニング場を建設させ、外国の選手たちの使用に合わせた本格的なウェイトトレーニング設備を設置した。バーベルのシャフトだけで20㎏の重さがあり、シャフトの両サイドには、ボールベアリングがついたプレート止めの装置がついており、1枚が20㎏の大きなプレートを左右2枚ずつ付けると100㎏の重さになる。ウェイトトレーニング機器(フリーウェイト)は20セット程揃えられるとともに、大型トランポリン3台、登攀用ロープ、肋木、跳び箱、腹筋台、ベンチプレス台、リクラインベンチ、スクワットラック、体操競技の機器1式(鉄棒、跳馬、吊り輪、平行棒、平均台、マット)などが備え付けられた。
このような立派な設備を持つトレーニング体育館はこれまで日本にはなかったので、灘尾弘吉文部大臣(当時)がわざわざ視察に見えたほどであった。こうしたトレーニング機器を用いて外国のオリンピック選手たちは、競技の前日までトレーニングを続けていた。
通常、選手たちは試合前2~3日は調整期を設け、練習量を落として「バネ」をためる。しかし、外国の選手たちはたくましくトレーニングを続けていた。たぶん、調整はしていたのであろうが、それにしてもものすごい負荷での練習であった。特に印象的であったのは、ハンガリーのジボツキー選手で、よく練習場に通ってきた。投擲の練習場は、東大駒場キャンパス内で、現在ホッケー場とテニスコートとして使われている第2グラウンドであった。ジボツキー選手はハンマー投げで銀メダルを獲得した。日本選手では、ハンマー投げで岡本登選手が練習に来たが、実力の差は練習の段階で明白であった。アメリカの選手も大勢練習に来た。北朝鮮の辛金丹という女子選手(400m、800m出場予定)も練習に来たが、政治的理由によって本番のレースには出場しなかった。出場していれば優勝という予想であった。
スポーツ選手の体格の良さ、逞しさ、美しさはこれまでに目にしたことのない別世界のもののように思えた。スポーツのもつすばらしさに魅了され、こういうスポーツの世界で仕事がしたいと思うようになった。
油彩画 14cm×18cm 能仲ヤツヲ
第2回
3.体力テストとサーキットトレーニング <加藤橘夫>
東京大学に作られたトレーニング体育館は、日本のスポーツ界や体育界に大きな影響をもたらせた。まず、第1に、ひ弱な東大生の特訓である。毎年の新入学生全員に4種目(垂直跳び、反復横とび、腕立て伏臥腕屈伸、踏み台昇降運動)の体力テストが行われ、合計点および一種目でも基準点に達しなかった場合には、「トレーニングコース」に配属される。そこで「サーキットトレーニング」を中心としたトレーニングを1学期受講する。体育実技は週1回、4学期(2年間)必修であった。1学期のトレーニング成果が上がると、2学期からはスポーツコースの選択が許可された。
私自身は、身長178cm、体重60㎏と痩せた体格で、腕力が弱く、腕立て伏臥腕屈伸で最低基準の24回をクリアーすることが難しかったが、初めからスポーツコースを選択したかったので、腕立て動作をごまかしながらなんとか最低基準をクリアーした。
サーキットトレーニングは、体育館内の様々な筋力トレーニング機器や、鉄棒(懸垂)、マット(腹筋)、バーベル(スクワット、ベンチプレス)、鉄アレイをもちいて、一定時間内にできる各項目ごとの最大回数を測定し、その回数の50%程度の負荷で10~12種目を休みなく1巡するもので、心拍数はほぼ最大基準の毎分180拍まで上昇する。筋肉と持久力の両方を同時に高めることを目標に、当時イギリスで開発された方法を取り入れたものであった。サーキットトレーニングは、室内でできる全身的なトレーニングである。
加藤橘夫教授は、「自分の場合、体育の学問を始めたのは晩学であるが、用いる方法は最先端である」と自負されておられた。「東京大学に入学した諸君は、卒業後社会の中核となって活動することになろうが、体力がなければ最後の踏ん張りがきかない。上に立つものほど体力が必要なので、東京大学を卒業する学生は一定以上の体力を持っていることが卒業の要件として必要である」という哲学を持っておられた。新制大学に保健体育が必修科目として位置づけられたのは、加藤橘夫教授の尽力によるところが大きいとされている。
ちなみに、東京大学に入学した学生全員に対して、2019年の現在でも1964年当時からの体力テストが同じ4種目で実施されている。文部科学省の体力テストは、2000年から「新体力テスト」としてそれまでの項目と異なるものが実施されている。東京大学では、45年間にわたって全く同じ測定項目で体力テストが行われているので、東大生の体力の時代変化を如実にとらえることができる。そのための研究プロジェクトが活動し始めており、近いうちにその研究結果が報告される予定である。
また、近年では、女性のみを対象にした30分間の健康体操教室として、「カーブス」が人気があり、世界的規模でカーブスのトレーニングが実施されている。我が国のカーブスの店舗数は1900店舗以上あるという。カーブスが用いているトレーニングの方法はサーキットトレーニングであり、その方法は、軽いレジスタンス運動と有酸素運動の組み合わせである。女性を対象とし、ウェストが細くなったり、体脂肪を減少させるといった、一般的に受け入れられやすい形でアメリカの大学教授がビジネスモデル化したことが成功しているといえる。理論的な源流となるものは、すでに45年前に東京大学の体育授業で行われていたサーキットトレーニングと同じである。
4. 東京大学のウェイトトレーニングのスーパースターたち <松尾昌文> <石井直方>
東京オリンピックを契機に整備されたウェイトトレーニングの機器を用いて、東大ボディビルクラブ(B&W)発足した。B&Wの発足時の顧問教官となったのは、松尾昌文助手(当時)であった。32歳であった松尾先生は、ウェイトトレーニングに大変興味を持ち、その時期から本格的なトレーニングに励み、我が国の中心的な指導者になった。
松尾先生は週3回、休日には一日8時間のトレーニングを積み、20年後の1983年には、カナダで行われた世界マスターズパワーリフティング選手権大会に出場して、ベンチプレス145㎏、スクワット210㎏、デッドリフト240㎏を挙げ、トータル595㎏で50歳代の体重90㎏級クラスの世界チャンピオンシップを獲得した。国内大会における最高記録は、53歳時のベンチプレス150㎏、スクワット270㎏、デッドリフト260㎏、トータル680㎏であり、ベンチプレスについては55歳の時に155㎏を挙げている。最高能力は、松尾先生の場合50歳を超えてから得られている。
一方、東大B&Wのメンバーは、国内学生選手権で優勝を重ね、東大生が学生ボディビル界では最も優れた地位を築いていた。クラブが発足して10年ほどしてとてつもない快男児が入学してきた。石井直方氏(現・東大教授)である。B&Wに所属し、1975年から関東学生パワーリフティング選手権で6連勝、1981年、1983年には、ミスター日本のタイトルを取り、1982年にアジア選手権に優勝している。石井直方選手の雄姿は、写真1にみられるとおりである。石井氏は、東大理学部・大学院を卒業し、ケンブリッジ大学から帰国した理学博士であるが、1990年に理学部の助手をしていた時に「駒場の体育の先生になってはどうか」と、教授になったばかりの私が石井氏を誘った。石井氏は、他大学理学部助教授のポストが決まりかけていたが、私の要請を受け入れて、駒場の体育科で1年間助手を務め、翌年には助教授に昇格した。現在は、筋力トレーニングに関して、スロートレーニングの提唱者としても知られ、名実ともに日本のリーダーとして活動されている。
2016年に全学共用機構として、東京大学スポーツ先端科学研究拠点が設立されたとき、石井直方教授は、初代拠点長となって、東京大学の各学部や研究機関に係るスポーツ科学研究の推進を図っている。関連学部は、医学部、工学部、理学部をはじめ学内16研究機関にわたり、近年では、スポーツ科学の関連領域の広がりが改めて認識されている。
第3回
5. 学生時代のウェイトトレーニング <三島由紀夫> <玉利 齊> <窪田 登>
大学の受験勉強で痩せて筋肉が落ちてしまっていた若者が、大学入学後、3ヶ月ほどでたくましく、筋肉質の身体に変身していく様子を見ると、筋肉というものがトレーニングに対して豊かな可塑性を持っていることが理解できる。身体が細かった私も、何とかたくましい筋肉質な身体になりたいと思った。大学のトレーニング体育館をよく利用したが、授業時間帯は使わせてもらえなかったことから、トレーニングを徹底して行うために、父親にねだって150kgのバーベルセットと鉄アレイ2組を購入した。木製のベンチプレス台を手作りし、経堂の自宅の庭で「筋力トレーニング」が始まった。内容は、ベンチプレス、フルスクワット、ジャーク、アームカール、などである。当時45歳であった母親も「筋トレ」に興味を持ち、軽いバーベルを担いで、自分なりの筋力トレーニングを開始した。私は、週3回、砧緑地公園までの早朝ランニングと筋トレを行った後に通学したが、トレーニングの効果は、身体をしっかりしたものに育ててくれた。胸や腕、肩や背の筋肉がたくましくなり、Yシャツの胸ボタンがきつくなるなど、筋肉が張りつめた感覚は、快い充実感をもたらしてくれた。
この頃、ボディビルへの世間的な興味は少しずつ高まっていた。作家の三島由紀夫氏も昭和30年(1955)から本格的なボディビルを自宅で開始し、肉体改造によって弱かった胃腸が丈夫になったことなど、テレビのインタビュー番組で本人の口から語られていた。三島由紀夫氏にボディビルを最初に手ほどきしたのは、当時早稲田大学バーベルクラブの主将であった玉利 齊氏(前・日本ボディビル連盟会長)であった。この頃、三島由紀夫氏は、小説「金閣寺」の執筆準備中であった。三島氏は、鍛え抜かれた肉体への美意識を高め、「憂国」などの映画出演で「切腹」のシーンを自ら演じたりしたが、実際に昭和45年(1970)に市谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺してしまった。「肉体と精神の関連」なども大きな話題となった。
東京オリンピックが行われた頃は、筋力トレーニングが日本に導入されて間もないころであり、1955年に初めて日本ウェイトリフティング協会によって「ボディコンテスト」が行われ、窪田 登氏が優勝している。窪田氏は、ウェイトリフティング競技でローマオリンピック大会(1960)に7位入賞を果たしているが、その後、早稲田大学教授(2002-2004年には吉備国際大学学長)として、わが国の筋力トレーニング指導の第1人者となって長年活躍し、100数十冊におよぶ筋力トレーニング関係の著作を出版している。
私も、東大駒場のトレーニング体育館で窪田先生の「筋力トレーニング」の講習会に何度か出席し指導を受けた。身体も心も非常にパワーフルな先生で、その独特な話術は人をひきつける魅力があり、実技指導も面白かった。
近年では、筋力トレーニングはボディビルダーやスポーツ選手のためだけではなく、一般的な体力の維持向上や、生活習慣病の予防、寝たきり予防のためのトレーニングとしてすすめられ、多くのフィットネスジムでは、さまざまな形で筋力トレーニングが行われている。ただし、その方法を正しく用いないと、怪我をしたり、かえって身体に害となることがある。
バーベルやダンベル、鉄アレイなどの重量物を用いる筋力トレーニングばかりでなく、1960年代には、アイソメトリックトレーニングという方法が導入された。アイソメトリックトレーニングとは、静的筋力トレーニングともいわれ、筋肉の長さを変えずにいろいろな筋力発揮姿勢をとって6秒間力を加えるというものである。この方法は、ドイツのTh.ヘティンガーという学者が考えたもので、1970年には、「アイソメトリックトレーニング」(猪飼道夫・松井秀治訳)が出版されている。3秒から6秒間力んで力を発揮するだけで筋力が増し、筋肉も太くなる、という内容は大変新鮮であった。原本はドイツ語で書かれているが、その翻訳のお手伝いをしたので、理論の内容はよく理解できた。
この翻訳本が出版される以前から、へティンガーのアイソメトリックトレーニングは、東大の松尾昌文先生や窪田登先生によって紹介され、私が大学1年生の時からすでにトレーニングの授業に取り入れられていた。