1991年世界陸上 バイオメカニクス研究班
登場する人〈佐々木秀幸〉〈松岡〉〈安田誠克〉〈松尾彰文〉〈阿江通良〉〈関岡康雄〉
1991年世界陸上東京大会で、バイオメカニクス研究チームを作り、実際の試合場面での世界一流選手の技術分析を行う計画は、日本陸連の事務局では受け入れることが困難な途方もないものと考えられた。
「国際陸連の主催する大会なのだから日本側ではどうすることのできない制約がいろいろとあるんでね。」という松岡事務局長の話であった。私は陸連の幹部と話をするよりも大会組織委員会で庶務関係担当の佐々木秀幸先生に直接お願いするほうが早道であると考えた。佐々木先生はさすがに早稲田大学教授でスポーツ科学を重んじる研究者であるから話の理解が早い。なんとかこのプロジェクトを実現させたいという強い姿勢があってあれこれと策を練ってくれた。また、「予算の方面でもよろしく」とお願いした。佐々木秀幸先生は「バイオメカニクス研究をやることが東京で世界陸上選手権大会を開催することの本当の価値である」とまで言い切ってくれて、組織委員会委員長である安田誠克氏にもいろいろと話をしてくれた。後日談であるが、「佐々木先生はバイオ、バイオとうるさいんだ。バイオの研究班の話になると目の色が変わってね、どうしようもないんだよ。」ということであった。佐々木先生はよほど頑張ってくれたのだ。
「真剣に物事に取り組んでいると、いつか突然天の助が飛び込んでくる」。バイオメカニクス研究班の人数の問題で暗礁に乗り上げかかった時に、まさに天の助けが舞い込んできた。国際陸連から今回の世界陸上選手権大会ではビデオ審判を行うように、という指令が突然舞い込んできた。競技審判を行う上で審判員の目だけではトラブルが生じることがあるので、ビデオ撮影を併用するということが決められたらしい。日本陸連ではこれまでビデオ審判というものをやったことがない。「困った、困った」と松岡事務局長は本当に困った様子で、「日大の芸術学部の学生だったらカメラに触れることに慣れているだろうから、日大の芸術学部にお願いするか」と言われた。私は、「日大の芸術学部もいいかもしれませんが、カメラを扱えることと陸上での審判に使える映像を撮ることとはまるで分野が異なります。このビデオ審判はバイオメカニクス研究チームでできますから、ぜひこのビデオ審判をやらせてください」とお願いした。事務局長は、「小林先生、本当にできるのかね」と念を押してきた。私は「はい,出来ます。お願いします」といって松岡事務局長の心配を払拭するようにいろいろと説明した。急遽、ビデオ審判班が組織されることになった。
このビデオ審判班の班長を東京大学教養学部の助手である松尾彰文氏(後に国立スポーツ科学センター研究員、鹿屋体育大学教授)にお願いした。松尾さんは高校時代インターハイの800mで上位入賞しており、無類の陸上好きであった。松尾さんは駒場の体育科でコンピュータ世話係のような役割を担っており、コンピュータには強い様子であった。
私は松尾さんにビデオ審判として走路を全部カバーできるようなカメラ位置とカメラをどのように使ったらよいか計画してほしいとお願いした。しばらくして松尾さんは、コンピュータを駆使した実に見事な計画図を作成した。その図を見た瞬間、「この人選には間違いなかった」という自信を持った。その計画図を持って、ビデオ審判の役割を審判委員会委員長である藤田幸雄氏に説明すると、審判委員長は安心した様子で「これで国際陸連の要望に応えられる」と言われた。
バイオメカニクス研究班のうち、ビデオ審判員としてIDを発行してもらえる人数は40名とした。朝から晩まで競技は続くので1チーム20名とし、2交代制として40名が認められた。残りの40名がバイオメカニクス研究のための研究員となる。これにも2交代制を主張した。このうち外国からの研究員を3名引き受けることにし、役員になっている人を除けば正味34名分のIDが取れればよい。2交代制とすれば1回17名が研究部署につくということである。これなら納得してもらえる人数である。佐々木秀幸先生の巧みな交渉術も功を奏してとうとう予定した全員についてIDが発行されることが認められた。
日本陸連バイオメカニクス研究特別版は総勢79名、研究実行班長として筑波大学の若い研究者であった阿江通良氏(後に筑波大学副学長、日本体育大学教授)を指名した。筑波大学の年配の関岡康雄教授から、この人選に異論が出たが「阿江先生は若いし、まじめすぎて幅も狭いかもしれないけれど、必ず日本のバイオメカニクス分野のリーダーになる人であるから。ぜひこの機会を与えて大きく育てましょう」と反対する先生に納得してもらった。
登場する人〈佐々木秀幸〉〈松岡〉〈安田誠克〉〈松尾彰文〉〈阿江通良〉〈関岡康雄〉
油彩画 14㎝×18cm 能仲ヤツヲ
1991年世界陸上東京大会で、バイオメカニクス研究チームを作り、実際の試合場面での世界一流選手の技術分析を行う計画は、日本陸連の事務局では受け入れることが困難な途方もないものと考えられた。
「国際陸連の主催する大会なのだから日本側ではどうすることのできない制約がいろいろとあるんでね。」という松岡事務局長の話であった。私は陸連の幹部と話をするよりも大会組織委員会で庶務関係担当の佐々木秀幸先生に直接お願いするほうが早道であると考えた。佐々木先生はさすがに早稲田大学教授でスポーツ科学を重んじる研究者であるから話の理解が早い。なんとかこのプロジェクトを実現させたいという強い姿勢があってあれこれと策を練ってくれた。また、「予算の方面でもよろしく」とお願いした。佐々木秀幸先生は「バイオメカニクス研究をやることが東京で世界陸上選手権大会を開催することの本当の価値である」とまで言い切ってくれて、組織委員会委員長である安田誠克氏にもいろいろと話をしてくれた。後日談であるが、「佐々木先生はバイオ、バイオとうるさいんだ。バイオの研究班の話になると目の色が変わってね、どうしようもないんだよ。」ということであった。佐々木先生はよほど頑張ってくれたのだ。
「真剣に物事に取り組んでいると、いつか突然天の助が飛び込んでくる」。バイオメカニクス研究班の人数の問題で暗礁に乗り上げかかった時に、まさに天の助けが舞い込んできた。国際陸連から今回の世界陸上選手権大会ではビデオ審判を行うように、という指令が突然舞い込んできた。競技審判を行う上で審判員の目だけではトラブルが生じることがあるので、ビデオ撮影を併用するということが決められたらしい。日本陸連ではこれまでビデオ審判というものをやったことがない。「困った、困った」と松岡事務局長は本当に困った様子で、「日大の芸術学部の学生だったらカメラに触れることに慣れているだろうから、日大の芸術学部にお願いするか」と言われた。私は、「日大の芸術学部もいいかもしれませんが、カメラを扱えることと陸上での審判に使える映像を撮ることとはまるで分野が異なります。このビデオ審判はバイオメカニクス研究チームでできますから、ぜひこのビデオ審判をやらせてください」とお願いした。事務局長は、「小林先生、本当にできるのかね」と念を押してきた。私は「はい,出来ます。お願いします」といって松岡事務局長の心配を払拭するようにいろいろと説明した。急遽、ビデオ審判班が組織されることになった。
このビデオ審判班の班長を東京大学教養学部の助手である松尾彰文氏(後に国立スポーツ科学センター研究員、鹿屋体育大学教授)にお願いした。松尾さんは高校時代インターハイの800mで上位入賞しており、無類の陸上好きであった。松尾さんは駒場の体育科でコンピュータ世話係のような役割を担っており、コンピュータには強い様子であった。
私は松尾さんにビデオ審判として走路を全部カバーできるようなカメラ位置とカメラをどのように使ったらよいか計画してほしいとお願いした。しばらくして松尾さんは、コンピュータを駆使した実に見事な計画図を作成した。その図を見た瞬間、「この人選には間違いなかった」という自信を持った。その計画図を持って、ビデオ審判の役割を審判委員会委員長である藤田幸雄氏に説明すると、審判委員長は安心した様子で「これで国際陸連の要望に応えられる」と言われた。
バイオメカニクス研究班のうち、ビデオ審判員としてIDを発行してもらえる人数は40名とした。朝から晩まで競技は続くので1チーム20名とし、2交代制として40名が認められた。残りの40名がバイオメカニクス研究のための研究員となる。これにも2交代制を主張した。このうち外国からの研究員を3名引き受けることにし、役員になっている人を除けば正味34名分のIDが取れればよい。2交代制とすれば1回17名が研究部署につくということである。これなら納得してもらえる人数である。佐々木秀幸先生の巧みな交渉術も功を奏してとうとう予定した全員についてIDが発行されることが認められた。
日本陸連バイオメカニクス研究特別版は総勢79名、研究実行班長として筑波大学の若い研究者であった阿江通良氏(後に筑波大学副学長、日本体育大学教授)を指名した。筑波大学の年配の関岡康雄教授から、この人選に異論が出たが「阿江先生は若いし、まじめすぎて幅も狭いかもしれないけれど、必ず日本のバイオメカニクス分野のリーダーになる人であるから。ぜひこの機会を与えて大きく育てましょう」と反対する先生に納得してもらった。