第15回 私の世田谷 2011年8月号
自伝的「健康とスポーツの科学」
名古屋大学総合保健体育科学センターの発足
名古屋大学は、昭和37年に現在の東山キャンパスに移転し、新天地で新しい取り組みが盛んに進められていた。特に理科系の研究は盛んで、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹氏、朝永振一郎氏とならぶ3博士の一人である素粒子論の坂田昌一博士が、名古屋大学の理学部教授として多くの学生を教育していた。2008年にノーベル物理学賞を受賞した小林誠、益川敏英の両氏は、この頃の坂田研究室の学生であった。坂田教授は1970年に59歳で名古屋大学在職中に他界され、東山キャンパスで大学葬が行われた。教養部には、豊田利幸教授がおり、湯川秀樹氏たちとともに7人委員会を組織し、核兵器の廃絶など世界平和へのアピールをおこなうなど、理学系の先生方の活動が目立った。
大学紛争後、名古屋大学では、学長が芦田淳、石塚直隆、飯島宗一、早川幸男と続いたが、大学教養部の組織をどのように改変するかが、どこの大学でも大きな問題であった。「大学教養部の解体」は、文部科学省の大学改革の最も大きなテーマでもあった。
当時の国立大学の教養部は、人文科学系、社会科学系、自然科学系、外国語科、保健体育科の5科体制が基本となっており、特に多くの問題があるとされたのは、外国語科と保健体育科であった。人文、社会、自然は、旧制大学に存在したが、外国語と保健体育は旧制高等学校の教官組織が新制大学の教養部として包括されたことに対するある種の差別感覚が文部科学省をはじめ、多くの大学人の中にあった。専門学部は講座制、教養部は学科目制で、教養部の研究予算は専門学部と比較して非常に低い水準(3分の一)に抑えられていた。名古屋大学では、外国語科(教室)の改革の手始めとして、「語学センター」を独立組織として発足させた。また、保健体育科は、昭和50年に、学内の保健管理センターと一緒になって、総合保健体育科学センターという新組織を立ち上げた。体育の教員と保健管理の医師資格を持つ教員が、同じ組織の中で働くという斬新なアイデアは、松井秀治教授が考えたもので、全国の教養部を改革するという文部省の方針をある意味で先取りするものであった。
こうした先取り的な試みには、比較的予算を付けてくれる余裕が文部省側にもあった。この新組織設立が実現したのは、当時名古屋大学の芦田淳学長が体育に好意的な考え方を持っていたことと、松井教授が大学紛争後の学生部長として大学全体の運営に関わりをもったことに深く関係している。
大学学長の考え方は、文部省から獲得する概算要求の順位付けなどで大きく反映された。名古屋大学教養部の一学科であった保健体育科は、保健管理センターと組むことにより、名古屋大学全学共用施設という位置づけになり、これまでの研究予算が3~6倍になり、大学院博士課程並みの年間予算がつくことになった。保健管理センターの教員ポストは、それまで専任講師ポスト1、助手ポスト1であったものが、教授ポスト2、助教授ポスト1が純増、さらに従来の講師ポスト1が教授ポストに格上げされるというもので、特に保健関係の充実が大きかった。初代のセンター長は、当時医学部長であった石塚直隆教授が就任したが、学長に選任されたので、発足2年目からは松井秀治教授がセンター長に就任した。
この総合保健体育科学センターの立ち上げに、私は松井先生のもとで新設建物の内部設計や研究設備や研究機器の選定に深くかかわった。その中で、目玉となったのが「人工気候室」である。温度と湿度を正確にコントロールできる気密室で、室内には大型のトレッドミルを設置した。当時のお金で3500万円を要求したところ、実現可能になった。
名古屋大学で、研究が飛躍的に進歩したのは、潤沢な研究費があったことに他ならない。また、科学研究費も毎年あたり、新組織に対して、特別な研究費が毎年1000万円ずつついた。
全国の大学では、保健体育の教員の研究状況は極めて貧弱であり、体育科目の存在も教養学部学生に対する必修科目となってなっていたが、「大学には体育はいらない」という声も聞こえており、教養部の改革と体育科目の存続は極めて深刻な状況を迎えていた。
名古屋大学では、そうした状況とはかかわりなく、新組織で思う存分研究に打ち込むことができた。私自身の研究の基礎は、この組織の中で培われたものであるといった良い。
この組織は、教育・研究について、健康管理を基礎としながら、健康、運動、体力の充実向上をはかることが目的とされ、特に「療育科学」という、体の弱い学生や、「半健康人」の健康を改善し、「生活の質」を高めるといったことにその存在価値をアピールしようとする意図があった。こうした、これまであまり重視されてこなかった「運動療法」にも目が向けられるようになり、糖尿病の運動療法では「インスリンクランプ法」を用いて、糖代謝を調節するインスリンの感受性が、運動の実施によってどのように変化するかを研究し、糖尿病2型の患者では、運動の効果が顕著であるという研究成果を明らかにした佐藤祐造教授(名古屋大学定年後は、:愛知大学心身科学部長)が多くの業績を蓄積した。佐藤教授の指導で博士の学位を取得した人が50名を超えるというのも驚異的である。肥満は、インスリン抵抗性が高まり、筋肉レベルで糖の取り込み能力が落ち、このため膵臓からのインスリンの分泌が増加し、余分なインスリンが腎臓からのナトリウム排泄を抑え、血液中のナトリウムが増え、血圧を上昇させる。インスリンの余分な分泌は、肝臓の脂肪合成が増し、高脂
当時の名古屋大学総合保健体育科学センターでは、発足当時、佐藤祐造、猪俣公宏(スポーツ心理学)、小林寛道(運動生理学)の学位を持った若手助教授が3人おり、この3人が名古屋大学の屋台骨を支えるといわれ、期待されていた。当時は、学位を持った人は、極めて少数であった。
自伝的「健康とスポーツの科学」
名古屋大学総合保健体育科学センターの発足
名古屋大学は、昭和37年に現在の東山キャンパスに移転し、新天地で新しい取り組みが盛んに進められていた。特に理科系の研究は盛んで、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹氏、朝永振一郎氏とならぶ3博士の一人である素粒子論の坂田昌一博士が、名古屋大学の理学部教授として多くの学生を教育していた。2008年にノーベル物理学賞を受賞した小林誠、益川敏英の両氏は、この頃の坂田研究室の学生であった。坂田教授は1970年に59歳で名古屋大学在職中に他界され、東山キャンパスで大学葬が行われた。教養部には、豊田利幸教授がおり、湯川秀樹氏たちとともに7人委員会を組織し、核兵器の廃絶など世界平和へのアピールをおこなうなど、理学系の先生方の活動が目立った。
大学紛争後、名古屋大学では、学長が芦田淳、石塚直隆、飯島宗一、早川幸男と続いたが、大学教養部の組織をどのように改変するかが、どこの大学でも大きな問題であった。「大学教養部の解体」は、文部科学省の大学改革の最も大きなテーマでもあった。
当時の国立大学の教養部は、人文科学系、社会科学系、自然科学系、外国語科、保健体育科の5科体制が基本となっており、特に多くの問題があるとされたのは、外国語科と保健体育科であった。人文、社会、自然は、旧制大学に存在したが、外国語と保健体育は旧制高等学校の教官組織が新制大学の教養部として包括されたことに対するある種の差別感覚が文部科学省をはじめ、多くの大学人の中にあった。専門学部は講座制、教養部は学科目制で、教養部の研究予算は専門学部と比較して非常に低い水準(3分の一)に抑えられていた。名古屋大学では、外国語科(教室)の改革の手始めとして、「語学センター」を独立組織として発足させた。また、保健体育科は、昭和50年に、学内の保健管理センターと一緒になって、総合保健体育科学センターという新組織を立ち上げた。体育の教員と保健管理の医師資格を持つ教員が、同じ組織の中で働くという斬新なアイデアは、松井秀治教授が考えたもので、全国の教養部を改革するという文部省の方針をある意味で先取りするものであった。
こうした先取り的な試みには、比較的予算を付けてくれる余裕が文部省側にもあった。この新組織設立が実現したのは、当時名古屋大学の芦田淳学長が体育に好意的な考え方を持っていたことと、松井教授が大学紛争後の学生部長として大学全体の運営に関わりをもったことに深く関係している。
大学学長の考え方は、文部省から獲得する概算要求の順位付けなどで大きく反映された。名古屋大学教養部の一学科であった保健体育科は、保健管理センターと組むことにより、名古屋大学全学共用施設という位置づけになり、これまでの研究予算が3~6倍になり、大学院博士課程並みの年間予算がつくことになった。保健管理センターの教員ポストは、それまで専任講師ポスト1、助手ポスト1であったものが、教授ポスト2、助教授ポスト1が純増、さらに従来の講師ポスト1が教授ポストに格上げされるというもので、特に保健関係の充実が大きかった。初代のセンター長は、当時医学部長であった石塚直隆教授が就任したが、学長に選任されたので、発足2年目からは松井秀治教授がセンター長に就任した。
この総合保健体育科学センターの立ち上げに、私は松井先生のもとで新設建物の内部設計や研究設備や研究機器の選定に深くかかわった。その中で、目玉となったのが「人工気候室」である。温度と湿度を正確にコントロールできる気密室で、室内には大型のトレッドミルを設置した。当時のお金で3500万円を要求したところ、実現可能になった。
名古屋大学で、研究が飛躍的に進歩したのは、潤沢な研究費があったことに他ならない。また、科学研究費も毎年あたり、新組織に対して、特別な研究費が毎年1000万円ずつついた。
全国の大学では、保健体育の教員の研究状況は極めて貧弱であり、体育科目の存在も教養学部学生に対する必修科目となってなっていたが、「大学には体育はいらない」という声も聞こえており、教養部の改革と体育科目の存続は極めて深刻な状況を迎えていた。
名古屋大学では、そうした状況とはかかわりなく、新組織で思う存分研究に打ち込むことができた。私自身の研究の基礎は、この組織の中で培われたものであるといった良い。
この組織は、教育・研究について、健康管理を基礎としながら、健康、運動、体力の充実向上をはかることが目的とされ、特に「療育科学」という、体の弱い学生や、「半健康人」の健康を改善し、「生活の質」を高めるといったことにその存在価値をアピールしようとする意図があった。こうした、これまであまり重視されてこなかった「運動療法」にも目が向けられるようになり、糖尿病の運動療法では「インスリンクランプ法」を用いて、糖代謝を調節するインスリンの感受性が、運動の実施によってどのように変化するかを研究し、糖尿病2型の患者では、運動の効果が顕著であるという研究成果を明らかにした佐藤祐造教授(名古屋大学定年後は、:愛知大学心身科学部長)が多くの業績を蓄積した。佐藤教授の指導で博士の学位を取得した人が50名を超えるというのも驚異的である。肥満は、インスリン抵抗性が高まり、筋肉レベルで糖の取り込み能力が落ち、このため膵臓からのインスリンの分泌が増加し、余分なインスリンが腎臓からのナトリウム排泄を抑え、血液中のナトリウムが増え、血圧を上昇させる。インスリンの余分な分泌は、肝臓の脂肪合成が増し、高脂
当時の名古屋大学総合保健体育科学センターでは、発足当時、佐藤祐造、猪俣公宏(スポーツ心理学)、小林寛道(運動生理学)の学位を持った若手助教授が3人おり、この3人が名古屋大学の屋台骨を支えるといわれ、期待されていた。当時は、学位を持った人は、極めて少数であった。