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「十坪ジム」講演会 「十坪ジムと禅」

この記事は、2020年3月1日に「十坪ジム」初石の会員を主対象として実施したものです。
その講演内容を、実際の講演よりも詳しく文章化したものです。連載形式で加筆していく予定です。
「十坪ジム」初石講演会                   2020年3月1日
                      小林寛道
1.「十坪ジム」と鴨長明「方丈記」

「春はあけぼの・・・」とは、清少納言の「枕草子」(*1)、「つれづれなるままに・・・」は、吉田兼好の「徒然草」(*2)、「ゆく河の流れは絶えずして・・・」は、鴨長明の「方丈記」(*3)の最初の部分です。
 「枕草子」「徒然草」「方丈記」は、日本三大随筆といわれ、作られた年代は、枕草子が平安時代中期(詳細な年代は不明)、「徒然草」は鎌倉時代後期の1330年または1349年、方丈記は鎌倉時代前期の1212年となっています。年代順には、枕草子、方丈記、徒然草の順番ですが、鎌倉時代から今日まで800年間にわたって読み継がれています。
枕草子は、平仮名を中心とした和文で綴られていますが、方丈記は平仮名と漢字が入り混じった和漢混淆文で書かれ、和漢混淆文芸の祖とされています。徒然草より120年ほど前に書かれています。

(*1 春はあけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。夏は夜。月のころはさらなり、・・)
(*2 つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。)
(*3 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、よどみに浮かぶうたかたは かつ消えかつ結びて 久しくとどまりたるためしなし)


「方丈記」の作者である鴨長明(1155~1216)は、下鴨神社の禰宜の家に生まれたが、後継者とはならず、歌人、随筆家、文学者として活動し、新古今和歌集に10首入集、「千載集」はじめ勅撰集に25首入集され、「無名抄」(歌論書:80段)、「発心集」(説話:8巻100話)、「鴨長明集」(歌集)を著しています。
琴や琵琶など管弦の名手であったと伝えられ、「十訓抄」(鎌倉時代の説話集:編者不詳)には、鴨長明が管弦を奏でるありさまを、「念仏のひまひまには糸竹のすさみを思ひすてざりけるこそ、すきのほどいとやさしけれ」(経を読む合間にも琴や琵琶を演奏することをやめなかったのは、風流であり優美である)と記されています。
鴨長明像鴨長明

鴨長明は、50歳で出家し、60歳で終の棲家として京都の日野山の奥に「方丈庵」を作り、「方丈記」を1212年に著し、没年(1216年)を迎えています。
「閑居静処し、小欲知足する境涯」を謳歌しましたが、最後は自らを問い詰め、「執着する心をもってはならない」、「草庵を愛することも罪となる」という境地となり、深い思索と優れた教戒の文学を残しています。
もともと、「方丈」とは、一辺が3mほどの四角部屋で、禅宗寺院の住持や長老の居室をさしますが、そのことは仏典「維摩経」に維摩居士の部屋が1丈四方の広さであったという故事に由来しています。
この2.7坪(9㎡)、和室でいえば6畳間よりも狭い部屋が、禅宗の尊い僧の居室であるという事には、居室は質素であるが、限られた狭い空間の中にあってもそこから果てしなく広い世界観、宇宙へとつながっている、という事を意味しています。
方丈庵方丈庵2方丈庵

鴨長明は、「方丈庵」について、その様子を次のように説明しています。
 (* 現代語訳:日野山の奥に痕跡を隠して住む。広さは1丈四方で高さは7尺、土台を組み簡単な屋根を葺く。東に三尺あまりの庇を切り、芝を折る場所とする。南は竹の縁側を作り、その西に閼伽棚(あかたな)を作り、北に寄せて衝立を隔てて阿弥陀仏の絵像を置き、傍に普賢菩薩の絵像をかけ、前に法華経を置いてある。東の端に蕨の穂がほけたものを敷いて夜の寝床とする。西南に竹の吊り棚を取り付けて、黒い皮を張ったかごを三つ置いている。そして和歌や音楽の書物、往生要集のような抜き書きを入れている。その傍に、琴と琵琶をそれぞれ一つ立てている。かりそめの庵の様子はこのようである。場所は、南に筧がある。岩を組み合わせて水をためている。林の木が近いので、薪にする小枝を拾うには不自由しない。名を外山という、西の方は見晴らしがよい。西方浄土に思いをはせる便宜がないわけではない。(方丈記 11章、12章から抜粋)

1986年に、私は名古屋大学から東京大学教養学部(駒場キャンパス)に転任しましたが、与えられた個室の研究室の狭さにびっくりしました。名古屋大学総合保健体育科学センターでは、教官の個室は、40㎡ほどありましたが、東大の個人研究室はその3分の1程度でした。この研究スペースの狭さには本当に驚かされました。
ここに私の机、椅子、書庫、ロッカーを置き、隣に学生が利用する小机と椅子、書架をおくと、身動きできないような狭さになります。「こんな研究環境でどうするのだ」と腹立たしくなりました。こんな狭いところで、研究論文を書き、データをまとめ、学生の指導も行わなければならない大学の現状には、ある種の悲哀さえも感じました。
 狭いスペースで英文の論文などを書きながら、心を集中させていくと、だんだんと狭い空間にも慣れてくるようになりましたが、「しかし、狭すぎる」と嘆息も出ます。その時、悲しい心に浮かんだのは、大学受験時代に学んだ鴨長明の「方丈記」でした。
1丈四方の狭い空間の中でも、知恵やアイディアは生み出すことができるし、限りなく広い空間へとつながっている。場所の狭さだけにこだわってはいけない。そこから発信できる広がりが大切なのだ、という想いを持つことによって、心はいくらか救われたように思いました。むしろ、「広い空間や建物の豪華さだけを求めるのではなく、中身の充実を図ることが大切なのだ」といった開き直りに似た気持ちも持てるようになってきました。

こうして2006年に東大の駒場キャンパスを定年退職し、東大柏キャンパスを第2の職場として、地域の健康づくりを目的とした「十坪ジム」事業に取り組むことになりました。
高齢者を主対象とした健康増進を目的とした小規模な健康づくり運動スポットを地域社会に数多く作り、日常的に継続的な運動を行うための核とするという構想は、経済産業省にも認められ、柏市からの助成(当初3年間)も受けることができました。
小規模トレーニング施設の名称を「十坪ジム」としました。
「十坪ジム」には、大規模トレーニング施設にあるようなプールや浴室、シャワー設備はなく、設備されるものは、トレーニングマシンとトイレ、更衣スペース、事務机、椅子程度のものです。ただし、トレーニングマシンは、認知動作型トレーニングマシンに限ることにしました。研究の成果を実社会でその実際効果を検証する意味合いもありました。独自に開発したオリジナルなトレーニングマシンによる運動が、「それぞれの人が、それぞれに求めようとする体や心の状態を現実化するための具体的な方法として有効である」ということを多くの人に体感してもらうことが、その根本的な意図としてあるわけです。
「十坪ジム」は10坪(33㎡)程度のジムという事で、マシンを用いるトレーニングジムとしては非常識ともいえる狭いスペースであり、いわば革命的に小さなジムです。しかし、この狭いスペースに8台程度のマシンを据え付けると、身動きできないほどではなく、マシンに乗れば自由に身動きが取れます。ただし、無駄なスペースがないという事です。
「十坪ジム」という名称を用いるにあたって、鴨長明の「方丈記」が連想されました。方丈は、スペース的に2.7坪しかありませんから、これよりは大きいといえます。
これまで、「十坪ジム」の説明として、シャッター街となる空き店舗のスペースがこのくらいなので、空き店舗利用を可能にするトレーニングジム、といったことを述べてきています。しかし、「十坪ジム」の実際の大きさは、10~30坪(33~100㎡)程度でまちまちです。「十坪ジム初石」の大きさは21坪です。それでも本格的なトレーニングジムと比較すればあまりにも小さいスペースです。しかし、「十坪ジム」という名称には、「方丈記」に描かれているような禅の思想や哲学が、その根底に横たわっているのです。

2.「十坪ジム」と禅

「十坪ジム」に設置してある「舟漕ぎ動作マシン」のハンドルバー(取っ手)を握り、両足を前後に軽くひろげて立ち、軽い抵抗負荷のかかったオールバーを静かに和船のオールを漕ぐような気持ちで押したり引いたりする動作を続けていると、不思議に気持ちが良く、体の中から自然にいろいろな考えや想いが浮き上がってきて、それがそのまま体の外に抜けていき、10分ほど動作を継続すると何とも言えないすっきりした頭の状態になり、体と気持ちが穏やかに充実した感じになります。
この「舟漕ぎ動作」をおこなったときの感覚は、私だけの感覚ではなく、その運動を行った人の多くが同様な感覚をもつことができるようです。
画像舟漕ぎマシン(ストレッチロウイング)

 舟漕ぎ動作に気持ち(心)を集中して行っていると、これは「動く禅」だ、と感じることがあります。禅といえば、静かに坐禅を組んで瞑想する、ということが思い浮かびます。ひたすら坐禅に集中することを「只管打坐(しかんたざ)」といいますが、これは曹洞宗の開祖道元(1200~1253)が勧め、実践した坐禅の方法で、「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」という書物には、坐禅によって「身心脱落」することが大切だと教えられています。「身心脱落」とは、身体と心の束縛から離れることを意味します。
 「十坪ジム」の運動は、マシンを用いたトレーニングですが、その本質的な部分の中には、「禅」の要素が深く含まれていると感じ取ることができます。
禅は、「坐禅」を基本としますが、「動く禅」すなわち「動禅」というものがあるとすれば、「十坪ジム」は、別名「動禅道場」と呼ばれるものに相当します。そこでは、「運動」「トレーニング」ということは、「修行」ということになります。
道元は24歳の時に南宋にわたり、中国曹洞宗の如浄(にょじょう)に師事して4年間禅修行に打ち込み、帰国後、その思想を受け継いで禅道場をひらき、福井県の永平寺が曹洞宗の総本山になっています。
冬の永平寺冬の永平寺


このように、「十坪ジム」の運動には、仏教に関する思想・哲学・宗教とも深いかかわりがあることに気づかされます。そのことを意識するか否かにかかわらず、「十坪ジム」の運動の深みの源流について、もう少し歴史文化史的な視点から考えておく必要があるといえます。

我が国の仏教文化に最も大きな影響をもたらした2人の人物といえば、空海と最澄であるといえます。桓武天皇による遣唐使(804年)として唐に派遣された時の年齢は最澄が38歳、空海は31歳でした。最澄は短期派遣生として2年間天台宗を学び、空海は長期留学の予定ではあったが2年間のうちに真言密教の奥義を学んで帰国しました。最澄は比叡山延暦寺、空海は高野山金剛峯寺および東寺を拠点に活動しました。
この2人の影響はあまりに大きいので、日本の仏教の流れを簡略化してとらえる場合、最澄・空海以前(飛鳥・奈良時代)と以後(平安・鎌倉時代)に分けてみることにします。

飛鳥・奈良時代の仏教

日本への仏教伝来は、日本書紀には飛鳥時代の552年となっていますが、近年の研究では、さらに古く538年であるとされています。
飛鳥時代には、物部氏と中臣氏が仏教の導入に反対、蘇我氏は賛成と意見が分かれましたが、蘇我氏との戦に敗れた物部氏は滅亡。聖徳太子が「十七条憲法」(604年)を制定し、その第二条で「篤く三宝(佛・法・僧)を敬え」として、仏教を重視しました。十七条の憲法は、皇族や官僚の道徳的な規範を定めたもので、神道、儒教、仏教の思想とともに法家(諸子百家の一つ)、道教の考え方も含まれています。第一条には、「和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ」とあります。
聖徳太子17条憲法

 (*私が子どもの頃、山深い神社の森で梟(フクロウ)が鳴いている声を聴いたことがあります。鶏は「コケコッコー」、犬は「ワンワン」「キャンキャン」、カラスは「カアカア」と鳴くように、フクロウは、確かに「ブツ ポー ソウ― ブツ ポー ソウ―」と鳴いていました。梟の鳴く「佛・法・僧」には、深い意味があることを、昔の人は問わず語りで教えてくれていたように思います。)

聖武天皇(第45代:在位724~749)は、国分寺や国分尼寺の建立(741年)を勧め、その一つとして東大寺(正式名称は「金光明四天王護国之寺」)を建立し、752年に大仏(廬舎那仏坐像))の開眼供養会を行っています。廬舎那仏は、釈迦如来の別名で、坐像の左手で宇宙の智慧、右手で慈悲を表しているとされています。
奈良時代には、東大寺(華厳宗:開祖審祥)をはじめ、興福寺(法相宗大本山)、薬師寺(法相宗:開祖道昭)、唐招提寺(律宗:開祖鑑真)が建立されています。
奈良時代の仏教は南都六宗(法相宗、華厳宗、律宗など6宗派)といわれ、学派的要素が強かったのですが、仏教の教理を研究し、学僧を養成する東大寺には、多くの学僧が集まり六宗兼学の学問寺となっていました。

桓武天皇(第50代:在位781~806)は、官僚の経験をもった天皇で、朝廷中心の政治を目指し、平城京で強大になりすぎた寺社群の政治への影響力を嫌い、長岡京に遷都、10年後さらに平安京に遷都しました。最澄と空海を遣唐使として派遣しました。

3、最澄と天台宗

天台宗は、中国の隋時代の天台大師 智顗(ちぎ)(538~597)を実質的な開祖としています。智顗は、鳩摩羅什(344~413)がサンスクリット語から漢訳した「法華経(妙法蓮華経)」を最高位におき、「摩訶般若波羅密経」「大智度論」「涅槃経」に基づいて教義を組み立て、「止観」によって佛となることを説きました。
智顗天台大師 智顗
智顗の「天台小止観」「摩訶止観」「次第禅門」は、今日でも禅の解説書として依用されていますが、その源は法華経の教理に基づく悟りの法門です。禅宗では、特に「摩訶止観」が重視されています。
「止観」とは、瞑想での「止」と「観」を意味します。「止」とは、心の動揺をとどめて本源の真理に住すること、「観」とは、不動の心が智慧の働きとなって、事物の真理に即して正しく観察することです。「止」は禅定(*心の動揺することが無くなった一定の状態)、「観」は智慧に相当し、智顗は、あらゆる行法は止観に統摂されるとしました。

これを解説すると、『「止」は、日常的な心の働きを静め、心を一つの対象に結び付けることを実践する。呼吸瞑想では、呼吸の一つ一つの「出る」「入る」に気づいて、これを一連の動作として繰り返す。「観」は、身体が感じるすべての感覚機能が起きていることを一つ一つ対象化して気づいていく。次から次へと六根によって感受され、認識される際に現在進行形のように気づいていく。』
「止観」とは静と動の意味であり、「摩訶止観」の第7章に「円頓止観」という究極の悟りが述べられており、頓悟(ただ座ることにより仏性を自覚すること)が重視されています。

唐で最澄が学んだ天台は、6代祖の湛然の弟子である道隧(どうずい)と行満から学んだ天台教学でした。また、禅林寺の修然(しゅうねん)から禅(達磨系の禅)を学び、順暁阿闍梨から密教の伝法を受けました。
320px-最澄像_一乗寺蔵_平安時代[1] 伝教大師 最澄(766~822)

最澄は、智顗の説を受け継いで「法華経」を中心とするが、「四宗合一」と「止観」を特徴とした日本天台を開きました。日本天台宗の正式名称は、天台法華円宗です。
四宗とは、「円」(天台の教え)、「戒」(戒律:円頓菩薩戒)、「禅」(禅の行法)、「密」(密教の教え)です。また、「止観」の行として、今日では、「朝題目、夕念仏」という言葉に代表されるように、午前中は題目、すなわち法華経の読誦(南無妙法蓮華経)を中心とした行法、午後は阿弥陀佛を本尊とする行法で、後に念仏(南無阿弥陀仏)を唱える行の萌芽となった行が行われています。
 天台宗では、最澄が果たせなかった密教の奥義を完成させるために、弟子たちが習得に邁進し、教理を飛躍的に発展させました。
最澄の弟子である円仁は、浄土念仏を取り入れ、天台宗を発展させ、「すべての存在に仏性が宿る」という天台本覚思想を確立し、比叡山は仏教の総合的な中心となりました。。

平安末期から鎌倉時代にかけて、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮といった新しい宗旨を唱える学僧が比叡山から多く輩出したことから、比叡山は日本仏教の母山と呼ばれています。

4.空海と密教

 空海は、31歳の時、東大寺戒壇院で得度し、第16次遣唐使の当初長期留学生として唐に渡りましたが2年後に帰国しています。たぐいまれな語学(サンスクリット語)や学才によって、師である密教僧恵果(746~806)は、すでに十分な修行を修めていると見抜き、真言密教の奥義を授けました。空海は、恵果が60歳で亡くなるまでの6か月間に完璧に密教をマスターし、「遍照金剛」(この世の一切を遍なく照らす最上の者)の灌頂名が与えられました。恵果から授けられた多くの経典や曼荼羅、法具を日本に持ち帰りました。
空海は、朝廷から816年に高野山、823年に東寺を賜り、真言密教の道場としました。
また、東寺の隣地に私立の「総合種智院」を開き、儒教、仏教、道教などあらゆる思想、学芸を網羅する総合的な教育機関を作りました。
空海 弘法大師 空海(774~835)

空海は、あまりにも偉大であり、完璧であったので、後継者は、その教義を空海以上に深めることはできていません。高野山では、空海(弘法大師)は、いまもなお禅定にはいっているとされています. 空海にゆかりの寺院をめぐる四国八十八か所の遍路は、毎年10~30万人の人が訪れています。
 *真言密教の基本となる経典は「大日経」と「金剛頂経」です。大日如来を教主とし、経典は大日如来が修行の心と実践を説く、という内容になっています。「曼荼羅」は、宇宙の本質や真理を画像表現によってつたえるもので、大日経と金剛頂経に基づく「胎蔵界」と「金剛界」を伝える両界曼荼羅を空海は唐から持ち帰っています。空海は、東寺の講堂に大日如来像や菩薩像など21体を配置して、立体曼荼羅の世界を創り上げました。
真言密教で、「即身成仏」に至るための修行を「三密の行」といいますが、三密とは、手に印を結ぶ「身密(しんみつ)」、陀羅尼や真言を唱える「口密(くみつ)」、瞑想によって精神を統一する「意密(いみつ)」の三つの行のことです。
陀羅尼とは、サンスクリット語である梵語の発音のまま唱える呪文です。空海は、「般若心経」「法華経」「華厳経」などの伝統仏教の教えの全体像を「十住心論」で表し、人間の心の10段階を真言密教の境地としました。苦しみの真の原因は、私たちの世界のとらえ方であるとし、ものの捉え方を変える方法を教えるのが仏教であるとしています。

宇治の平等院
国宝の平等院鳳凰堂は、平安時代を象徴する世界的に有名な建築物となっています。
平安時代の仏教は、皇室や貴族、知識階級の人たちを中心に信仰されており、1052年をはじめとする末法思想(終末論的思想)によって世の中に不安感がたかまり、来世での救済や極楽往生を願い、西方浄土の教主とされる阿弥陀如来を本尊とする大規模寺院が盛んにつくられました。平等院は藤原頼通によって造営された浄土式庭園であり、鳳凰堂全体が阿弥陀曼荼羅を表しているとされます。
宇治の平等院

鎌倉時代の仏教
鎌倉時代は、日本の仏教の大きな転換期にあたり、その流れの延長上に今日があると考えることができます。鎌倉時代には仏教が新興の武士階級や一般庶民にも受け入れられるようになり大衆化が進みました。
この時代には、比叡山で学んだ僧たちが、様々な教義を打ち立てました。
それらは、浄土宗(法然)、浄土真宗(親鸞)、時宗(一遍)、法華宗(日蓮)、臨済宗(栄西)、曹洞宗(道元)などです。これらの宗旨を大きく分けると、「他力本願」を旨とする浄土系諸宗(浄土宗、浄土真宗、時宗)および法華宗(日蓮宗)と、「自力」を旨とする禅宗(臨済宗、曹洞宗)に分けられます。
 しかし、これらの宗旨は、①激しい修行ではない(易行:いぎょう)、②救済方法を一つ選択する(選択:せんちゃく)、③ひたすらに打ち込む(専修:せんじゅう)、という共通の特徴があります。
 ひたすらに「念仏」(南無阿弥陀仏)を唱えること(専修念仏)によって往生できると説く法然(1133~1212)、「絶対他力」「一念発起」「悪人正機説」を説いた親鸞(1173~1262)は、異端とされ後鳥羽上皇によって流罪となったが、後に許されている。
 「遊行上人」と呼ばれた一遍(1239~1289)は、毎日を臨終の時と受けとめて、喜びと感謝の思いを込め念仏を唱える生き方(時宗)を説き、「となふれば仏もわれもなかりけり。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」と歌う踊り念仏を始めました。
一遍上人絵伝 国宝 聖戒作四条釈迦堂一遍上人絵伝 四条釈迦堂 (国宝)

日蓮(1222~1282)は、法華経を釈迦の正しい教えとして選び、題目(南妙法蓮華経)を唱えることを重視しました。鎌倉では大火、洪水、地震、疫病が流行し、1259年には飢饉が全国に広がったことを末法の到来とみて、法華経に基づく政治を行う事を求める「立正安国論」を著しました。題目は、真理そのものであり、そのまま宇宙をあらわす曼荼羅であるとされ、中央に題目を記し、周囲に諸仏・諸神の名を記した法華曼荼羅を本尊としました。

禅宗と幕府による保護
インドの達磨大師(ポーディダルマ)に発し、座禅を組んで精神統一を図り、自らの力で悟りを得ようとする禅の教えは、宋の上流階級の間に広まっていました。日本には、鎌倉時代初期に大日房能忍によって開かれていましたが、栄西(1141~1215)や道元(1200~1253)によって急速に広がっていきました。自力で往生を悟ろうとする禅宗の教えは、自力で問題解決を図る武士の時代の風潮とも合致しました。
栄西は、宋で5年間臨済禅を学び、1191年に臨済宗を開きました。1199年に鎌倉に移り北条政子や将軍源頼家に禅の教えを説き、その帰依を受けました。臨済禅は、坐禅を組む中で、師から与えられる禅問答(公案)に事得ることで悟りの境地に達しようとする教えです。栄西の没後、中国の臨済禅との交流は盛んで、京都に東福寺、南禅寺、大徳寺、妙心寺などが建てられました。
鎌倉では、宋から来日した渡来僧蘭渓道隆(1213~1278)が執権北条時頼の深い帰依をえて建長寺を立て、息子の北条時宗は宋から無学祖元(1226~1286)を招いて参禅し、円覚寺を立てて初代住持としました。
建長寺の古い図面建長寺[1] 建長寺

曹洞宗の開祖である道元は、13歳の時比叡山で出家して天台教学を学び、1223年に渡宋し5年間禅を学び、天童山の如浄に師事して悟りの境地(身心脱落)に達し、如浄の印可を受けました。曹洞禅は黙照禅(もくしょうぜん)ともいい、公案中心の臨済禅に対して、ひたすら禅に打ち込むことによって、内面の自在な境地を体得しようとするものです。
道元は、不立文字を唱え、理論にとらわれずに一切を捨てて、ただひたすらに坐禅に打ち込むことによってありのままの自己があらわれ、身心脱落して悟りに至る只管打坐(しかんたざ)を唱えました。延暦寺からの迫害を避け、世俗的な権勢を一切拒否し、1243年越前の永平寺で坐禅中心の厳しい修行と弟子の育成に努めました。
道元禅師展ポスター
道元禅師像道元禅師

*和文で書かれた道元の著書「正法眼蔵」は、その存在論、時間論、言語論が現在においても注目されており、宗教的・哲学的論述の最高峰の一つとされています。
道元は、「正法眼蔵」の冒頭「現成公按」巻において、「仏道をならふといふは、自己をならふ也、自己をならふというは自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」。すなわち、「仏の道を学ぶということは、自己を知ることであり、自己を知るということは、自己へのとらわれを取り除くことであり、自己にとらわれなければ現実のすべてが明らかになり、現実のすべてが明らかになれば身心脱落(悟り)に達し、自身と他者との区別もおのずからなくなる」。「世俗の一切を捨てて、生活のすべてを修行とすることこそ悟りである」。
「坐禅は悟りを得るための手段にとどまらない。坐禅して無心の境地にあるとき、人はすでに覚者、すなわち仏陀なのであって、座禅は仏としての行為(仏行)となる」。
道元は、自己放下(じこほうげ)を強調して、煩悩や迷いのもととなる自己意識を打ち捨てて本来の自己や真実の自己の在り方に目覚めるべきであることを説いています。

一仏2祖像釈迦と二祖師 (中央:釈迦像、向かって左:瑩山禅師、右:道元禅師)

曹洞宗では、中央に釈迦牟尼仏、左に瑩山禅師、右に道元禅師が描かれているように、お釈迦様を本尊として、道元禅師と瑩山禅師が高祖大師、太祖大師とよばれ尊崇されています。
現在の日本において、鎌倉時代からの伝統宗派のうち最多の寺院数を持つ宗派は曹洞宗です。曹洞宗の隆盛は、第4世の瑩山紹瑾(けいざん じょうきん)禅師(1268~1325)とその弟子たちの働きによるとされています。
道元は、座禅を重視し、加持・祈祷・祭礼を行わない考えでしたが、道元の入滅後、開祖道元の遺風を尊守する保守派と、加持・祈祷、祭礼などを行い民衆教化を重視した改革派の対立(三代相論)が50年間続きました。瑩山は永平寺を下山し、諸国を行脚して布教し、1313年(45歳時)に能登に永光寺を開山し、伝道の拠点として多くの弟子を育て、58歳で能登に總持寺を開き、後醍醐天皇から「日本曹洞宗紫出世之道場」の綸旨を賜り、63歳で入滅しています。瑩山は密教系の加持・祈祷、祭礼を取り入れ、女性を住職に登用し、女人成道を推し進めました。
今日、曹洞宗全寺院の8割は、瑩山禅師が開いた總持寺系であるといわれています。曹洞宗の大本山は、永平寺と總持寺であることが徳川幕府の法度にも定められています。
2020年現在、日本全国にある曹洞宗系の寺院数は1万5千と多く、檀信徒数は800万人ということです。
總持寺は1911年に横浜市鶴見区に移転して、現在に至っています。石川県輪島市門前町の旧地は、總持寺祖院となっています。
横浜市の總持寺の一角に鶴見大学があります。鶴見大学は總持寺が母体となる学校法人で歯学部と文学部の2学部から成り立っているという特徴をもつ大学です。
仏教、特に禅の教えにもとづいて、円満な人格の形成と人類社会に対する感謝・報恩の実践を建学の精神としています。建学の精神を表した「大覚円成 報恩行持(だいがくえんじょう ほうおんぎょうじ)」の二句八字の意味は、「感謝を忘れず 真人となる」あるいは「感謝のこころを育んで いのち輝く人となる」と説明されています。
鶴見大学は、鶴見女子短期大学(1953)、鶴見女子大学(文学部1963、歯学部1970)、鶴見大学(1973)と名称変更しながら発展してきており、1995年には鶴見大学仏教文化研究所が設立されています。曹洞宗大本山總持寺における参禅会、必修科目の宗教学を通じた人格修養の実践教育にも力が入れられています。
歯学部が設立された経緯については、幕末にイーストレーキというアメリカ人歯科医師が日本人の門徒に当時の歯科医術を伝授した、いわば近代歯科医学の発祥の地が横浜であったことに基づくとされています。

仏典の漢訳

釈迦の教えは、アーリア語、パーリ語、ガンダーラ語、サンスクリット語で書かれていましたが、亀茲国(新疆ウイグル地区)出身の西域僧であった鳩摩羅什(344~413)は後秦時代に長安に招かれ、サンスクリット語で書かれた仏典300巻の漢訳を行いました。漢訳された主な経典には、「坐禅三昧経」(3巻)、「仏説阿弥陀経」(1巻)、「摩訶般若波羅蜜経」(27巻)、「妙法蓮華経」(8巻)、「維摩経」(3巻)、「大智度経」(10巻)、「中論」(4巻)などがあります。
唐の玄奘三蔵(602~664)は、仏典の研究は原点によるべきだと考え仏跡の巡礼を行い、インドのナーランダ大学では戒賢に師事して唯識を学び、16年後に657部の経典を長安に持ち帰りました(645年)。
画像 玄奘三蔵 (東京国立博物館蔵 鎌倉時代 重文)

唐の太宗の保護で膨大な仏典の漢訳を行い、これまでの訳の誤りを直しました、玄奘三蔵による訳経を「新訳」、鳩摩羅什から新訳までが「旧訳」といわれ、鳩摩羅什と玄奘三蔵は、2大訳聖と呼ばれています。
太宗の命により、西域の事情をまとめた報告書が「大唐西域記」であり、元代につくられた小説「西遊記」のモデルになっています。

初期仏教と釈迦の教え
日本の仏教は、これまで触れてきたように、奈良・平安・鎌倉時代から中国語(漢字)で書かれた仏典や教義を学ぶことによって、その内容を受け入れてきました。
仏典や教義の原点は釈迦の教えであり、鳩摩羅什や玄奘三蔵によって中国語に翻訳された漢字文化によって釈迦の教えを学んできたという事ができます。中国語に翻訳する場合には、その内容を忠実に翻訳するばかりでなく、文章上の美しさや言葉の韻をふむ技巧なども加わります。日本語には、「ひらかな」や「カタカナ」のように音だけをしめす表音文字がありますが、中国語には表音文字がなく、漢字そのものが意味を持つ表意文字となっています。音に漢字を当てはめてしまうので、どの漢字をその音に当てはめるのか、決めてかからなければなりません。日本語でも、アメリカ(亜米利加)、フランス(仏欄西)、ドイツ(独逸)という具合です。この場合、当てはめられた漢字(当て字)には、それぞれ何か意味を持っていますから、その漢字の意味をあれこれ考えても仕方がありません。しかし、仏典の場合、サンスクリット語(梵字)には表音文字があるので、これを漢訳する場合には漢字を当てはめなければなりません。したがって、単に音が似ているという理由から漢字が当てはめられる場合もあり、その漢字が、それぞれに意味を持ってくるので、実際には何を意味しているのか漢字からだけでは、全く想像ができない場合が少なくありません。したがって、私たちがお経に触れる時には、全く意味が分からず、経文を唱えるという事があるわけです。

中村元(なかむら はじめ)(1912~1999:東京大学名誉教授、インド哲学者、仏教学者、文化勲章)は、漢訳された仏典ではなく、サンスクリット語、パーリ語で書かれた初期仏典の解説や翻訳に取り組み、20年かけて一人で「佛教語大辞典」(全3巻、東京書籍1975)を完成させています。1943年に東京大学に提出された文学博士論文「初期ヴェーダーンタ哲学史」は、1957年に岩波書店から発刊され、日本学士院恩賜賞を受賞しています。
中村は、多くの仏典(般若心経・金剛般若経、浄土三部経、般若経典、維摩経、法華経、華厳経、浄土経典、密教経典、など)を翻訳し、多くの仏典の解説を行いました。全40巻の中村元選集(春秋社)が発行され、NHK「こころの時代」など放送番組にも度々出演しました。
訳書には極力やさしい言葉を用い、例えば、サンスクリット語のニルヴァーナ、パーリ語のニッバーナを「涅槃」と訳さずに「安らぎ」と訳した。訳注で、「ここでいうニルヴァーナは、後代の教義学舎たちの言うようなうるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によって得られるたのしい境地というほどの意味であろう」としています。 

中村たちの研究が進む中で、欧米の学者たちの仏教研究も盛んにおこなわれ、ヘールマン ベック(Hermann Beckh)による「仏教(BUDDHISMUS)(渡辺照宏訳 岩波文庫)(第1刷1962、第36刷2014)」が出版されています。ベックの著作は、ヨーロッパにおける仏教研究の最も代表的な名著とされ、仏教の基本的立場を比較宗教史の観点から解説した入門書として知られています。ヨーロッパでは、原典を通じての直接のインド仏教研究が伝統になっています。ベック(1875~1937)は、その代表的な学者の一人です。

ここでは、馬場紀寿(東京大学東洋文化研究所准教授)書、「初期仏教 ブッダの思想をたどる」(岩波新書 第1刷 2018年8月)の記述を参考にしながら、初期仏教のアウトラインをとらえてみることにします。
インドでは、紀元前15世紀頃、遊牧民であったアーリア人がヒンドウークシュ山脈を北から南に超えてインダス河上流に到達し、その後、長い時間をかけてガンジス川流域に定住し、紀元前5世紀以前には都市化された社会がありました。アーリア人には、「ヴェーダ」という聖典の伝承があり、当時はまだ文字がなかったため、ヴェーダはサンスクリット語で伝承されていました。
もともと「アーリア」という言葉は、「部族民の習慣法を身に着けた」「行儀作法をわきまえた」という意味があるそうです(後藤敏文による)。
ヴェーダは、神祭りに関する聖典で、三ヴェーダまたは四ヴェーダ(「リグ・ベーダ」「サーマ・ヴェーダ」「ヤジュル・ヴェーダ」「アタルヴァ・ヴェーダ」)から成り立っていました。
ヴェーダに基づくアーリア人の信仰は一般に「バラモン教」とよばれますが、この語は、祭官を意味するサンスクリット語「ブラーフマナ」から作られた英語訳(Brahmanism)で、「バラモン」という日本語のカタカナ表記は、ブラーフマナの漢訳語である「婆羅門」に由来します。聖典名の「ヴェーダ」という語は「知識」を意味します。
アーリア人の世界観を示すこのテキストには、時間意識と空間意識が表れています。彼らの究極的な願望は、「死後、天界に再生すること」です。天界においてもまた死があることを免れるため、「自己(我)が個人の属性を捨て、宇宙原理(ブラフマン)に合一することによって、天界における不死が実現する」という、有名なウパニシャッド哲学における「梵我一如(ぼんがいちにょ)」の哲学が生まれました。
ヴェーダの成立後、ヴェーダの補助学の一つとして行為規範を定める文献群(ダルマ・スートラ)が作られ、それらの内容をまとめた法典のうち、紀元前後に編纂された「マヌ法典」が最も高い地位を持っています。
法典の「法」を意味する語「ダルマ」とは、宇宙の秩序や人間の行為規範を意味します。
「マヌ法典」では、最高神ブラフマンの頭から、祭式を行う祭官(ブラーフマナ、婆羅門)が生じ、腕から武人(クシャトリア)が生じ、腿から生産活動に従事する庶民(ヴァイシャ)が生じ、足から隷民(シュードラ)が生じたと説きます。

ガンジス川流域は、経済的発展をみせ、都市の成立を背景として、虚無主義、唯物論、運命論、懐疑論、などを説く思想家たちが現れました。このうち、唯物論では、人間は地・水・火・風の四大元素の集合にすぎず、死ぬと四大元素は四散するのみで、死後の生は存在しない、としました。
これらの思想と並んで、輪廻からの「解脱」を説く出家修行者たちがおり、その一人がジャイナ教の祖マハーヴィーラです。ジャイナ教の思想では、輪廻があるとされ、人は死後も別の身体に生まれ変わり、再生後にまた死んでも、さらに転生する。霊魂に当たる輪廻の主体が存在するとされ、それは生命を意味する「ジーヴァ」と呼ばれる。すでにジーヴァに付着している業物質を苦行で止滅することによって、真の主体たるジーヴァを輪廻から解放することが解脱である。殺生することや所有することは業物質の流入を招くため、出家者は殺生を完全にやめ、一切の所有を捨てなければならない。衣服すら持たず、裸で暮らす。
出家者の裸行には、遠征してきたアレクサンドロス大王も畏敬の念を起こしたといいます。
ジャイナ教は商人階級に支持者を得て、所有を認められている在家信者は、出家者を支援し、死んで転生した後のいずれかの生存で解脱できるように功徳を積みます。
今日のインドでもジャイナ教は大きな影響力を維持しています。信者数はインド全人口の1%に過ぎませんが、インド政府の所得税収の約4分の1がジャイナ教徒によって支払われているといわれます。

ゴータマ・ブッダの仏教
新しい諸思想が乱立していた紀元前5世紀ごろ、ゴータマ・ブッダは、托鉢によって命をつなぎながら、ガンジス川流域の都市や村々を巡って伝道し、各地で支持者を得て、新たに出家集団をつくりました。仏教の誕生です。
ゴータマ・ブッダとは、「ゴータマという家系名の目覚めた者」という意味のパーリ語による呼称です。サンスクリット語ではガウタマ・ブッダとなります。日本では、伝統的に釈迦族の尊者を意味する「釈迦牟尼」「釈尊」と呼ばれます。
ブッダとは、「目覚めた者」「悟った者」「覚者」を意味する言葉です。漢訳では「仏陀」と音写し、略して「仏」とも呼びます。「如来」は「真実に達したもの」、世尊は「幸いある者」という意味を持ちます。
ブッダは、29歳で善を求めて出家し(大般涅槃経)、アーラーラ・カーラーマ、さらにウッダカ・ラーマブッダという指導者の下で禅定(瞑想)を学びましたが、その教えに飽き足らずに去りました。ついで、5人の出家者とともに苦行をしますが、6年を経て苦行は悟りに資さないと知り、苦行をやめ、マガタ国のウルヴェーラーのセーナー村にあった菩提樹の下で坐禅し、悟りに達し、「ブッダ」(目覚めた者)となりました(成仏)。35歳の時です。
その頃、ガンジス川流域の都市に生まれた新興階級がブッダの主要な支援者となりました。ブッダのもとで出家した弟子には、王族やバラモン祭官、資産家出身者や思想家たち教団の出家者が多く、45年の伝道活動の後80歳で没しました。
仏教に特有の在家信者の条件は、「三宝」への帰依で、三宝とは、①ブッダ(仏)、②教え(法)、③出家教団(僧)です。


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