10.メキシコでのフィールドワーク
(2007年 執筆)
1979年の夏、日本学術振興会の海外派遣研究者募集要項が大学の教室会議で回覧された。派遣対象はアメリカ、イギリス、を始め、世界22カ国にわたっている。そのなかの一つである「メキシコ」という国名が自分の目に飛び込んできた。私は早速、カリフォルニア大学サンタバーバラで共同研究したフランシスコ・ディアスに手紙を書いた。「メキシコ人、および日本人児童生徒の体力に関する比較研究」をやりたいので、カリフォルニア大学で面識がった上司のローサス教授に身元引受人になって欲しい旨を伝えた。ローサス教授は、日本の京都に当たる古都グァナファト大学の労働科学研究所の所長をしており、研究所はレオンという中規模の都市にあった。
受け入れの返事はなかなか来なかったが10月になって受け入れても良いという返事が届いた。12月になって、日本学術振興会から書類選考にパスしたので、面接に来るようにという通知が届いた。赤坂見附で下車し、メキシコ大使館の科学担当官リカルド・ベラスケス・ヴェルダ氏に面接を受けた。私は、メキシコでは、グァナファト大学の人と共同で体力に関する実験研究をしてみたいこと、日本からそのために必要な実験器材をはこびたいと考えていること、実験器材は、テレメータ装置、4チャンネル熱ペン式記録器、ダグラスバッグ、ショランダー微量ガス分析器、など相当な高額になるので、実験終了後は、すべて持ち帰るという条件で、メキシコ税関での特別許可をお願いしたいこと、などを申し出た。しばらくして、日本学術振興会からメキシコ派遣の内定通知を受けた。この通知はうれしかった。
日本学術振興会の内定は受けたものの、メキシコ側の受け入れ機関であるメキシコ国家科学技術会議(CONACYT)からの招請がない限りメキシコ行きは実現しない。現地の滞在費はメキシコ側が負担することになっているためである。
翌年5月に届いたローサス教授からの手紙の文面には、次の内容があった。「研究計画について、我々はベックマン社製のガス分析器を得ようと努力している。換気量の測定には、パーキンソン・コーワン社製のガスメータがある。私は、あなたの研究計画の実行のために必要と考えるすべてのものが、ここに整えてあることを信ずる」。
しかし、私は、この手紙の文面を100%信じることには危険があると考えた。それは、往々にしてメキシコの人は、格調高く構える傾向にあることを、これまでのメキシコ人との付き合いから感じ取っていたからである。事実上、何もないという前提で器材を整え、たとえ電気が来ていなくても実験が出来る準備をした。フィールドワークでは、現地でネジ1本なくても致命的になることがある。準備は、あらゆる場合を想定して、それに備えられるようにした。
テレメータ装置(4チャンネル)や心電図記録器など、高価で、しかも大学の研究予算ですぐには購入できない装置を、三栄測器株式会社のご好意により、新品を借用することが出来た。
メキシコからの招請状はなかなか来なかったが、日本学術振興会の吉川藤一総務部長から、「遅れてもメキシコからは返事がきますよ。出発期日が遅れても内定ということに変わりがありません」という話を伺い、あらかじめ、実験に必要と思われるもののうち、船便で送れるものは送ることにした。
船便には2種類あり、1トンが単位となり、少ない荷物も1トン分の送料を払うが、少量の場合は、郵便荷物の扱いが良いということであった。そこで、郵便荷物の扱いで送ることにした。
船便のダンボールには次のものを詰め込んだ。箱番号1:ダグラスバッグ6個、ダグラスバッグ口金6個、三方コック1個、サンプルバッグ10個。箱番号2:テレメータ用使い捨て電極10箱(250人分)、4チャンネル熱ペン式記録紙8巻。 箱番号3:熱ペン式記録紙5冊、筋力測定用部品1個。
箱番号4:熱ペン式記録紙2冊、呼気ガス採集用マスク3個、マスク装着用ひもバンド2個、長さ1mの蛇管4本。箱番号5:自動車のプラモデル30個、組み立て式飛行機79個、ドラエモンのプラスチック人形7個、握力計2個、筋力測定器3個。
箱番号5の中身は、被検者となった子どもへのお土産が主である。自動車のプラモデルは1個100円程度のもので、紙飛行機は、犬山市で行われた航空博覧会の催しがあったときに、景品として使われた余剰分を、大府市の岡島模型店の岡島さんから無料で戴いたものである。
9月にはいってメキシコから受け入れの手紙が到着し、1980年10月31日出発、1981年1月28日帰国の日程を組んだ。7月に発送した荷物はまだ着いていないということだった。通常1ヵ月半あればメキシコについているはずである。「これはおかしい」と思った。そこで、私がメキシコに到着しても荷物が着いていないことを考慮し、機材および消耗品には遺漏がないように、私と一緒の飛行機で運搬することにした。ショランダー微量ガス分析器は、もし故障が生じた場合、ガス分析が不能になるので、必要な部品を2組用意した。また薬品類も、硫酸や硝酸など現地で調達が可能と思われるものを除き、20種類ほど用意して持っていくことにした。それに、細々とした器具や消耗品を準備した。被検者になってくれる人へのお土産も、消しゴムや鉛筆、それに手伝ってくれる人へのお礼の品など、ダンボール1箱が一杯になるほど用意した。最も重量がかさんだのがテレメータ装置と4チャンネル心電図用記録器である。これらは時価400万円の品物であり、借り物でもあった。これらの機材のメキシコへの持ち込みについて、詳細なリストをメキシコ大使館に提出した。ベラスケスさんは、2回にわたって特別許可申請のテレックスを本国政府あて打電してくれた。
10月31日、メキシコへの出発当日には、メキシコ大使館に行き、メキシコ国家科学技術会議(CONACYT)宛に発信された特別許可申請のテレックスのコピーを受領して成田空港に向かった。成田空港から私と一緒の飛行機で運搬する荷物は、スーツケースの他に、大型段ボール箱3箱(総重量100kg)となった。航空機は、バンクーバー経由メキシコシティー行きの日本航空であった。あらかじめ、日本航空本社に出向き、研究の趣旨を説明し、協力をお願いしてあったので空港では、超過料金を取らずに運搬してくれた。現在では、日本からメキシコまでの直行便は飛んでいない。この頃は1週間に3便の直行便があった。
1976~78年にアメリカに留学する前には、メキシコという国に対して、何の知識も関心もなかった。カリフォルニアに住んでみると、黒髪でやや肌色が濃いメキシコ系とわかる人々の姿が非常に多いことに気づく。町を歩くと、メキシコ人たちの行き交う姿や、黙々と働く姿をよく見ることが出来る。随所にスペイン語風の通りの名前や店の看板なども目に付く。それもそのはず、カリフォルニアは、かつてはメキシコの国土に属していた。アメリカの天然資源の宝庫といわれるテキサス、アリゾナ、ニューメキシコの各州もかつてはメキシコの国土であった。アメリカはこれらの国土をメキシコから割譲した歴史をもっている。メキシコに対する関心の高まりは、留学先で、フランシスコ・ディアスと出会ったことが、大きなきっかけである。私が環境ストレス研究所に留学していた時期の外国人は、メキシコ人の医学博士である31歳のフランシスコと私の2人だけであった。フランシスコは、家族5人連れで、いきなりアメリカ社会に踏み込んでいささか戸惑い気味の私に対して、とても親切な男だった。彼は、当初英語が不自由な私の代弁者になってくれた。アメリカの人々が理解困難な、私のつたない英語を、不思議なほどよく理解してくれた。フランシスコは、「英語が良くわからないもの同士は、サイコロジカル(心理的)なものでわかるんだよ」といってくれた。フランシスコの猛勉強振りには目を見張るものがあった。アメリカ人のポストドクター研究員達も、フランシスコの学問的知識の深さや、文献的研究能力の高さには、一目も2目もおいているようであった。
こんなフランシスコにも、時々ひどくしょげ返った表情をしている時があった。そんな時、彼はいろいろなことを語ってくれた。
「アメリカ人はメキシコ人を馬鹿にしている。僕がこの研究所に来た時は、英語が全く下手であった理由もあるが、挨拶をしても応えてくれず、無視する態度を示した。だれも口を利いてくれなかった。君は積極的に、研究所の人たちに溶け込もうとして努力して、それが成功している。しかし、僕の場合は、溶け込もうとしても、お前はメキシコ人じゃないか、という眼で見られ、露骨にいやな態度をされて辛かった。君が来る前の僕は、研究所で唯一安らぎを感じるときといったら、ジロー(豊岡示朗氏のこと)と一緒に海岸や道路をジョギングする時だけだった。君は、はじめから皆と仲良くやっている。君は非常に幸福な男だ」。
フランシスコは、いかにアメリカという国がメキシコに対して横暴に振舞っているか、メキシコ人に対してどんな目で見ているのか、そして、如何にメキシコ人を利用しているのか、ということを話してくれた。フランシスコは、私が質問しなければ、進んでこういった話はしなかったが、フランシスコという人柄にも触れて、メキシコ人の苦しみ、貧しさ、そして我々日本人とはかなり違っている時間感覚や金銭感覚、処世観などに興味をそそられると共に、メキシコの古代文化の素晴らしさを知るようになり、いつかメキシコを訪れてみたいと思うようになっていた。フランシスコとは、協同実験を組みながら研究を進めるうち、肝胆相照らすなかとなり、お互いに敬愛の気持ちを持った良き理解者となった。1978年7月、フランシスコと私は留学期間を終えてそれぞれの国に帰ることになった。帰国に際しては、きっといつか再会し、また協同研究をやろうということを硬く約束した。フランシスコとの協同研究のチャンスは、日本学術振興会のお陰で思いのほか早い段階で実現することになった。
メキシコに到着
メキシコ空港につくと、フランシスコが税関の待合室に入ってきて、「カンドー」と呼んだ。「オー! フランシスコ」、我々は2年ぶりの再会を喜んだ。フランシスコは少しやつれているようだった。大きな体のローサス教授も税関の待合室の片隅で待機していてくれ、通関手続きも約1時間で無事終了した。通関手続き後、税関長が我々をわざわざ案内して、税関の外に誘導してくれた。当時、メキシコは、電気製品および機械類の国内持ち込みには、特に厳しい体制をしいていた。今回運搬したような外国製品の機械類のメキシコへの持ち込みは、通常では、ほとんど不可能に近いということであった。
グァナファト大学側もメキシコ政府の特別許可書を準備してくれていた。しかし、今から思うとローサス教授は、税関長にもかなりな心づけを渡していたに違いなかった。
11月3日、ローサス教授は仕事場である労働科学研究所へ私を連れて出勤した。研究所はレオン市庁を囲むセントロ広場のすぐ近くの6階建てのビルの5階にあった。入り口の壁には「INSTITUTE DE INVESTIGACION SORBRE TRABAJO U.DE GTO」という看板が掲げられていた。研究所は、所長室、図書室兼会議室、診察室、中実験室(2部屋)、小実験室(3部屋)、血液分析室、研究個室(5部屋)という比較的小規模なものであった。各部屋の扉の上には、「コンピュータ室」「エレクトロニクス室」「生化学分析室」「心理学」「社会学」「診察室」といった室名が掲げられていた 。
この研究所は、近年ローサス教授がグァナファト大学医学部から独立して設立させたばかりであるという。従って実験設備はまだ整っておらず、旧式のアメリカ製トレッドミル1台、多用途監視記録装置1台(アメリカ製)、支柱部分の破損した大型換気量測定器(パーキンソン・コーワン社製)、小型オシロスコープ1台、といったところだった。しかし、働く人の健康管理に関することを行うことがこの研究所のこれまでの主な仕事なので、診察台や、身長計、体重計、血圧計、簡単な血液検査の装置を備えていた。ローサス教授は、ひとつひとつの部屋の室名を読み上げて、ドアをいきおい良く内側に押し開く動作を繰り返し、机も椅子もないがらんどうのコンピュータ室や、エレクトロニクス室、その他の実験室を案内し、「どうだ、この研究所は世界一良いだろう」とユーモアとも言えないせりふを大声でいった。ローサス教授の夢は、室名のみに描かれていた。メキシコからの受諾が遅かったのは、この研究所が日本との国際的共同研究を行うことをCONACYTがなかなか許可しなかったためであることをのちに知った。
必要な実験機材は日本から運搬したものを使えばよいので、心配はなかった。あとは研究計画の練り直しとそれをどう実行するかである。「メキシカン・ジョーク」とも言うものなのだろうか、何が真実で何がジョークなのか全く予測がつかない。そしてそれぞれに、どう応え、どう行動してゆくべきなのかといった、頭がくらくらするような異以次の社会で対処することが、この研究を進める上でのキーポイントのような気がした。
グァナファト大学側との研究の打ち合わせは、事前に行われることなく、すべて現地で検討することにしていた。ローサス教授には、私の考える研究計画案を送付してあったので、教授は研究が実現できるように各方面に手配を行っていてくれた。レオン市長、教育長、教育委員会の協力を得るための準備もなされていた。私の研究計画とは、「6歳から18歳までの男女児童生徒の最大酸素摂取量をはかること。社会経済的な影響が最大酸素摂取量にどのように影響するか。都市と農村など、住居・生活環境を調査し、それらと体格・体力の関係をとらえること。」といった内容であった。
ローサス教授は、「フランシスコは君が来ることがわかっていながら何準備もしていないのだ」ということを繰り返した。ローサス教授とフランシスコとの間には何か深い溝が横たわっているような気がした。ここで再会したフランシスコの日常にはカリフォルニア大学当時の張り切った姿はなく、いかにも苦悩に満ちた日々を感じさせた。サンタバーバラのホーバス教授から「フランシスコは君の助けが必要のようである」という文面の手紙も戴いていた。カリフォルニア大学から帰国する時、フランシスコはグァナファト大学の医学部教授として帰るのだと胸を張っていた。しかし、現在のフランシスコの苦悩は、大学の地位が非常勤のような立場になっており、研究所での給料も他のスタッフと分け合ってもらうという不安定なものであることに起因していた。研究所では、人件費の支払いに苦慮している面が見られていた。しばらくすると、私が予想していた通り、ローサス教授からもっとも困難な問題として提示されたのが研究費のことだった。このような実験研究は、創設して間もない労働科学研究所ではこれまで行われたことはなく、定まった研究費はなく、スタッフとなる人の給料も身分雇用も極めて不安定であるということであった。
研究費の問題を除けは、調査、実験の計画はメキシコ出発前の私の予想を上回る大規模なものに膨らませることの可能性が見えてきた。そこで、研究規模を約3倍に大きくして、現地の雰囲気にあわせた計画に変更した。フランシスコはこの計画に非常な意欲を見せ、研究生であるロサリオ・コネホ嬢を助手として、3人が一体となって、実際的な研究の遂行にあたることになった。
レオン市に到着して、実験の最初の被検者を得るまでにはおおよそ次のような過程をたどった。
11月3日:実験器具の整備と設置。4日:必要な薬品の購入。5日:レオン市長に挨拶。夜、教育委員会で説明(レオン市の教育委員30名と教育長が出席)。6日:研究所にあった換気量計の修理とキャリブレーション。夜、今回の研究にかかる費用についての打ち合わせ会(ローサス教授から研究費や人件費が全くなく、大学本部から捻出してもらうように申請中であるが、どうなるかは分からないと説明あり)。7日:研究計画書の作成。8日:研究スタッフにデモンストレーションの実験。10日:日程の打ち合わせ。夜、教育委員会で第2回目の会議。(研究に協力するとの回答を得た)。12日:研究スタッフとの打ち合わせ会。(研究費が出ないので、スタッフは有給にならないとの説明がローサス教授から長々とあり、暗い雰囲気に終始する)。13日:暗い雰囲気を打破し、研究の実行を可能にするため、ローサス教授に15万円の寄附を申し出て、その場で現金(日本円)を手渡す。(1ペソ10円であったので、現地では150万円の価値があった)。午後、第1回目の学校(小学校、中学校)訪問。17日:市民への講演会を行い、「日本人の体力について」と題して講演。19日:グァナファト市にあるグァナファト大学で学長に会見。席上、15万円の寄附が行われたことが高く評価され、グァナファト大学もそれに答える努力をすることが明らかにされた。24日:レオン市長に会見。被検者の移動に、野戦用救急車を配車すること、被検者に昼食を支給することの約束を確認し、謝辞を述べた。新聞記者が多数参加し、写真カメラのフラッシュがまぶしかった。12月2日:最初の被検者が救急車に乗って研究所に到着。15名の予定が、実際に来たのは5名のみであった。ともかく、この日から実験は開始された。
今回、私がメキシコに派遣された日本学術振興会の派遣目的は「人物交流」であり、実験研究が目的ではなかった。したがって、研究費は全く考えられていなかった。メキシコ側は、私の滞在費として、ホテル代、食費を支給してくれた。それらの費用は、グァナファト大学に支払われる。私は、メキシコ側から研究費が全く得られなくても実験が可能なように資金的準備はしておいた。15万円の寄附は、2段構え、3段構えのうちの第1段階のつもりであったが、グァナファト大学から研究費の提供も得られたので、比較的余裕を持って研究を進めることが出来た。グァナファト大学は、スタッフの人件費2名分、消耗品、および呼気ガスサンプル採取用の注射器(100ml用)40本をはじめとする機材費を負担した。私は、研究活動費として、研究所に対する寄付金15万円(14,250ペソス)、のほか、被検者に対する記念品または謝金、実験補助のボランティアに対する謝金、交際費などを負担した。レオン市長から提供される昼食は、低所得階層の被検者に対するパンとマンゴジュースであった。
届かぬ荷物をもとめて
12月2日から開始された実験では、航空機で運搬した機材を用いてかろうじて進めることが出来たが、もっと大人数を測定するためには、あらかじめ船便で郵送した機材が届かなければ不可能であった。7月2日に発送しているにもかかわらず、5ヶ月間が経過しても届かないのは、行方不明になっているのに違いなかった。日本の郵便局に問い合わせると、7月2日に発送された郵便荷物は、岩手丸か出雲丸に積み込まれ、横浜港か神戸港を出航し、8月25日、9月5日、または9月23日のいずれかに、アカプルコに入港しているはずであるという。レオン市の郵便局でいろいろ調べてもらったが、皆目その所在はわからなかった。日本からのアカプルコに入った荷物は、アカプルコの税関を通るはずなので、まだアカプルコにとどまっているに違いないと考えた。
ローサス教授は、「アカプルコには大学に出入りしている業者の代理店があるから、その人にアカプルコ税関に行ってもらう。荷物は容易に手に入ると思う」と楽観的だった。しかし、代理店の人が税関に行ってくれたが、全く要領を得ない、ということであった。
そこで、CONACYT発行の輸入関税免除申請書を持って、アカプルコの税関に行くことが良いだろうということになり、CONACYTに申請書の依頼を行った。CONACYTは、グァナファト大学学長の依頼書と我々の依頼書、および内容証明書が必要である旨を教えてくれた。これらの書類を準備して提出したところ、内容証明に玩具が抜けていることの指摘を受け、再度提出した。この書類の行き来には、メキシコシティーで医学博士課程の勉強をしているセルヒヨが、夜行バスを使いながら、CONACYTのあるメキシコシティーとレオン(片道6時間)の間を往復してくれた。また、アカプルコの税関宛、郵送された荷物は研究上必要なものであるという、裁判所発行の証明書も整えられた。
私とフランシスコは、書類を携えてメキシコシティーからアカプルコに飛んだ。これでやっと荷物が手に入るという期待でいっぱいだった。アカプルコについて荷物を運ぶためのレンタカーを借りてアカプルコ税関につくと、職員らしい男は、胸をはだけて玉のような汗をかいていた。5人ほどの職員が働いていたが、さほど動きが見られるようでもなかった。一人の男に書類を見せ、荷物の所在を尋ねると、簡単に書類の摺りを見て、「ない」と無表情に言った。「ない? そんなはずはない。」私は、船の名前を言って、「確かにここについているはずですが」と、やや語気を強めて言うと、その男は、「ちょっと待ってくれ」と言ってその場を離れ、そのまま我々の前には現れなかった。
フランシスコは、そんなに気色ばんではいけないよ、といった注意を私に与えた。別の男が来て舟の到着を示す書類を示してくれた。書類を丹念に調べてくれて、「イズモマルは、8月27日に到着しているが、この荷物は直接メキシコシティーに行くので我々には関係ない。それに、メキシコシティー行きの荷物は、すべてメキシコシティーの税関に送られるので、アカプルコの税関は通らない。また船番号の末尾が5となるものはメキシコシティーに送られる」と説明してくれた。
日本から郵送した荷物はグァナファト州レオン市であるから、当然メキシコシティー行きとは異なっている。しかし、何かの理由でメキシコシティーの税関に送られた可能性が出てきた。
私とフランシスコは、アカプルコの税関職員の説明には、半信半疑であった。「どうする」とフランシスコは私に尋ねた。「すぐメキシコシティーへ帰ろう。何か手がかりがつかめるかもしれない。」口惜しさで胸がいっぱいだった。我々は口には出さなかったが、荷物を受け取ってアカプルコで気分良く1泊し、翌日レオンに帰ろうとお互いに思っていた。
メキシコシティーの郵便税関の住所を教えてもらい、2人は空港にとって返した。海浜でくつろぐ人々の姿が羨ましかった。空港には、アメリカの観光客が多く、日本人の家族連れの姿も見られた。
メキシコシティーの郵便税関はわかりにくいところにあった。もう夕方の6時近くになってしまっていたが、そこには大勢の人々が働いていた。係りの人に事情をはなすと、「明日、セニョール00に話をすると良い」と教えてくれた。その夜は、メキシコ人が最も信仰する聖母グアダルーペのお祭りの日をひかえて、夜12時頃までいろいろホテルを訪ねてみたがどこのホテルも満室だった。結局セルヒヨの狭いアパートで3人雑魚寝のようにして眠りについた。
翌朝9時までに郵便税関にいき、セニョール00に会って事情を話したところ、セニョールは窓口の係りの老職員に何かを指示した。品の良い老職員は、帳簿をしばらく調べてみて、
Kando Kobayashi,Madero 112-513 Santa Clara, Mexico
と書かれた私の名前を見つけ出した。住所は、いつの間にか、レオン市から、メキシコ市サンタクララに変わっている。「この荷物がどこにあるか調べてみる」ということで、1時間ほど待つと、若い職員が荷物はここの倉庫にある、といってくれた。早速引き取りの手続きを開始することになったが老職員の荷物確認にさらに1時間かかった。老職員の示した用紙をもって、荷物受け渡しカウンターにそれを提出すると、背の低い職員は帳簿を開き、帳簿を激しく伏せて「ここにはないよ」といった。老職員のところに戻って「ないと言われた」と告げると、老職員がもう一度カウンターのところについてきてくれた。老職員ともう一人の職員が税関倉庫の中に入って調べること約1時間。ようやくその荷物の存在を確認した。この荷物を引き受けるのには、局内の3人の責任者のサインが必要であった。カウンター前でさらに1時間半ほど待っていると、黄色い葉書をもらった。
「Kando Kobayasche :Madero 112 Santa Clara,Mexico」と住所が書いてあり、名前も苗字がスペイン語ふうに書き換えられていた。
荷物が届いた時にこの葉書を出したが受取人不明で戻ってきたということであった。名前も違えば住所も全く違う。こんな葉書が届くはずがなかった。
グァナファト大学やCONACYTからの通関依頼状を提出したが、「アカプルコ郵便税関長宛」となっており、宛先が異なるので受け取れない。「メキシコ郵便税関長宛」に書き直してくるようにということであった。ここまでの指示を受けるのに6時間かかった。翌日には実験が控えていたので、メキシコシティーからレオン市まで飛行機で帰った。
大学からの書類が4日後に得られたので、12月15日、午前1時発のバスでフランシスコと共に再びメキシコシティーに向かった。所要時間は6時間で深夜のメキシコシティー行きのバスは満席であった。午前9時から、メキシコシティー郵便税関での手続きを開始したが、必要な窓口が多く、その一つ一つに時間がかかるので、午後3時になっても終わらず、結局その日の窓口業務は終了してしまった。翌12月16日にも、午前9時から昨日の続きをおこない、筋力計など数点に関税がかけられた。関税免除の申請は受け入れられなかった。その支払いを済ませ、昼頃にようやく荷物を手に入れることが出来た。
荷物を受け取る時、受け渡しカウンターの背の低い職員は、「ユー・アー・ラッキー」と英語で言葉をかけた。何がラッキーなものか。ひどい目にあってしまった。これがラッキーだというなら、おそらく行方不明になったままの荷物が数多く倉庫に眠っているに違いなかった。倉庫に眠っている荷物は6ヶ月経過後に発送先に送り戻すか、法的手続きを経て処分するのだそうだ。
私の郵送した荷物は、8月に到着しているのだから、そろそろ処分の対象にされていたかもしれない。
今回の問題は、郵便局員の先入観で、住所が変えられてしまったことによる。普通は郵便荷物に貼り付けられた住所は見ないで、番号で処理される。番号と住所、宛名を書いた登録台帳が作られ、この台帳が間違って作られると、いかに正しく住所氏名を書いて箱に貼り付けていても台帳と荷物を照合させなければわからない。今回は、荷物には正しい住所が書いてあったにもかかわらず、台帳では、グァナファト州、レオン市が省略され、国名として書いたMEXICOが、「メキシコ市」と台帳に記入されてしまった。通りの名前はマデロ通りであったが、日本では栄町といったようなどこにでもある名前なので、メキシコ市のマデロ通りはサンタクララ地区にあるので、葉書の住所は、「マデロ、サンタクララ、メキシコ市」というように勝手に変わってしまっていた。封書や葉書の場合には、局員が直接発信人の書いた宛先を読むので正確に配達されるが、局員が書き写した台帳をもとに配達が行われると、今回のようなとんでもないことが起こる。長い住所は、むしろ略称を用いたほうが良かったのである。
ともあれ、やっと手にした荷物を 郵便税関の前に積んで待っていると、セルヒヨが女友達の赤色の大型自動車を運転して迎えに来てくれた。荷物をバスターミナルまで運び、午後1時発のバスに乗り込み、7時過ぎにレオン市の研究所までもどってきた。この日、夜8時半からは、夜間中学での実験説明会を予定しており、すぐに準備に取り掛からなければならなかった。心は張り切っていた。
航空輸送費を節約する目的で、郵便小包にして器材を送ったことは、結果として多くの複雑な手続きと時間と費用を必要とすることになってしまった。この点では明らかに失敗であった。しかし、届かない荷物を求めて、いろいろな苦労を重ねるうちに、メキシコの友人達のお互いを助け合う精神の深さに強く接することが出来たように思う。
12月2日から開始された測定であるが、毎日15名の実験予定が最初の1週間は1日に2名から8名しか研究所に集まらず、合計26名であった。第2週目は12名、第3週は31名。第4週目はクリスマスの週に当たり、わずかに7名であった。第5週は、年末年始にかかったが、実験は12月31日午後も続けられた。この週には農村地区の子どもたちが25名訪れて測定をうけた。
新年を迎えた昭和56年(1981年)は、1月5日から測定は開始されたが、軌道に乗ったのは1月7日からで、この日22名を測定し、以後連日20名近くの被検者が訪れ、帰国日が迫った1月中旬には被検者になる希望者が研究所を訪れても、断らなければならないほどに希望者が大勢になった。
被検者数が1月になって増加し、本来の計画を上回ることになった最大の理由は、多くの人がこの実験研究の意義を理解し、興味を引いたことによる。保護者の理解を深めた理由には、現地の新聞が、この研究や私について写真入で機会あるごとに報道してくれたことによる影響が大きい。また、子どもたち自身には、記念品として学用品やプラモデルが大きな動機付けになった。おもちゃをもらうことが楽しみで、トレッドミルの上を懸命に走った子どもも多い。1ヶ月以前に被検者数が思うように得られなかった理由には、採血することに拒否反応が大きかった。また、低所得層の子どもたちから測定を開始したため、保護者の協力がなかなか得にくい状況にあったことも原因している。協力が得にくいと考えられる上流富裕階層の保護者には、充分な理解が行き届いたところで協力をお願いすることになっていた。
病気の少年
マヌエル・ドブラド小学校は、レオン市のうちでも特に低所得階層が集まっているサンタクララ地区にある。測定が始まって3週間たった1月6日、18人の級友とともに、野戦用救急車に乗って、研究所まで測定を受けに来たなかの一人にホセ少年がいた。
研究所に到着して名簿リストを作り、前肘静脈から採血が終わると、子どもたちは運動靴には着替え、ランニングパンツをはき、血圧測定と胸部打診をうける。身体計測は、身長、体重、頭囲、腹囲、上腕囲、大腿囲、下腿囲、という順で計測され、さらに上肢長、下肢長、胸部前後径、皮下脂肪厚(上腕背側、背中、腹部)の測定を受ける。身体計測が終わると、握力を測定する。「マクシマ フェルテ」(思い切り力をこめて)、と握力計の握り手を握らせる。「トドス トドス、 トドス」(全部、全部、・・・・)といって、彼等を励ます。
子どもたちは、今までこのような測定を受けたことがないので、はじめはためらいがちであるが、直ぐに要領を覚えて力を発揮するようになる。その後、心電図用の電極を胸に絆創膏を用いて装着し、心電図テレメータ送信機をバンドで腰部に取り付けると、いよいよランニングテストの準備完了ということになる。トレッドミルの上で走るという準備が進められる頃になると、何人かの子どもは、腹痛を訴えたり、身体の不調を訴えたりすることがある。実験室での機械を前にしたテストに対して、恐怖感を持つと同時にとても不安な気持ちになるのであろう。
ホセ少年も身体計測を行なっているうちに、腹痛を訴えた少年のひとりであった。そして彼は「走りたくない」といってトレッドミルテストを拒絶した。フランシスコは、もう一度彼を打診すると共に、少年の腹部に手を当てて診察した。特に腹部に異常は認められないという。しかし、少年はそれでも走りたくないという態度を示した。フランシスコは、通常そんな少年に対して、何とか上手に不安材料を取り除いて励まし、少年達に走る勇気を湧きたたせる。しかし、この日のフランシスコは、ホセ少年に対して「走りたくなかったら、走らなくてもいいよ」と伝えた。彼は少年に対してやや慎重な態度であることが伺われた。ホセ少年はこの日、トレッドミル上を走る測定をおこなわずに帰宅した。それから2日後であった。マヌエル・ドブラド小学校の他の児童達と一緒に、ホセ少年は再び研究所にやってきた。しかし、このとき、ホセ少年は母親に付き添われていた。母親は、フランシスコに「子どもの様子がとても変です。妙に腹痛を訴えて、2日間苦しみ通しなのです。」と説明した。
フランシスコは、少年の様態が緊急事態であることを直ぐに見抜いた。虫垂炎の手遅れの状態であると判断した。実験どころではない。フランシスコはこの研究室と同じビルディングの2階にあるドクトル・ガルシアの救急医院に、ホセ少年を直ちに送り込む手配をした。「少年は、危ない状態にあるから・・・・」とフランシスコは小声で私に説明した。
この実験を手伝うために、フランシスコの医学部での教え子であるセルヒヨ(医師)が研究所にあらわれた。フランシスコはセルヒヨを見かけるなり「すぐ、ドクトル・ガルシアのところへ行って、少年の手術を手伝ってくれ」と伝えた。ホセ少年は、すぐさまセルヒヨやフランシスコにつれられて、2階の医院に運ばれ、20分後には手術が開始された。セルヒヨはその医院の医師ではないにもかかわらず、手術室での執刀に当たった。1時間後には手術は終了した。実に素早い処置であった。我々は、少年が医院に送り込まれ、手術が開始される頃に、やっと測定を開始することが出来た。
夕方、フランシスコ、セルヒヨ、私の3人は、ホセ少年の病室を見舞った。病室には少年の両親がいかにも心配顔で、ベッドの脇に付き添っていた。酸素吸入のチューブを鼻につけ、点滴用の注射針を前肘にさして横たわっている少年に近づき、フランシスコは何やら少年に語りかけながら少年の体の様子を診察した。
少年の家庭は貧しい。父親は文盲で1ヶ月の収入は4000ペソス(約4万円)以下だった。母親も文盲で、13歳の娘を頭に8人の子どもがあった。父親がフランシスコや私たちを見る目は、憂いの色に満ち満ちていた。我々が見舞いの言葉をのべて立ち去ろうとする時「グラシアス」(ありがとうございます)と、感謝の涙をたたえるような表情で、3人の顔を一人一人見つめた。母親は無言で頭を下げた。
この体力測定の実験を通して、母親はホセ少年の容態を相談するのにフランシスコ医博を頼ったのだ。この実験研究を行うことの目的の一つとして、子どもたちの健康状態を診断するということが、被検者の保護者にも伝えられてあった。
我々3人は、病室を出ると、院長であるドクトル・ホセ・ガルシアに面会した。ガルシア院長はがっしりとした体つきをした、とても貫禄のある中年の紳士であった。院長は、我々と握手すると、「シエンテセ、シエンテセ」(どうぞお座りください)と、椅子を勧めてくれた。フランシスコは、ホセ少年の病状や支払いについて、院長と短い会話をした。私には、2人の会話の内容はよく理解できなかった。ビルディングを出ると外はもう薄暗かった。街路樹に、クリスマスのために取り付けた電機のイルミネーションが、まだ美しく灯されていた。
「ドクトル・ガルシアは、あの少年の手術代は要らないといっていたよ」とフランシスコは私に説明した。フランシスコは、少年の貧しい家庭の事情を、すでに院長に話していたのであろう。フランシスコは、「大学から、何とか医薬品を工面してこなくちゃならないな」とも言った。フランシスコは、あの少年のために、必要な医薬品を工面して、両親の負担を少しでも軽減してやろうと考えているのだ。
この体力測定の実験を通して、一人の少年の命を救うことが出来たことに、フランシスコは少なからず誇りを感じていた。フランシスコは、貧しいものを助け、苦しんでいる人々の苦しみを軽減させようとする、医者としての責任感を強く持っているようだった。貧困ということのために、医者に相談することをためらい、病気が手遅れの状態に進行し、生命を失う人も数多くいるに違いない。この日、フランシスコがとても偉大な男であるように思えた。そして、あのドクトル・ガルシアの威厳に満ちた顔の奥に、貧しき民に対する大きな包容力のある心を思い浮かべ、心が洗われる思いがした。メキシコには医者の仁術という哲学が生きているのだ、とも感じた。
この国の医療制度は、一体どのようになっているのだろう。あまりにも貧しい人々は、公的機関の病院で治療を受けることが出来る。このとき、患者側に支払能力が無い場合は、ソーシャルワーカーが、患者の家庭を訪問し、その経済状態を調査し、経済的能力に従って、医療費の減額や免除が行われる。また、開業医がそのような患者を扱った場合には、税金の申告の際、その事実を申告すれば、その分だけ税金が控除されるということであった。
事故の発生
ショランダー微量ガス分析器でガス分析をしているとき、隣のトレッドミルの部屋から子どもの泣き声が聞こえた。私は、この日からトレッドミルの測定室を離れて、実験の開始と併行して呼気ガス分析を行うことにしたところだ。検者になった人もだんだんと測定のテクニックに慣れてきたし、20名の被検者をこなすには、採取した呼気ガスを速やかに分析しないと、サンプル用のシリンダが足りなくなる。子どもの泣き声は激しかった。「カンドー カンドー」一人の子どもが血相を変えて私を呼びにきた。すぐに隣室に行ってみると、どうしたことだ。小さな女の子がトレッドミルのベルトとその後方の鉄枠との間に、手首から前腕を巻き込まれているではないか。フランシスコとセルヒヨが必死になって、トレッドミルのベルトを張っているドラムの位置を緩めようと、ボルトを回していた。しかし、ベルトを緩めるとかえって強く手首が挟まれるような具合であった。私はすぐに手首が挟まれた子どもを腕の中に抱え、挟まれた腕が少しでも楽な位置になるように、子どもの姿勢をかえた。「棒、棒をもってこい」と叫んだ。実験室の片隅にあった木の切れ端を手首が挟まった隙間に突っ込んで、ベルトを張っているドラムがこちらへ来るのを防いだ。しかし、効果はなかった。フランシスコがすぐにやや長い木の切れ端と鉄パイプを持ってきた。これを隙間に入れて、今度は力いっぱいにテコ作用で子どもの手首の挟まれた隙間を押し開くようにした。隙間はやや開いたが、手首は抜けない。気転のきくロサリオが石鹸水を持ってきて、腕の部分にかけてすべりをよくした。5分もしないうちに、子どもの腕をその隙間から抜くことが出来た。子どもの腕をそっと触ってみた。骨折が心配であった。幸い、手首の内側の部分が、5センチほど赤く皮がむけただけで済んだようだ。
こんな事故ははじめてであった。このトレッドミルを最初に一目見たときから、少し危険な感じを持っていた。あまりにも旧式なアメリカ製のものだ。安全装置について、全く配慮がなされていなかった。この日の被検者は、近郊農村地区から着た20人の女の子達である。12人の測定を終えて、13人目が8歳の子であった。女の子たちは、トレッドミルの周りに集まって、「チアー」(大勢で声を揃えての声援)を行いながらトレッドミル上を走る被検者を調子よく応援していた。
トレッドミル上の測定は、一人につき10分以上必要とするから、13人目にかかった時は、実験開始から2時間30分を経過している。トレッドミルを運転する場合には、そのことに対する神経の集中が要求される。このときの運転者は、空腹のためパンをかじりながら運転を続けていた。ベルト上を走る時は、安全を確保するように走者のすぐ後ろに補助者をつけ、たとえ走者がバランスを失っても転倒しないように配慮してある。13人目の走者の補助者は、走者の姉であった。通常は検者の一人が補助者となるのであるが、このときに限って被検者としてきていた15歳の姉がその役に当たっていた。
ベルト上を走っている妹が、何かの弾みでバランスを失った。このとき、姉は上手に抱きかかえるようにして妹が転倒するのを防いだ。トレッドミルの運転者も走者がバランスを失った時、すぐにモーターのスイッチを停止側に切り替えて、トレッドミルを停止させた。しかし、次の瞬間が良くなかった。何かの弾みで、運転者は再びスイッチを運転側に切り替えてしまった。日本で用いているトレッドミルは、一旦スイッチを切ると、スピードがゼロになり、再びスイッチを入れると、スピードがゼロの状態から増速度ボタンを押さなければ元のスピードには戻らない。ここのトレッドミルは、一旦スイッチを切っても、再びスイッチ・オンにすると、いきなり元のスピードで回転が始まるのだ。こうして、一旦停止したトレッドミルの回転ベルトが、次の瞬間いきなり動き出したのだからたまらない。せっかく上手に補助した姉は体のバランスを失い、妹は転倒して手と腕をベルトに巻き込まれてしまったのだった。
事故は研究者にとって、最も注意しなければならないことだ。事故を予防するために、我々は細心の注意を払ってきている。日本では、それまでに5,000回を超えるほど最大酸素摂取量を測定してきたが、1件の事故も起こすことなく今日までやってきた。しかし、メキシコに来て事故を起こすとは! これは大変なことだ。
自分が現場にいなかったこと、そして実験に慣れていない検者の側に、実験というものは、神経の集中と最新の注意とが必要であることを、繰り返し充分徹底できていなかったことに事故の原因がある。
幸い子どものケガは小さくて済んだ。しかし、実験室の雰囲気はいっぺんに重く沈んだものになってしまった。(この場の雰囲気を何とか持ち直さなければならない)。
事故にあった子どもの姉は、悲しそうな顔をしている。「姉がしっかりサポートしていなかったからだよ」と、フランシスコは言った。(馬鹿を行ってはいけない。姉に責任をかぶせてはいけない)。
「ヨー、ノー」(わたしはいやよ)
といって、せっかく胸に貼り付けた心電図用の電極を自分ではがしてしまう子もいた。
私は、子どもたちをトレッドミルの部屋から隣の部屋に移し、手首が挟まれた鉄枠とベルトとも空間を少しでも小さくするように、鉄枠にクッション製のテープをぐるぐる巻きつけた。なにかしなければ、子どもたちを心理的に安心させることは出来ない。このテープがどれだけ効果を持つかわからないが、少なくとも鉄枠がむき出しよりは良いであろう。次に、ビルディングから飛び出して、道路の向かい側にあるキャンディーショップにチョコレートを買いに走った。1個60円相当のチョコレートを30個買ってきて子どもたちに配った。手を挟まれた子には2つ握らせた。多くの場合、事故が生じたとき、実際的な傷の有無よりは、精神的なショックのほうが大きい。だから、少しでも精神的なショックを和らげる方法を講じなくてはならない。そのためには甘味が必要なのだ。
子どもたちの生活調査の中で、チョコレートが好きだ、と書いてあったことが直ぐに頭に浮かんだのだった。チョコレートを1個、私も口に含んでみた。猛烈ともいえる甘さが、舌から顎に伝わってきた。チョコレートを食べると、子どもたちが機嫌を取り戻したようだった。気の強い子どもが「わたし、走るわ」、といってくれたのには助かった。
彼女は、トレッドミル上を元気よく走った。このことで、次々に走る子どもが出て、事故にあった子どもまでが「走る」といってくれて、彼女は走った。私は、神に祈る気持ちで、彼女が走ってくれたことに感謝した。彼女は、小さな身体で精一杯走った。そして、姉も走ってくれた。「ありがとう、ありがとう」。私は彼女たちに心から感謝した。強い、立派な心の持ち主の彼女たちだ。根性があるという言葉は適切ではないが、メキシコの子どもたちの心の芯の強さに、心を打たれた。
実験が終わると、皆に日本から持ってきたプレゼントをあげることになっている。まんがつきのプラスチック消しゴム、鉛筆、自動車や飛行機のプラモデルなどで、欲しいものを選択する。彼女たちは、プレセントを心から喜んでくれた。事故にあった子には、プレセントを2倍にした。姉さんにはこれらのプレゼントを渡すとき、「あの事故が起こったことをお詫びします。そして、あなたの実験に対する協力に心から感謝します」とお礼の言葉を述べ、ピンク色の絹のスカーフもプレゼントに加えた。姉は、ただうなずいて、受け取った。私は、今日の実験で採集した呼気ガスを、これから数時間かけて分析しなければならなかった。フランシスコとロサリオは、子どもたちを農村へ送り、被検者となった子どもたちの家を一軒一軒まわり、今日の帰りが遅くなった理由を報告した。事故にあった女の子の家に行き、よく説明して両親の許しを願った。両親は、「事故は時として起こるものだ。大したことでなく良かった。気にしないでいい。」といってくれたという。
夕方、6時過ぎても子どもたちが帰ってこないことを農村の家々では心配していた。農村地区の被検者集めの世話役をやってくれたセバスチャンが、よく皆に事情を説明してくれ、彼の説明で多くの親達が納得してくれたという。
大統領府での会議
ローサス教授は、日本学術振興会とメキシコ国家科学技術会議(CONACYT)の合意の下に派遣された日本からの研究者をグァナファト大学が受け入れ、共同研究を行っているという実績に関連させて、「メキシコ国民の体力づくりプロジェクト」をメキシコ政府に提案し、これをグァナファト大学労働科学研究所が中心となって推し進めることを立案した。プロジェクトに必要な予算は約200万ペソス(2000万円)で、これをメキシコ政府の特別予算から出資してもらおうという計画である。これは、私のグァナファト大学受け入れ受諾が決まった時期から計画され始めたもので、提案書は、A4版の用紙に50枚程度にまとめられていた。12月8日には、これまでの下準備が整い、いよいよ国立宮殿でメキシコ政府関係高官との会議を持つことになった。この会議には、プロジェクト申請側としてグァナファト大学総務局長ベニト氏、ローサス教授、労働科学研究所所員7名(顧問を含む)、私のほか、このプロジェクトを背後から応援してもらうという意味で、アメリカからコロンビアの子どもの研究で有名なスプール教授、テネシー大学のズラテリー教授、アラバマ大学からニーダーマイヤー教授が招待され、申請者側に加わった。会議には、政府側からこの方面の最高責任者3名を含む8名が出席した。
ローサス教授は、この会議に出席する朝、身震いがするというジェスチャーをして見せた。メキシコの大統領といえば、日本では天皇と総理大臣を兼ね備えているのではないかと思わせるほどの存在である。会議が始まると、ローサス教授はグァナファト大学側の出席者を一人一人紹介したあと、プロジェクトの目的などを含めた提案理由の説明を行った。説明の中で、ローサス教授はスライドの映写をおこなった。このスライドは、研究所の全景、トレッドミルの上を歩くおとなの姿、テレメータ用心電図電極をつけてトレッドミル上を走る子どもの姿などを始め、日本の子どもが心電図電極をつけてフィールドアスレチック施設で遊ぶ実験風景や、そのときの心拍数の変動の実験結果など、約10枚ほどであった。そのうちのほとんどは、私がメキシコでの講演用に持ってきたものであり、メキシコの実験風景も私が研究所にきてから撮影したものであった。ローサス教授は、体力づくりについてこれといった科学的研究も実践も行っていないようであった。しかし、ビジョンだけは胸に描いているようであった。いわば、長年の机上のプランを、予算づけを得て、この際ぜひ実現したいということであった。スライドの説明に当たって、ローサス教授は、「ドクトル・カンド・コバヤシは、スペイン語はわからないし、英語もよく話せないので、私が説明します」と言った。席上には笑い声が起こったが、ローサス教授は真面目顔で長々といろいろなことを説明した。そのあと質疑討論が行われた。
グァナファト大学総務局長のベニト氏は、「このプロジェクトは実に重要である」と強調した。政府高官の一人は、「メキシコ国民の体力づくりについての重要性は、我々も充分に認識を持っている。そして我々は日本の職場体操のようなものを、現実の場で取り入れてゆく試みをしたら良いと考えている」と述べた。この政府高官は、世界の事情を良く知っている様子で、体力づくりについては日本を視察したことがあることに触れ、「日本のシステムは大いに参考になるので、メキシコとしてはこれをモデルに考えている」という発言があった。このあと、「なぜ、このような大規模なプロジェクトをグァナファト大学の一研究所だけが請け負っていくのか、それには少々問題があるように思う。もう少し、いくつかの研究所との接触をもって行ったらどうか」という意見も出された。そして、今後また接触の機会を持ちましょうということで1時間30分の会議を終えた。
席上、アメリカからやってきた3教授のうち、スプール教授だけが、体力づくりプロジェクトの重要性について述べただけで、他の2教授からは何の発言もなかった。私は、スペイン語も英語も話せないということになってしまったから、ただ座っていれば良かった。しかし、会議のなかでは、ローサス教授からも政府高官からも「ドクトル・カンドウ」の名前が何度も繰り返された。
この会議は、いわばヒアリングの会議であったと解釈できる。会議が実現できたことには、労働科学研究所の顧問であり、大統領に近い人に姻戚関係をもっているメキシコ銀行レオン支店長の、セニョール・ロレンソの力が大きかったという。このような会議にアメリカから3教授をわざわざ招待し、私も含めて4人の外国人が研究所のメンバーとともに参加した。ローサス教授は、カリフォルニア大学のホーバス教授も招請したけれど、あいにく奥様の体の具合が良くないので、メキシコに来ることが出来なかったことを残念がっていた。ローサス教授にとっては、このヒアリングの会議は、大デモストレーションであったわけである。会議の後で、大統領府入り口の向かい側の宮殿回廊に描かれてある、メキシコの歴史を描いたディエゴ・リベラの壁画を見学した。
その後、高級レストランで夕食会となり、高級な酒や料理がふるまわれた。このレストランは、昔はアシエンダと呼ばれ、メキシコ革命以前の富豪の大邸宅であったところである。中庭は、四季の色とりどりの花が咲き、バナナの木や噴水、彫刻があり、とても美しいところであった。アシエンダの一室には、金で作られた等身大のキリスト像が祭られてあった。会議の席上、一言も発しなかったアメリカのニーダーマイヤー教授は、「ドクター・ローサス。こんなにイージーな仕事は今までになかったよ。こんなことなら、いつでも、何回でも呼んでほしいな」と、酒を飲みながら話した。
ローサス教授は、会議の印象を私に尋ねた。私は、ローサス教授が以前よりもっと立派に見えるようになりましたよ、という意味と、会議前や会議中のコチコチに緊張していたローサス教授の状態を暗示する意味を込めて「Dr.Rosas is much better after the meeting」というと、ローサス教授はどう解釈したかわからなかったが、非常にこの言葉が気に入ったようで、大声で笑い、いかにも満足気であった。ローサス教授は、「アリガトウ、アリガトウ」と日本語で繰り返した。
実験の中止命令
1月15日に、フランシスコはローサス教授のいる所長室へ呼ばれ、1時間ほど話をしていた。この頃は、ローサス教授はあまり研究所にくることもなく、時折1,2時間ほど研究所にあらわれては、ひどく機嫌の悪い顔をして陰気な雰囲気を漂わせていた。最近では、フランシスコと私を所長室の机の前に座らせてから、電話のダイヤルを回し、我々に全く関係のない人に長々と電話をかけ、それが終わってから待ちくたびれた我々に話を始める、といったやや異常な行動も目立ってきた。
この日、所長室から出てきたフランシスコもまた、非常に暗い顔であった。「何かあったのかい」とフランシスコに尋ねた。ローサス教授は、実験の中止命令を出したのだそうだ。「なぜ中止なのだ」と私は尋ねた。フランシスコは、中止命令が出る背景としていくつかの理由を挙げたが、それらはあまり論理的なものではなかった。明らかなことは、研究所員の解雇をともなう予算の不足だった。
この日は、レオン市のもっとも富裕な上流階層の家庭の少女が通う、ミラフローレンスという女学園において、実験協力の説明とデモンストレーションを行う予定で準備していた。当日になって、突然ローサス教授から中止命令が出されたからといって、我々は後に引くことは出来ない。フランシスコは、ローサス教授が個人的な理由で、ミラフローレンス女学園との関係が悪いことも説明してくれた。
ローサス教授に、この件について話をしようとしたが、ローサス教授はフランシスコへの話が終わると、さっさとどこかへ行ってしまった。ローサス教授とフランシスコは、相互不信の状態がさらに進行していたし、ローサス教授の日常行動も、大統領府での会議後、2~3週間して、あまり研究の遂行に協力的でない態度が見られてきていた。私は、「かまわないから、今日はミラフロ-レンスに行って説明会をしよう。いまさら中止にすることは、われわれの信用を傷つけることになってしまう。それに、研究費のうえで不足する分があれば、すべて僕が負担するから」といって、フランシスコに財政上の問題は心配しないように告げ、フランシスコも研究の遂行を決断した。
午後に、フランシスコ、ロサリオ、私、それにソーシャルワーカー研修生数名をともなって、ミラフローレンス女学園に出かけた。広い学園の敷地には大きくて立派な校舎が建ち、体育館などの体育施設も整っていた。
保護者としての母親達も、PTAの役員を主として、30名ほどが集まっていた。我々の到着がやや遅かったので、婦人たちは学園の待合室の上等なソファーに腰をおろして談笑していた。いずれもメキシコの上流階層の奥様達ばかりで、服装も、髪型も、容姿も、素晴らしく美しいひとが多かった。
「スライドの設備がある部屋に」、ということで、ミラフローレンス女学園の副園長先生の案内で、一同は待合室からは別棟の教室の1室へ案内されることになった。待合室からその教室までは5分間ほど歩かなければならなかった。奥様たちは、背筋と腰を伸ばした姿勢を保ちながら、ゆっくりとした歩調で歩き、真近に貴婦人たちの行進を見る思いがした。
一人の婦人は私に近づき、「あなたのご研究のご成功おめでとうございます」といわれた。このような言葉をかけてもらえることは、全く予想しないことであった。説明会は、実験のスライドを映写しながら、上品な雰囲気のなかで行われた。質問のなかに、「研究の責任はどのようになっているのですか」ということがあった。これは、どこの会場でも、必ずと言ってよいほど質問された内容である。
「メキシコ国家科学技術会議と日本学術振興会が共同の責任を持ちますが、グァナファト大学がこの研究に関連しております」。このように応えると、質問した婦人は「ブエノ(結構です)」といった。他の婦人達も大きくうなずいた。メキシコの国では、責任体制がどこにあるかということを明らかにしておくことが特に大切なことのようであった。それは、信じるべきものは何かを明らかにしておくことでもある。メキシコの社会では、上流富裕階層の人々は、低所得階層の人々を信用しないし、逆に、低所得階層の人々は、上流階層の人たちや、政治・行政をあまり信用しない、といった根強いものがあるように見受けられた。この研究を進める上で、もっとも協力が得られやすかったのは中流階層の人々であったし、低所得階層の人々との協力を得るのは、比較的根気と時間とを必要とした。
上流富裕階層の子女を研究の対象の最後に選んだのは、もっとも協力が得にくい階層であるというフランシスコの考え方からであった。説明会でのフランシスコの態度は、非常に丁寧であった。しかし、ミラフローレンスの婦人たちの間には、我々が説明会に到着する以前に、おおよそ全面協力の方向が決められてあったようだった。それは、日本からの研究者である私に接する婦人たちの思いやりのある態度からもうかがわれた。
私のメキシコ滞在日数は、残すところ10日になってしまい、実験可能な日も数日を残すだけになってしまった。したがって、出来る限りはやく、ミラフロ-レンスの生徒の測定を開始しなければならなかった。そうしなければ、女子の上流富裕階層の対象者が得られなくなってしまう。
次に私がすべきことは、ローサス教授と話し合うことであった。研究所には、毎日大勢の被検者希望者が訪れて、実験中止どころの話ではなかった。翌日、ローサス教授に話し合いを申し込んだ。ローサス教授は、フランシスコへの不信感を述べるとともに、「フランシスコに実験の中止を命令したのに、彼は私の命令を無視している」といった。実験の続行は、私の意志であったが、ローサス教授は、フランシスコが私に伝えていないと思っているらしかった。
「実験の中止の理由は何ですか」
「大学からもうこれ以上お金を出してもらえないし、研究所は全くの赤字なのだよ」とローサス教授は渋い顔で言った。
「この研究について、私は15万円の寄附をしているはずですが」と問いただした。ローサス教授は、あのお金は大学に寄附され、研究所にはそれと同額のお金が大学からの会計予算に加えられた。しかし、12月の国立宮殿の会議の時に多くの費用がかかったので、もう研究所の予算はなくなってしまった、という説明をした。国立宮殿の会議に関しては、アメリカから3人の教授を招いたので、その航空運賃や参加者全員のホテル代の支払いをした。それに加え、高級レストランで豪華な夕食会を開いたのでは、いくらお金があってもたまったものではない。特に、夕食会では、どうも気前が良すぎるな、と思っていた。何のことはない、考えてみれば、夕食会の費用は、私が寄附した15万円を当てにして開催したようなものである。なぜなら、私が当初研究所についた時は、スタッフの人件費にも困るほど、研究予算がほとんどゼロに近い状態であったからである。とにかく、15万円は、あの夕食会や会議の際に使われたものと思うことにした。私は、あまり腹をたてないように気持ちを抑えた。あの15万円は、景気づけのための誘い水の役割は充分に果したのだ。
ローサス教授は、国立宮殿の会議で使い果たした研究所の会計を補充するために、グァナファト大学に足繁く通って、新たに予算を要求していた様子であった。その要求が大学本部で受け入れられなかったことから、ローサス教授には、心理的に不安定な状態が生じたようである。私の研究を遂行することによって、一般人を対象にした健康診断などの業務を行うことができなかったこともその原因にあるのではないかと予想された。この研究事業は、研究所にとっては、邪魔なものになってきたのである。
一月中旬になって、非常勤の看護婦であったルス嬢が研究所を去り、メキシコ政府へのプロジェクト申請書を一生懸命タイプしていた秘書のマリア嬢も研究所を退職した。研究所の財政的破綻は、どうやら真実味を帯びてきたようである。しかし、勝負はこれからである。
「私は、日本学術振興会とメキシコ国家科学技術会議の国際間の交流研究者として、この研究所に派遣されています。いま、ここで研究を中止したら、当初の目的は達成できなくなってしまいます。また、報告書を日本学術振興会とメキシコ国家科学技術会議に提出する義務も負っています。日本とメキシコの友好関係を傷つけるようなことは避けなければなりません。この際、研究費はなくても、続けられるだけのものは 続けさせていただきたい。」背中に日の丸を背負った気分で、私は意見を述べた。外国に出ると、不思議に自分が日本人であることを自覚する。しかし、これほど日の丸を意識したことは、数回外国に出ているにもかかわらず、初めてのことであった。公務出張という立場も今回が始めてであった。ローサス教授は、苦い顔をして「俺は7つの顔を持った男だ」と意味不明のことをいって、研究の継続を暗に認める態度を示した。
この頃、私は、日本人の精鋭の研究グループと全く変わらない研究チームの中で働いている感覚を持ってきていた。このチームワークを乱すのは、ローサス教授一人という変な形になってしまっていた。ローサス教授は、あまりにもすべてを政治的に考えすぎ、政治的に利用することだけが先行して、研究の遂行上の実態については、机上の概念でしかとらえていないようであった。研究所には大きなうねりが生まれてきたように感じられてきた。ローサス教授を例外として、皆が生き生きとして働くようになったし、フランシスコもそのリーダーシップを発揮するようになってきた。
1月21日からは、ミラフローレンスの小・中学校の測定が開始された。白いシャツにブルーのタンパンツという体育のユニフォームを身につけて、少女たちは嬉々として実験に参加した。このユニフォーム姿は、とても新鮮な感じがした。低所得階層の子どもたちの場合には、運動靴もランニングパンツも買い揃えておかなければならなかった。学校体育の時間も、通常の服装のまま行っていた。子どもたちの中には、靴やパンツが自分達へのプレゼントかと思い、そのまま身につけて帰ってしまったものもいた。ミラフロ-レンスの実験が始まる頃には、いつの間にかランニングパンツも靴も、当初20組用意したものが、パンツ2枚、靴はゼロという状態に減少していた。しかし、ミラフローレンスの子どもたちには、それらの準備は不要であった。彼女たちは、概して色白で、髪もブロンド系統の人が多かった。メキシコの上流家庭で大切に育てられている様子が窺われたが、トレッドミルの上を走る時は、日頃の体育の成果もあってか、とても元気で、精神的にも強いものを発揮してくれた。
帰国のタイムリミットも迫り、ミラフローレンスの少女達を27名測定したところで、すべての実験は1月24日に終了することになった。完全に軌道に乗ってきたところで、残念ではあったが、この辺りが身の引き際なのかもしれないとも思った。
別れのとき
セニョール・ロレンソは、メキシコ銀行レオン支店長の要職にある50年配の人で、研究所の顧問でもあった。セニョール・ロレンソは、鼻ひげをたくわえた丸顔の背の低い人であったが、とてもユーモアのある人であった。15万円の日本円をペソ紙幣に換金するのに、ローサス教授に紹介され、依頼セニョール・ロレンソにはえらく気に入られてしまった。セニョール・ロレンソは、日本に帰る私に、メキシコ料理のフルコースをご馳走してくれることになった。ホテルのレストランでは、3人の楽士がトランペットやギター、コントラバスという取り合わせで、生演奏をすると共に、高い美しい声を張り上げて「パンチョビリャの馬」(El Grano de Oro)と言うような、有名なメキシコの歌を歌って聞かせていた。
「カンドーは俺のクニャド(義兄弟)だぞ」とセニョール・ロレンソは言った。「ハイ!クニャド、グラシアス。このレオンに来て、研究所で研究してくれてありがとう」「アル・コントラリオ(いや、こちらこそどうもありがとうございました)」と私は答えた。「ノー・アル・コントラリオ(いやいや、こちらこそどうもありがとう)」。セニョール・ロレンソとローサス教授は、口をそろえて、私に心から礼を述べている様子であった。彼等が私にこんなに感謝してくれるのかと思うと、何か目頭が熱くなってくるのを感じた。
ここで公表されたことは、国立宮殿の会議で申請した「メキシコ国民の体力づくりプロジェクト」に関する200万ペソス(約2000万円)のグラント(研究費)が、この研究所に交付されることが決定した、ということであった。来週の火曜日に、ローサス教授とセニョール・ロレンソは、メキシコシティーの大統領府まで、200万ペソスを受け取りに行くことになったそうだ。
大統領府は、この研究所がグラントにもとづいて研究を遂行できる能力があることを、ついに認めたからだという。これは、国際的な共同研究をするということが、いかに大きな影響をいろいろな方面に与えるかということを示す実例の一つであると思った。ローサス教授の政治的な手腕は、ついに身を結んだということになるのだろう。
私は、グラントが飲食のために使われることなく、本当の研究の遂行のために使われることを内心祈りながら、プロジェクトが成功するであろうことを祝福し、乾杯した。
翌日には、ローサス教授にともなわれて、グァナファト大学本部へ出かけ、学長先生に面会してお礼を述べた。学長先生は、「あなたがグァナファト大学に来たことは、グァナファト大学にとって良い結果を及ぼしました。研究を遂行してくれたことに感謝します。」といった意味のことを言われた。学長室の壁に掲げてある人の顔の石膏像を珍しい目で私がながめると、「あれはナポレオン・ボナパルトのデスマスクです。私はナポレオンを尊敬しています。」ということだった。学長先生は、私にグァナファト大学古典音楽研究会が演奏したレコードをプレゼントしてくれた。この古典音楽とは、数百年前の楽器類を原型のように復元し、これらを用いて合奏されたもので、奏者はグァナファト大学芸術学部の教授と、その弟子たちであるという。
本部事務局長の部屋に案内されると、事務局長は大きな机の前に私を座らせ、「あなたは、グァナファト大学をパワーフルにした。お礼申し上げます。」と、述べられた。
メキシコを離れる日は、刻一刻と近づいてきた。戸別訪問調査を真面目にやってくれたソーシャルワーカー研修生の女性8人は、レオン市を出発する前日の朝(日曜日)9時から、お別れパーティーをしてくれた。手作りのケーキ、メキシコ式サンドウィッチ、コカコーラ、といった本当にささやかなものであったが、その心が嬉しかった。
多くの思いを残して、メキシコを離れることになった。
収集した研究データは、その生データのすべてをフランシスコに託し、私は手書きで写したデータを持ち帰った。最大酸素摂取量のデータも計算済みの結果を渡し、これを元にグラフ化できる状態にして渡した。メキシコ人の子どもたちを対象にした世界初の最大酸素摂取量の測定データである。
323人分の呼気ガスサンプルを、すべてショランダー微量ガス分析器で分析した。一人当たり2~3サンプルを分析しているので、洗浄や空気分析の回数をくわえると、およそ1000サンプルを分析したことになる。さすがに、ここまで徹底して分析するとマイクロスイッチを回す右手の親指の腹と中指の皮膚は硬く硬直し、硬い肉の塊が膨れ上がったようなものになっていた。のちに、この実験の助手として働いてくれたロサリオ・コネホ嬢は、これらのデータを論文にまとめて「リセンシアド」の学位を取得することが出来た。私は、「メキシコの子どもの体力と生活環境」という書籍にすべての測定結果をまとめて、日本人やノルウェー人との比較を含めて名古屋大学出版会から1985年に出版することが出来た。この本を贈呈させていただいた運動生理学者の石河利寛先生からは、「この本の内容は10年先を行った研究である」という評価を戴いた。一人の研究者が、同一の手法を用いて子どもの体力の国際比較を行ったという点では、時代に先駆けた研究であったということが出来よう。メキシコでの体験は、その後の人生で大いに役立ったように思う。そう実感できるのは、目標ばかりが見えながら、目標にたどり着く手法や過程が極めて難しかった「駒場寮廃寮問題」に直面した10年間の折々であった。
人間を対象として、生活環境と体力との関係を調査測定するばあいには、対象となる人々の住む地域に出かけ、実際に人々の生活の様子に接することが必要である。
(2007年 執筆)
1979年の夏、日本学術振興会の海外派遣研究者募集要項が大学の教室会議で回覧された。派遣対象はアメリカ、イギリス、を始め、世界22カ国にわたっている。そのなかの一つである「メキシコ」という国名が自分の目に飛び込んできた。私は早速、カリフォルニア大学サンタバーバラで共同研究したフランシスコ・ディアスに手紙を書いた。「メキシコ人、および日本人児童生徒の体力に関する比較研究」をやりたいので、カリフォルニア大学で面識がった上司のローサス教授に身元引受人になって欲しい旨を伝えた。ローサス教授は、日本の京都に当たる古都グァナファト大学の労働科学研究所の所長をしており、研究所はレオンという中規模の都市にあった。
受け入れの返事はなかなか来なかったが10月になって受け入れても良いという返事が届いた。12月になって、日本学術振興会から書類選考にパスしたので、面接に来るようにという通知が届いた。赤坂見附で下車し、メキシコ大使館の科学担当官リカルド・ベラスケス・ヴェルダ氏に面接を受けた。私は、メキシコでは、グァナファト大学の人と共同で体力に関する実験研究をしてみたいこと、日本からそのために必要な実験器材をはこびたいと考えていること、実験器材は、テレメータ装置、4チャンネル熱ペン式記録器、ダグラスバッグ、ショランダー微量ガス分析器、など相当な高額になるので、実験終了後は、すべて持ち帰るという条件で、メキシコ税関での特別許可をお願いしたいこと、などを申し出た。しばらくして、日本学術振興会からメキシコ派遣の内定通知を受けた。この通知はうれしかった。
日本学術振興会の内定は受けたものの、メキシコ側の受け入れ機関であるメキシコ国家科学技術会議(CONACYT)からの招請がない限りメキシコ行きは実現しない。現地の滞在費はメキシコ側が負担することになっているためである。
翌年5月に届いたローサス教授からの手紙の文面には、次の内容があった。「研究計画について、我々はベックマン社製のガス分析器を得ようと努力している。換気量の測定には、パーキンソン・コーワン社製のガスメータがある。私は、あなたの研究計画の実行のために必要と考えるすべてのものが、ここに整えてあることを信ずる」。
しかし、私は、この手紙の文面を100%信じることには危険があると考えた。それは、往々にしてメキシコの人は、格調高く構える傾向にあることを、これまでのメキシコ人との付き合いから感じ取っていたからである。事実上、何もないという前提で器材を整え、たとえ電気が来ていなくても実験が出来る準備をした。フィールドワークでは、現地でネジ1本なくても致命的になることがある。準備は、あらゆる場合を想定して、それに備えられるようにした。
テレメータ装置(4チャンネル)や心電図記録器など、高価で、しかも大学の研究予算ですぐには購入できない装置を、三栄測器株式会社のご好意により、新品を借用することが出来た。
メキシコからの招請状はなかなか来なかったが、日本学術振興会の吉川藤一総務部長から、「遅れてもメキシコからは返事がきますよ。出発期日が遅れても内定ということに変わりがありません」という話を伺い、あらかじめ、実験に必要と思われるもののうち、船便で送れるものは送ることにした。
船便には2種類あり、1トンが単位となり、少ない荷物も1トン分の送料を払うが、少量の場合は、郵便荷物の扱いが良いということであった。そこで、郵便荷物の扱いで送ることにした。
船便のダンボールには次のものを詰め込んだ。箱番号1:ダグラスバッグ6個、ダグラスバッグ口金6個、三方コック1個、サンプルバッグ10個。箱番号2:テレメータ用使い捨て電極10箱(250人分)、4チャンネル熱ペン式記録紙8巻。 箱番号3:熱ペン式記録紙5冊、筋力測定用部品1個。
箱番号4:熱ペン式記録紙2冊、呼気ガス採集用マスク3個、マスク装着用ひもバンド2個、長さ1mの蛇管4本。箱番号5:自動車のプラモデル30個、組み立て式飛行機79個、ドラエモンのプラスチック人形7個、握力計2個、筋力測定器3個。
箱番号5の中身は、被検者となった子どもへのお土産が主である。自動車のプラモデルは1個100円程度のもので、紙飛行機は、犬山市で行われた航空博覧会の催しがあったときに、景品として使われた余剰分を、大府市の岡島模型店の岡島さんから無料で戴いたものである。
9月にはいってメキシコから受け入れの手紙が到着し、1980年10月31日出発、1981年1月28日帰国の日程を組んだ。7月に発送した荷物はまだ着いていないということだった。通常1ヵ月半あればメキシコについているはずである。「これはおかしい」と思った。そこで、私がメキシコに到着しても荷物が着いていないことを考慮し、機材および消耗品には遺漏がないように、私と一緒の飛行機で運搬することにした。ショランダー微量ガス分析器は、もし故障が生じた場合、ガス分析が不能になるので、必要な部品を2組用意した。また薬品類も、硫酸や硝酸など現地で調達が可能と思われるものを除き、20種類ほど用意して持っていくことにした。それに、細々とした器具や消耗品を準備した。被検者になってくれる人へのお土産も、消しゴムや鉛筆、それに手伝ってくれる人へのお礼の品など、ダンボール1箱が一杯になるほど用意した。最も重量がかさんだのがテレメータ装置と4チャンネル心電図用記録器である。これらは時価400万円の品物であり、借り物でもあった。これらの機材のメキシコへの持ち込みについて、詳細なリストをメキシコ大使館に提出した。ベラスケスさんは、2回にわたって特別許可申請のテレックスを本国政府あて打電してくれた。
10月31日、メキシコへの出発当日には、メキシコ大使館に行き、メキシコ国家科学技術会議(CONACYT)宛に発信された特別許可申請のテレックスのコピーを受領して成田空港に向かった。成田空港から私と一緒の飛行機で運搬する荷物は、スーツケースの他に、大型段ボール箱3箱(総重量100kg)となった。航空機は、バンクーバー経由メキシコシティー行きの日本航空であった。あらかじめ、日本航空本社に出向き、研究の趣旨を説明し、協力をお願いしてあったので空港では、超過料金を取らずに運搬してくれた。現在では、日本からメキシコまでの直行便は飛んでいない。この頃は1週間に3便の直行便があった。
1976~78年にアメリカに留学する前には、メキシコという国に対して、何の知識も関心もなかった。カリフォルニアに住んでみると、黒髪でやや肌色が濃いメキシコ系とわかる人々の姿が非常に多いことに気づく。町を歩くと、メキシコ人たちの行き交う姿や、黙々と働く姿をよく見ることが出来る。随所にスペイン語風の通りの名前や店の看板なども目に付く。それもそのはず、カリフォルニアは、かつてはメキシコの国土に属していた。アメリカの天然資源の宝庫といわれるテキサス、アリゾナ、ニューメキシコの各州もかつてはメキシコの国土であった。アメリカはこれらの国土をメキシコから割譲した歴史をもっている。メキシコに対する関心の高まりは、留学先で、フランシスコ・ディアスと出会ったことが、大きなきっかけである。私が環境ストレス研究所に留学していた時期の外国人は、メキシコ人の医学博士である31歳のフランシスコと私の2人だけであった。フランシスコは、家族5人連れで、いきなりアメリカ社会に踏み込んでいささか戸惑い気味の私に対して、とても親切な男だった。彼は、当初英語が不自由な私の代弁者になってくれた。アメリカの人々が理解困難な、私のつたない英語を、不思議なほどよく理解してくれた。フランシスコは、「英語が良くわからないもの同士は、サイコロジカル(心理的)なものでわかるんだよ」といってくれた。フランシスコの猛勉強振りには目を見張るものがあった。アメリカ人のポストドクター研究員達も、フランシスコの学問的知識の深さや、文献的研究能力の高さには、一目も2目もおいているようであった。
こんなフランシスコにも、時々ひどくしょげ返った表情をしている時があった。そんな時、彼はいろいろなことを語ってくれた。
「アメリカ人はメキシコ人を馬鹿にしている。僕がこの研究所に来た時は、英語が全く下手であった理由もあるが、挨拶をしても応えてくれず、無視する態度を示した。だれも口を利いてくれなかった。君は積極的に、研究所の人たちに溶け込もうとして努力して、それが成功している。しかし、僕の場合は、溶け込もうとしても、お前はメキシコ人じゃないか、という眼で見られ、露骨にいやな態度をされて辛かった。君が来る前の僕は、研究所で唯一安らぎを感じるときといったら、ジロー(豊岡示朗氏のこと)と一緒に海岸や道路をジョギングする時だけだった。君は、はじめから皆と仲良くやっている。君は非常に幸福な男だ」。
フランシスコは、いかにアメリカという国がメキシコに対して横暴に振舞っているか、メキシコ人に対してどんな目で見ているのか、そして、如何にメキシコ人を利用しているのか、ということを話してくれた。フランシスコは、私が質問しなければ、進んでこういった話はしなかったが、フランシスコという人柄にも触れて、メキシコ人の苦しみ、貧しさ、そして我々日本人とはかなり違っている時間感覚や金銭感覚、処世観などに興味をそそられると共に、メキシコの古代文化の素晴らしさを知るようになり、いつかメキシコを訪れてみたいと思うようになっていた。フランシスコとは、協同実験を組みながら研究を進めるうち、肝胆相照らすなかとなり、お互いに敬愛の気持ちを持った良き理解者となった。1978年7月、フランシスコと私は留学期間を終えてそれぞれの国に帰ることになった。帰国に際しては、きっといつか再会し、また協同研究をやろうということを硬く約束した。フランシスコとの協同研究のチャンスは、日本学術振興会のお陰で思いのほか早い段階で実現することになった。
メキシコに到着
メキシコ空港につくと、フランシスコが税関の待合室に入ってきて、「カンドー」と呼んだ。「オー! フランシスコ」、我々は2年ぶりの再会を喜んだ。フランシスコは少しやつれているようだった。大きな体のローサス教授も税関の待合室の片隅で待機していてくれ、通関手続きも約1時間で無事終了した。通関手続き後、税関長が我々をわざわざ案内して、税関の外に誘導してくれた。当時、メキシコは、電気製品および機械類の国内持ち込みには、特に厳しい体制をしいていた。今回運搬したような外国製品の機械類のメキシコへの持ち込みは、通常では、ほとんど不可能に近いということであった。
グァナファト大学側もメキシコ政府の特別許可書を準備してくれていた。しかし、今から思うとローサス教授は、税関長にもかなりな心づけを渡していたに違いなかった。
11月3日、ローサス教授は仕事場である労働科学研究所へ私を連れて出勤した。研究所はレオン市庁を囲むセントロ広場のすぐ近くの6階建てのビルの5階にあった。入り口の壁には「INSTITUTE DE INVESTIGACION SORBRE TRABAJO U.DE GTO」という看板が掲げられていた。研究所は、所長室、図書室兼会議室、診察室、中実験室(2部屋)、小実験室(3部屋)、血液分析室、研究個室(5部屋)という比較的小規模なものであった。各部屋の扉の上には、「コンピュータ室」「エレクトロニクス室」「生化学分析室」「心理学」「社会学」「診察室」といった室名が掲げられていた 。
この研究所は、近年ローサス教授がグァナファト大学医学部から独立して設立させたばかりであるという。従って実験設備はまだ整っておらず、旧式のアメリカ製トレッドミル1台、多用途監視記録装置1台(アメリカ製)、支柱部分の破損した大型換気量測定器(パーキンソン・コーワン社製)、小型オシロスコープ1台、といったところだった。しかし、働く人の健康管理に関することを行うことがこの研究所のこれまでの主な仕事なので、診察台や、身長計、体重計、血圧計、簡単な血液検査の装置を備えていた。ローサス教授は、ひとつひとつの部屋の室名を読み上げて、ドアをいきおい良く内側に押し開く動作を繰り返し、机も椅子もないがらんどうのコンピュータ室や、エレクトロニクス室、その他の実験室を案内し、「どうだ、この研究所は世界一良いだろう」とユーモアとも言えないせりふを大声でいった。ローサス教授の夢は、室名のみに描かれていた。メキシコからの受諾が遅かったのは、この研究所が日本との国際的共同研究を行うことをCONACYTがなかなか許可しなかったためであることをのちに知った。
必要な実験機材は日本から運搬したものを使えばよいので、心配はなかった。あとは研究計画の練り直しとそれをどう実行するかである。「メキシカン・ジョーク」とも言うものなのだろうか、何が真実で何がジョークなのか全く予測がつかない。そしてそれぞれに、どう応え、どう行動してゆくべきなのかといった、頭がくらくらするような異以次の社会で対処することが、この研究を進める上でのキーポイントのような気がした。
グァナファト大学側との研究の打ち合わせは、事前に行われることなく、すべて現地で検討することにしていた。ローサス教授には、私の考える研究計画案を送付してあったので、教授は研究が実現できるように各方面に手配を行っていてくれた。レオン市長、教育長、教育委員会の協力を得るための準備もなされていた。私の研究計画とは、「6歳から18歳までの男女児童生徒の最大酸素摂取量をはかること。社会経済的な影響が最大酸素摂取量にどのように影響するか。都市と農村など、住居・生活環境を調査し、それらと体格・体力の関係をとらえること。」といった内容であった。
ローサス教授は、「フランシスコは君が来ることがわかっていながら何準備もしていないのだ」ということを繰り返した。ローサス教授とフランシスコとの間には何か深い溝が横たわっているような気がした。ここで再会したフランシスコの日常にはカリフォルニア大学当時の張り切った姿はなく、いかにも苦悩に満ちた日々を感じさせた。サンタバーバラのホーバス教授から「フランシスコは君の助けが必要のようである」という文面の手紙も戴いていた。カリフォルニア大学から帰国する時、フランシスコはグァナファト大学の医学部教授として帰るのだと胸を張っていた。しかし、現在のフランシスコの苦悩は、大学の地位が非常勤のような立場になっており、研究所での給料も他のスタッフと分け合ってもらうという不安定なものであることに起因していた。研究所では、人件費の支払いに苦慮している面が見られていた。しばらくすると、私が予想していた通り、ローサス教授からもっとも困難な問題として提示されたのが研究費のことだった。このような実験研究は、創設して間もない労働科学研究所ではこれまで行われたことはなく、定まった研究費はなく、スタッフとなる人の給料も身分雇用も極めて不安定であるということであった。
研究費の問題を除けは、調査、実験の計画はメキシコ出発前の私の予想を上回る大規模なものに膨らませることの可能性が見えてきた。そこで、研究規模を約3倍に大きくして、現地の雰囲気にあわせた計画に変更した。フランシスコはこの計画に非常な意欲を見せ、研究生であるロサリオ・コネホ嬢を助手として、3人が一体となって、実際的な研究の遂行にあたることになった。
レオン市に到着して、実験の最初の被検者を得るまでにはおおよそ次のような過程をたどった。
11月3日:実験器具の整備と設置。4日:必要な薬品の購入。5日:レオン市長に挨拶。夜、教育委員会で説明(レオン市の教育委員30名と教育長が出席)。6日:研究所にあった換気量計の修理とキャリブレーション。夜、今回の研究にかかる費用についての打ち合わせ会(ローサス教授から研究費や人件費が全くなく、大学本部から捻出してもらうように申請中であるが、どうなるかは分からないと説明あり)。7日:研究計画書の作成。8日:研究スタッフにデモンストレーションの実験。10日:日程の打ち合わせ。夜、教育委員会で第2回目の会議。(研究に協力するとの回答を得た)。12日:研究スタッフとの打ち合わせ会。(研究費が出ないので、スタッフは有給にならないとの説明がローサス教授から長々とあり、暗い雰囲気に終始する)。13日:暗い雰囲気を打破し、研究の実行を可能にするため、ローサス教授に15万円の寄附を申し出て、その場で現金(日本円)を手渡す。(1ペソ10円であったので、現地では150万円の価値があった)。午後、第1回目の学校(小学校、中学校)訪問。17日:市民への講演会を行い、「日本人の体力について」と題して講演。19日:グァナファト市にあるグァナファト大学で学長に会見。席上、15万円の寄附が行われたことが高く評価され、グァナファト大学もそれに答える努力をすることが明らかにされた。24日:レオン市長に会見。被検者の移動に、野戦用救急車を配車すること、被検者に昼食を支給することの約束を確認し、謝辞を述べた。新聞記者が多数参加し、写真カメラのフラッシュがまぶしかった。12月2日:最初の被検者が救急車に乗って研究所に到着。15名の予定が、実際に来たのは5名のみであった。ともかく、この日から実験は開始された。
今回、私がメキシコに派遣された日本学術振興会の派遣目的は「人物交流」であり、実験研究が目的ではなかった。したがって、研究費は全く考えられていなかった。メキシコ側は、私の滞在費として、ホテル代、食費を支給してくれた。それらの費用は、グァナファト大学に支払われる。私は、メキシコ側から研究費が全く得られなくても実験が可能なように資金的準備はしておいた。15万円の寄附は、2段構え、3段構えのうちの第1段階のつもりであったが、グァナファト大学から研究費の提供も得られたので、比較的余裕を持って研究を進めることが出来た。グァナファト大学は、スタッフの人件費2名分、消耗品、および呼気ガスサンプル採取用の注射器(100ml用)40本をはじめとする機材費を負担した。私は、研究活動費として、研究所に対する寄付金15万円(14,250ペソス)、のほか、被検者に対する記念品または謝金、実験補助のボランティアに対する謝金、交際費などを負担した。レオン市長から提供される昼食は、低所得階層の被検者に対するパンとマンゴジュースであった。
届かぬ荷物をもとめて
12月2日から開始された実験では、航空機で運搬した機材を用いてかろうじて進めることが出来たが、もっと大人数を測定するためには、あらかじめ船便で郵送した機材が届かなければ不可能であった。7月2日に発送しているにもかかわらず、5ヶ月間が経過しても届かないのは、行方不明になっているのに違いなかった。日本の郵便局に問い合わせると、7月2日に発送された郵便荷物は、岩手丸か出雲丸に積み込まれ、横浜港か神戸港を出航し、8月25日、9月5日、または9月23日のいずれかに、アカプルコに入港しているはずであるという。レオン市の郵便局でいろいろ調べてもらったが、皆目その所在はわからなかった。日本からのアカプルコに入った荷物は、アカプルコの税関を通るはずなので、まだアカプルコにとどまっているに違いないと考えた。
ローサス教授は、「アカプルコには大学に出入りしている業者の代理店があるから、その人にアカプルコ税関に行ってもらう。荷物は容易に手に入ると思う」と楽観的だった。しかし、代理店の人が税関に行ってくれたが、全く要領を得ない、ということであった。
そこで、CONACYT発行の輸入関税免除申請書を持って、アカプルコの税関に行くことが良いだろうということになり、CONACYTに申請書の依頼を行った。CONACYTは、グァナファト大学学長の依頼書と我々の依頼書、および内容証明書が必要である旨を教えてくれた。これらの書類を準備して提出したところ、内容証明に玩具が抜けていることの指摘を受け、再度提出した。この書類の行き来には、メキシコシティーで医学博士課程の勉強をしているセルヒヨが、夜行バスを使いながら、CONACYTのあるメキシコシティーとレオン(片道6時間)の間を往復してくれた。また、アカプルコの税関宛、郵送された荷物は研究上必要なものであるという、裁判所発行の証明書も整えられた。
私とフランシスコは、書類を携えてメキシコシティーからアカプルコに飛んだ。これでやっと荷物が手に入るという期待でいっぱいだった。アカプルコについて荷物を運ぶためのレンタカーを借りてアカプルコ税関につくと、職員らしい男は、胸をはだけて玉のような汗をかいていた。5人ほどの職員が働いていたが、さほど動きが見られるようでもなかった。一人の男に書類を見せ、荷物の所在を尋ねると、簡単に書類の摺りを見て、「ない」と無表情に言った。「ない? そんなはずはない。」私は、船の名前を言って、「確かにここについているはずですが」と、やや語気を強めて言うと、その男は、「ちょっと待ってくれ」と言ってその場を離れ、そのまま我々の前には現れなかった。
フランシスコは、そんなに気色ばんではいけないよ、といった注意を私に与えた。別の男が来て舟の到着を示す書類を示してくれた。書類を丹念に調べてくれて、「イズモマルは、8月27日に到着しているが、この荷物は直接メキシコシティーに行くので我々には関係ない。それに、メキシコシティー行きの荷物は、すべてメキシコシティーの税関に送られるので、アカプルコの税関は通らない。また船番号の末尾が5となるものはメキシコシティーに送られる」と説明してくれた。
日本から郵送した荷物はグァナファト州レオン市であるから、当然メキシコシティー行きとは異なっている。しかし、何かの理由でメキシコシティーの税関に送られた可能性が出てきた。
私とフランシスコは、アカプルコの税関職員の説明には、半信半疑であった。「どうする」とフランシスコは私に尋ねた。「すぐメキシコシティーへ帰ろう。何か手がかりがつかめるかもしれない。」口惜しさで胸がいっぱいだった。我々は口には出さなかったが、荷物を受け取ってアカプルコで気分良く1泊し、翌日レオンに帰ろうとお互いに思っていた。
メキシコシティーの郵便税関の住所を教えてもらい、2人は空港にとって返した。海浜でくつろぐ人々の姿が羨ましかった。空港には、アメリカの観光客が多く、日本人の家族連れの姿も見られた。
メキシコシティーの郵便税関はわかりにくいところにあった。もう夕方の6時近くになってしまっていたが、そこには大勢の人々が働いていた。係りの人に事情をはなすと、「明日、セニョール00に話をすると良い」と教えてくれた。その夜は、メキシコ人が最も信仰する聖母グアダルーペのお祭りの日をひかえて、夜12時頃までいろいろホテルを訪ねてみたがどこのホテルも満室だった。結局セルヒヨの狭いアパートで3人雑魚寝のようにして眠りについた。
翌朝9時までに郵便税関にいき、セニョール00に会って事情を話したところ、セニョールは窓口の係りの老職員に何かを指示した。品の良い老職員は、帳簿をしばらく調べてみて、
Kando Kobayashi,Madero 112-513 Santa Clara, Mexico
と書かれた私の名前を見つけ出した。住所は、いつの間にか、レオン市から、メキシコ市サンタクララに変わっている。「この荷物がどこにあるか調べてみる」ということで、1時間ほど待つと、若い職員が荷物はここの倉庫にある、といってくれた。早速引き取りの手続きを開始することになったが老職員の荷物確認にさらに1時間かかった。老職員の示した用紙をもって、荷物受け渡しカウンターにそれを提出すると、背の低い職員は帳簿を開き、帳簿を激しく伏せて「ここにはないよ」といった。老職員のところに戻って「ないと言われた」と告げると、老職員がもう一度カウンターのところについてきてくれた。老職員ともう一人の職員が税関倉庫の中に入って調べること約1時間。ようやくその荷物の存在を確認した。この荷物を引き受けるのには、局内の3人の責任者のサインが必要であった。カウンター前でさらに1時間半ほど待っていると、黄色い葉書をもらった。
「Kando Kobayasche :Madero 112 Santa Clara,Mexico」と住所が書いてあり、名前も苗字がスペイン語ふうに書き換えられていた。
荷物が届いた時にこの葉書を出したが受取人不明で戻ってきたということであった。名前も違えば住所も全く違う。こんな葉書が届くはずがなかった。
グァナファト大学やCONACYTからの通関依頼状を提出したが、「アカプルコ郵便税関長宛」となっており、宛先が異なるので受け取れない。「メキシコ郵便税関長宛」に書き直してくるようにということであった。ここまでの指示を受けるのに6時間かかった。翌日には実験が控えていたので、メキシコシティーからレオン市まで飛行機で帰った。
大学からの書類が4日後に得られたので、12月15日、午前1時発のバスでフランシスコと共に再びメキシコシティーに向かった。所要時間は6時間で深夜のメキシコシティー行きのバスは満席であった。午前9時から、メキシコシティー郵便税関での手続きを開始したが、必要な窓口が多く、その一つ一つに時間がかかるので、午後3時になっても終わらず、結局その日の窓口業務は終了してしまった。翌12月16日にも、午前9時から昨日の続きをおこない、筋力計など数点に関税がかけられた。関税免除の申請は受け入れられなかった。その支払いを済ませ、昼頃にようやく荷物を手に入れることが出来た。
荷物を受け取る時、受け渡しカウンターの背の低い職員は、「ユー・アー・ラッキー」と英語で言葉をかけた。何がラッキーなものか。ひどい目にあってしまった。これがラッキーだというなら、おそらく行方不明になったままの荷物が数多く倉庫に眠っているに違いなかった。倉庫に眠っている荷物は6ヶ月経過後に発送先に送り戻すか、法的手続きを経て処分するのだそうだ。
私の郵送した荷物は、8月に到着しているのだから、そろそろ処分の対象にされていたかもしれない。
今回の問題は、郵便局員の先入観で、住所が変えられてしまったことによる。普通は郵便荷物に貼り付けられた住所は見ないで、番号で処理される。番号と住所、宛名を書いた登録台帳が作られ、この台帳が間違って作られると、いかに正しく住所氏名を書いて箱に貼り付けていても台帳と荷物を照合させなければわからない。今回は、荷物には正しい住所が書いてあったにもかかわらず、台帳では、グァナファト州、レオン市が省略され、国名として書いたMEXICOが、「メキシコ市」と台帳に記入されてしまった。通りの名前はマデロ通りであったが、日本では栄町といったようなどこにでもある名前なので、メキシコ市のマデロ通りはサンタクララ地区にあるので、葉書の住所は、「マデロ、サンタクララ、メキシコ市」というように勝手に変わってしまっていた。封書や葉書の場合には、局員が直接発信人の書いた宛先を読むので正確に配達されるが、局員が書き写した台帳をもとに配達が行われると、今回のようなとんでもないことが起こる。長い住所は、むしろ略称を用いたほうが良かったのである。
ともあれ、やっと手にした荷物を 郵便税関の前に積んで待っていると、セルヒヨが女友達の赤色の大型自動車を運転して迎えに来てくれた。荷物をバスターミナルまで運び、午後1時発のバスに乗り込み、7時過ぎにレオン市の研究所までもどってきた。この日、夜8時半からは、夜間中学での実験説明会を予定しており、すぐに準備に取り掛からなければならなかった。心は張り切っていた。
航空輸送費を節約する目的で、郵便小包にして器材を送ったことは、結果として多くの複雑な手続きと時間と費用を必要とすることになってしまった。この点では明らかに失敗であった。しかし、届かない荷物を求めて、いろいろな苦労を重ねるうちに、メキシコの友人達のお互いを助け合う精神の深さに強く接することが出来たように思う。
12月2日から開始された測定であるが、毎日15名の実験予定が最初の1週間は1日に2名から8名しか研究所に集まらず、合計26名であった。第2週目は12名、第3週は31名。第4週目はクリスマスの週に当たり、わずかに7名であった。第5週は、年末年始にかかったが、実験は12月31日午後も続けられた。この週には農村地区の子どもたちが25名訪れて測定をうけた。
新年を迎えた昭和56年(1981年)は、1月5日から測定は開始されたが、軌道に乗ったのは1月7日からで、この日22名を測定し、以後連日20名近くの被検者が訪れ、帰国日が迫った1月中旬には被検者になる希望者が研究所を訪れても、断らなければならないほどに希望者が大勢になった。
被検者数が1月になって増加し、本来の計画を上回ることになった最大の理由は、多くの人がこの実験研究の意義を理解し、興味を引いたことによる。保護者の理解を深めた理由には、現地の新聞が、この研究や私について写真入で機会あるごとに報道してくれたことによる影響が大きい。また、子どもたち自身には、記念品として学用品やプラモデルが大きな動機付けになった。おもちゃをもらうことが楽しみで、トレッドミルの上を懸命に走った子どもも多い。1ヶ月以前に被検者数が思うように得られなかった理由には、採血することに拒否反応が大きかった。また、低所得層の子どもたちから測定を開始したため、保護者の協力がなかなか得にくい状況にあったことも原因している。協力が得にくいと考えられる上流富裕階層の保護者には、充分な理解が行き届いたところで協力をお願いすることになっていた。
病気の少年
マヌエル・ドブラド小学校は、レオン市のうちでも特に低所得階層が集まっているサンタクララ地区にある。測定が始まって3週間たった1月6日、18人の級友とともに、野戦用救急車に乗って、研究所まで測定を受けに来たなかの一人にホセ少年がいた。
研究所に到着して名簿リストを作り、前肘静脈から採血が終わると、子どもたちは運動靴には着替え、ランニングパンツをはき、血圧測定と胸部打診をうける。身体計測は、身長、体重、頭囲、腹囲、上腕囲、大腿囲、下腿囲、という順で計測され、さらに上肢長、下肢長、胸部前後径、皮下脂肪厚(上腕背側、背中、腹部)の測定を受ける。身体計測が終わると、握力を測定する。「マクシマ フェルテ」(思い切り力をこめて)、と握力計の握り手を握らせる。「トドス トドス、 トドス」(全部、全部、・・・・)といって、彼等を励ます。
子どもたちは、今までこのような測定を受けたことがないので、はじめはためらいがちであるが、直ぐに要領を覚えて力を発揮するようになる。その後、心電図用の電極を胸に絆創膏を用いて装着し、心電図テレメータ送信機をバンドで腰部に取り付けると、いよいよランニングテストの準備完了ということになる。トレッドミルの上で走るという準備が進められる頃になると、何人かの子どもは、腹痛を訴えたり、身体の不調を訴えたりすることがある。実験室での機械を前にしたテストに対して、恐怖感を持つと同時にとても不安な気持ちになるのであろう。
ホセ少年も身体計測を行なっているうちに、腹痛を訴えた少年のひとりであった。そして彼は「走りたくない」といってトレッドミルテストを拒絶した。フランシスコは、もう一度彼を打診すると共に、少年の腹部に手を当てて診察した。特に腹部に異常は認められないという。しかし、少年はそれでも走りたくないという態度を示した。フランシスコは、通常そんな少年に対して、何とか上手に不安材料を取り除いて励まし、少年達に走る勇気を湧きたたせる。しかし、この日のフランシスコは、ホセ少年に対して「走りたくなかったら、走らなくてもいいよ」と伝えた。彼は少年に対してやや慎重な態度であることが伺われた。ホセ少年はこの日、トレッドミル上を走る測定をおこなわずに帰宅した。それから2日後であった。マヌエル・ドブラド小学校の他の児童達と一緒に、ホセ少年は再び研究所にやってきた。しかし、このとき、ホセ少年は母親に付き添われていた。母親は、フランシスコに「子どもの様子がとても変です。妙に腹痛を訴えて、2日間苦しみ通しなのです。」と説明した。
フランシスコは、少年の様態が緊急事態であることを直ぐに見抜いた。虫垂炎の手遅れの状態であると判断した。実験どころではない。フランシスコはこの研究室と同じビルディングの2階にあるドクトル・ガルシアの救急医院に、ホセ少年を直ちに送り込む手配をした。「少年は、危ない状態にあるから・・・・」とフランシスコは小声で私に説明した。
この実験を手伝うために、フランシスコの医学部での教え子であるセルヒヨ(医師)が研究所にあらわれた。フランシスコはセルヒヨを見かけるなり「すぐ、ドクトル・ガルシアのところへ行って、少年の手術を手伝ってくれ」と伝えた。ホセ少年は、すぐさまセルヒヨやフランシスコにつれられて、2階の医院に運ばれ、20分後には手術が開始された。セルヒヨはその医院の医師ではないにもかかわらず、手術室での執刀に当たった。1時間後には手術は終了した。実に素早い処置であった。我々は、少年が医院に送り込まれ、手術が開始される頃に、やっと測定を開始することが出来た。
夕方、フランシスコ、セルヒヨ、私の3人は、ホセ少年の病室を見舞った。病室には少年の両親がいかにも心配顔で、ベッドの脇に付き添っていた。酸素吸入のチューブを鼻につけ、点滴用の注射針を前肘にさして横たわっている少年に近づき、フランシスコは何やら少年に語りかけながら少年の体の様子を診察した。
少年の家庭は貧しい。父親は文盲で1ヶ月の収入は4000ペソス(約4万円)以下だった。母親も文盲で、13歳の娘を頭に8人の子どもがあった。父親がフランシスコや私たちを見る目は、憂いの色に満ち満ちていた。我々が見舞いの言葉をのべて立ち去ろうとする時「グラシアス」(ありがとうございます)と、感謝の涙をたたえるような表情で、3人の顔を一人一人見つめた。母親は無言で頭を下げた。
この体力測定の実験を通して、母親はホセ少年の容態を相談するのにフランシスコ医博を頼ったのだ。この実験研究を行うことの目的の一つとして、子どもたちの健康状態を診断するということが、被検者の保護者にも伝えられてあった。
我々3人は、病室を出ると、院長であるドクトル・ホセ・ガルシアに面会した。ガルシア院長はがっしりとした体つきをした、とても貫禄のある中年の紳士であった。院長は、我々と握手すると、「シエンテセ、シエンテセ」(どうぞお座りください)と、椅子を勧めてくれた。フランシスコは、ホセ少年の病状や支払いについて、院長と短い会話をした。私には、2人の会話の内容はよく理解できなかった。ビルディングを出ると外はもう薄暗かった。街路樹に、クリスマスのために取り付けた電機のイルミネーションが、まだ美しく灯されていた。
「ドクトル・ガルシアは、あの少年の手術代は要らないといっていたよ」とフランシスコは私に説明した。フランシスコは、少年の貧しい家庭の事情を、すでに院長に話していたのであろう。フランシスコは、「大学から、何とか医薬品を工面してこなくちゃならないな」とも言った。フランシスコは、あの少年のために、必要な医薬品を工面して、両親の負担を少しでも軽減してやろうと考えているのだ。
この体力測定の実験を通して、一人の少年の命を救うことが出来たことに、フランシスコは少なからず誇りを感じていた。フランシスコは、貧しいものを助け、苦しんでいる人々の苦しみを軽減させようとする、医者としての責任感を強く持っているようだった。貧困ということのために、医者に相談することをためらい、病気が手遅れの状態に進行し、生命を失う人も数多くいるに違いない。この日、フランシスコがとても偉大な男であるように思えた。そして、あのドクトル・ガルシアの威厳に満ちた顔の奥に、貧しき民に対する大きな包容力のある心を思い浮かべ、心が洗われる思いがした。メキシコには医者の仁術という哲学が生きているのだ、とも感じた。
この国の医療制度は、一体どのようになっているのだろう。あまりにも貧しい人々は、公的機関の病院で治療を受けることが出来る。このとき、患者側に支払能力が無い場合は、ソーシャルワーカーが、患者の家庭を訪問し、その経済状態を調査し、経済的能力に従って、医療費の減額や免除が行われる。また、開業医がそのような患者を扱った場合には、税金の申告の際、その事実を申告すれば、その分だけ税金が控除されるということであった。
事故の発生
ショランダー微量ガス分析器でガス分析をしているとき、隣のトレッドミルの部屋から子どもの泣き声が聞こえた。私は、この日からトレッドミルの測定室を離れて、実験の開始と併行して呼気ガス分析を行うことにしたところだ。検者になった人もだんだんと測定のテクニックに慣れてきたし、20名の被検者をこなすには、採取した呼気ガスを速やかに分析しないと、サンプル用のシリンダが足りなくなる。子どもの泣き声は激しかった。「カンドー カンドー」一人の子どもが血相を変えて私を呼びにきた。すぐに隣室に行ってみると、どうしたことだ。小さな女の子がトレッドミルのベルトとその後方の鉄枠との間に、手首から前腕を巻き込まれているではないか。フランシスコとセルヒヨが必死になって、トレッドミルのベルトを張っているドラムの位置を緩めようと、ボルトを回していた。しかし、ベルトを緩めるとかえって強く手首が挟まれるような具合であった。私はすぐに手首が挟まれた子どもを腕の中に抱え、挟まれた腕が少しでも楽な位置になるように、子どもの姿勢をかえた。「棒、棒をもってこい」と叫んだ。実験室の片隅にあった木の切れ端を手首が挟まった隙間に突っ込んで、ベルトを張っているドラムがこちらへ来るのを防いだ。しかし、効果はなかった。フランシスコがすぐにやや長い木の切れ端と鉄パイプを持ってきた。これを隙間に入れて、今度は力いっぱいにテコ作用で子どもの手首の挟まれた隙間を押し開くようにした。隙間はやや開いたが、手首は抜けない。気転のきくロサリオが石鹸水を持ってきて、腕の部分にかけてすべりをよくした。5分もしないうちに、子どもの腕をその隙間から抜くことが出来た。子どもの腕をそっと触ってみた。骨折が心配であった。幸い、手首の内側の部分が、5センチほど赤く皮がむけただけで済んだようだ。
こんな事故ははじめてであった。このトレッドミルを最初に一目見たときから、少し危険な感じを持っていた。あまりにも旧式なアメリカ製のものだ。安全装置について、全く配慮がなされていなかった。この日の被検者は、近郊農村地区から着た20人の女の子達である。12人の測定を終えて、13人目が8歳の子であった。女の子たちは、トレッドミルの周りに集まって、「チアー」(大勢で声を揃えての声援)を行いながらトレッドミル上を走る被検者を調子よく応援していた。
トレッドミル上の測定は、一人につき10分以上必要とするから、13人目にかかった時は、実験開始から2時間30分を経過している。トレッドミルを運転する場合には、そのことに対する神経の集中が要求される。このときの運転者は、空腹のためパンをかじりながら運転を続けていた。ベルト上を走る時は、安全を確保するように走者のすぐ後ろに補助者をつけ、たとえ走者がバランスを失っても転倒しないように配慮してある。13人目の走者の補助者は、走者の姉であった。通常は検者の一人が補助者となるのであるが、このときに限って被検者としてきていた15歳の姉がその役に当たっていた。
ベルト上を走っている妹が、何かの弾みでバランスを失った。このとき、姉は上手に抱きかかえるようにして妹が転倒するのを防いだ。トレッドミルの運転者も走者がバランスを失った時、すぐにモーターのスイッチを停止側に切り替えて、トレッドミルを停止させた。しかし、次の瞬間が良くなかった。何かの弾みで、運転者は再びスイッチを運転側に切り替えてしまった。日本で用いているトレッドミルは、一旦スイッチを切ると、スピードがゼロになり、再びスイッチを入れると、スピードがゼロの状態から増速度ボタンを押さなければ元のスピードには戻らない。ここのトレッドミルは、一旦スイッチを切っても、再びスイッチ・オンにすると、いきなり元のスピードで回転が始まるのだ。こうして、一旦停止したトレッドミルの回転ベルトが、次の瞬間いきなり動き出したのだからたまらない。せっかく上手に補助した姉は体のバランスを失い、妹は転倒して手と腕をベルトに巻き込まれてしまったのだった。
事故は研究者にとって、最も注意しなければならないことだ。事故を予防するために、我々は細心の注意を払ってきている。日本では、それまでに5,000回を超えるほど最大酸素摂取量を測定してきたが、1件の事故も起こすことなく今日までやってきた。しかし、メキシコに来て事故を起こすとは! これは大変なことだ。
自分が現場にいなかったこと、そして実験に慣れていない検者の側に、実験というものは、神経の集中と最新の注意とが必要であることを、繰り返し充分徹底できていなかったことに事故の原因がある。
幸い子どものケガは小さくて済んだ。しかし、実験室の雰囲気はいっぺんに重く沈んだものになってしまった。(この場の雰囲気を何とか持ち直さなければならない)。
事故にあった子どもの姉は、悲しそうな顔をしている。「姉がしっかりサポートしていなかったからだよ」と、フランシスコは言った。(馬鹿を行ってはいけない。姉に責任をかぶせてはいけない)。
「ヨー、ノー」(わたしはいやよ)
といって、せっかく胸に貼り付けた心電図用の電極を自分ではがしてしまう子もいた。
私は、子どもたちをトレッドミルの部屋から隣の部屋に移し、手首が挟まれた鉄枠とベルトとも空間を少しでも小さくするように、鉄枠にクッション製のテープをぐるぐる巻きつけた。なにかしなければ、子どもたちを心理的に安心させることは出来ない。このテープがどれだけ効果を持つかわからないが、少なくとも鉄枠がむき出しよりは良いであろう。次に、ビルディングから飛び出して、道路の向かい側にあるキャンディーショップにチョコレートを買いに走った。1個60円相当のチョコレートを30個買ってきて子どもたちに配った。手を挟まれた子には2つ握らせた。多くの場合、事故が生じたとき、実際的な傷の有無よりは、精神的なショックのほうが大きい。だから、少しでも精神的なショックを和らげる方法を講じなくてはならない。そのためには甘味が必要なのだ。
子どもたちの生活調査の中で、チョコレートが好きだ、と書いてあったことが直ぐに頭に浮かんだのだった。チョコレートを1個、私も口に含んでみた。猛烈ともいえる甘さが、舌から顎に伝わってきた。チョコレートを食べると、子どもたちが機嫌を取り戻したようだった。気の強い子どもが「わたし、走るわ」、といってくれたのには助かった。
彼女は、トレッドミル上を元気よく走った。このことで、次々に走る子どもが出て、事故にあった子どもまでが「走る」といってくれて、彼女は走った。私は、神に祈る気持ちで、彼女が走ってくれたことに感謝した。彼女は、小さな身体で精一杯走った。そして、姉も走ってくれた。「ありがとう、ありがとう」。私は彼女たちに心から感謝した。強い、立派な心の持ち主の彼女たちだ。根性があるという言葉は適切ではないが、メキシコの子どもたちの心の芯の強さに、心を打たれた。
実験が終わると、皆に日本から持ってきたプレゼントをあげることになっている。まんがつきのプラスチック消しゴム、鉛筆、自動車や飛行機のプラモデルなどで、欲しいものを選択する。彼女たちは、プレセントを心から喜んでくれた。事故にあった子には、プレセントを2倍にした。姉さんにはこれらのプレゼントを渡すとき、「あの事故が起こったことをお詫びします。そして、あなたの実験に対する協力に心から感謝します」とお礼の言葉を述べ、ピンク色の絹のスカーフもプレゼントに加えた。姉は、ただうなずいて、受け取った。私は、今日の実験で採集した呼気ガスを、これから数時間かけて分析しなければならなかった。フランシスコとロサリオは、子どもたちを農村へ送り、被検者となった子どもたちの家を一軒一軒まわり、今日の帰りが遅くなった理由を報告した。事故にあった女の子の家に行き、よく説明して両親の許しを願った。両親は、「事故は時として起こるものだ。大したことでなく良かった。気にしないでいい。」といってくれたという。
夕方、6時過ぎても子どもたちが帰ってこないことを農村の家々では心配していた。農村地区の被検者集めの世話役をやってくれたセバスチャンが、よく皆に事情を説明してくれ、彼の説明で多くの親達が納得してくれたという。
大統領府での会議
ローサス教授は、日本学術振興会とメキシコ国家科学技術会議(CONACYT)の合意の下に派遣された日本からの研究者をグァナファト大学が受け入れ、共同研究を行っているという実績に関連させて、「メキシコ国民の体力づくりプロジェクト」をメキシコ政府に提案し、これをグァナファト大学労働科学研究所が中心となって推し進めることを立案した。プロジェクトに必要な予算は約200万ペソス(2000万円)で、これをメキシコ政府の特別予算から出資してもらおうという計画である。これは、私のグァナファト大学受け入れ受諾が決まった時期から計画され始めたもので、提案書は、A4版の用紙に50枚程度にまとめられていた。12月8日には、これまでの下準備が整い、いよいよ国立宮殿でメキシコ政府関係高官との会議を持つことになった。この会議には、プロジェクト申請側としてグァナファト大学総務局長ベニト氏、ローサス教授、労働科学研究所所員7名(顧問を含む)、私のほか、このプロジェクトを背後から応援してもらうという意味で、アメリカからコロンビアの子どもの研究で有名なスプール教授、テネシー大学のズラテリー教授、アラバマ大学からニーダーマイヤー教授が招待され、申請者側に加わった。会議には、政府側からこの方面の最高責任者3名を含む8名が出席した。
ローサス教授は、この会議に出席する朝、身震いがするというジェスチャーをして見せた。メキシコの大統領といえば、日本では天皇と総理大臣を兼ね備えているのではないかと思わせるほどの存在である。会議が始まると、ローサス教授はグァナファト大学側の出席者を一人一人紹介したあと、プロジェクトの目的などを含めた提案理由の説明を行った。説明の中で、ローサス教授はスライドの映写をおこなった。このスライドは、研究所の全景、トレッドミルの上を歩くおとなの姿、テレメータ用心電図電極をつけてトレッドミル上を走る子どもの姿などを始め、日本の子どもが心電図電極をつけてフィールドアスレチック施設で遊ぶ実験風景や、そのときの心拍数の変動の実験結果など、約10枚ほどであった。そのうちのほとんどは、私がメキシコでの講演用に持ってきたものであり、メキシコの実験風景も私が研究所にきてから撮影したものであった。ローサス教授は、体力づくりについてこれといった科学的研究も実践も行っていないようであった。しかし、ビジョンだけは胸に描いているようであった。いわば、長年の机上のプランを、予算づけを得て、この際ぜひ実現したいということであった。スライドの説明に当たって、ローサス教授は、「ドクトル・カンド・コバヤシは、スペイン語はわからないし、英語もよく話せないので、私が説明します」と言った。席上には笑い声が起こったが、ローサス教授は真面目顔で長々といろいろなことを説明した。そのあと質疑討論が行われた。
グァナファト大学総務局長のベニト氏は、「このプロジェクトは実に重要である」と強調した。政府高官の一人は、「メキシコ国民の体力づくりについての重要性は、我々も充分に認識を持っている。そして我々は日本の職場体操のようなものを、現実の場で取り入れてゆく試みをしたら良いと考えている」と述べた。この政府高官は、世界の事情を良く知っている様子で、体力づくりについては日本を視察したことがあることに触れ、「日本のシステムは大いに参考になるので、メキシコとしてはこれをモデルに考えている」という発言があった。このあと、「なぜ、このような大規模なプロジェクトをグァナファト大学の一研究所だけが請け負っていくのか、それには少々問題があるように思う。もう少し、いくつかの研究所との接触をもって行ったらどうか」という意見も出された。そして、今後また接触の機会を持ちましょうということで1時間30分の会議を終えた。
席上、アメリカからやってきた3教授のうち、スプール教授だけが、体力づくりプロジェクトの重要性について述べただけで、他の2教授からは何の発言もなかった。私は、スペイン語も英語も話せないということになってしまったから、ただ座っていれば良かった。しかし、会議のなかでは、ローサス教授からも政府高官からも「ドクトル・カンドウ」の名前が何度も繰り返された。
この会議は、いわばヒアリングの会議であったと解釈できる。会議が実現できたことには、労働科学研究所の顧問であり、大統領に近い人に姻戚関係をもっているメキシコ銀行レオン支店長の、セニョール・ロレンソの力が大きかったという。このような会議にアメリカから3教授をわざわざ招待し、私も含めて4人の外国人が研究所のメンバーとともに参加した。ローサス教授は、カリフォルニア大学のホーバス教授も招請したけれど、あいにく奥様の体の具合が良くないので、メキシコに来ることが出来なかったことを残念がっていた。ローサス教授にとっては、このヒアリングの会議は、大デモストレーションであったわけである。会議の後で、大統領府入り口の向かい側の宮殿回廊に描かれてある、メキシコの歴史を描いたディエゴ・リベラの壁画を見学した。
その後、高級レストランで夕食会となり、高級な酒や料理がふるまわれた。このレストランは、昔はアシエンダと呼ばれ、メキシコ革命以前の富豪の大邸宅であったところである。中庭は、四季の色とりどりの花が咲き、バナナの木や噴水、彫刻があり、とても美しいところであった。アシエンダの一室には、金で作られた等身大のキリスト像が祭られてあった。会議の席上、一言も発しなかったアメリカのニーダーマイヤー教授は、「ドクター・ローサス。こんなにイージーな仕事は今までになかったよ。こんなことなら、いつでも、何回でも呼んでほしいな」と、酒を飲みながら話した。
ローサス教授は、会議の印象を私に尋ねた。私は、ローサス教授が以前よりもっと立派に見えるようになりましたよ、という意味と、会議前や会議中のコチコチに緊張していたローサス教授の状態を暗示する意味を込めて「Dr.Rosas is much better after the meeting」というと、ローサス教授はどう解釈したかわからなかったが、非常にこの言葉が気に入ったようで、大声で笑い、いかにも満足気であった。ローサス教授は、「アリガトウ、アリガトウ」と日本語で繰り返した。
実験の中止命令
1月15日に、フランシスコはローサス教授のいる所長室へ呼ばれ、1時間ほど話をしていた。この頃は、ローサス教授はあまり研究所にくることもなく、時折1,2時間ほど研究所にあらわれては、ひどく機嫌の悪い顔をして陰気な雰囲気を漂わせていた。最近では、フランシスコと私を所長室の机の前に座らせてから、電話のダイヤルを回し、我々に全く関係のない人に長々と電話をかけ、それが終わってから待ちくたびれた我々に話を始める、といったやや異常な行動も目立ってきた。
この日、所長室から出てきたフランシスコもまた、非常に暗い顔であった。「何かあったのかい」とフランシスコに尋ねた。ローサス教授は、実験の中止命令を出したのだそうだ。「なぜ中止なのだ」と私は尋ねた。フランシスコは、中止命令が出る背景としていくつかの理由を挙げたが、それらはあまり論理的なものではなかった。明らかなことは、研究所員の解雇をともなう予算の不足だった。
この日は、レオン市のもっとも富裕な上流階層の家庭の少女が通う、ミラフローレンスという女学園において、実験協力の説明とデモンストレーションを行う予定で準備していた。当日になって、突然ローサス教授から中止命令が出されたからといって、我々は後に引くことは出来ない。フランシスコは、ローサス教授が個人的な理由で、ミラフローレンス女学園との関係が悪いことも説明してくれた。
ローサス教授に、この件について話をしようとしたが、ローサス教授はフランシスコへの話が終わると、さっさとどこかへ行ってしまった。ローサス教授とフランシスコは、相互不信の状態がさらに進行していたし、ローサス教授の日常行動も、大統領府での会議後、2~3週間して、あまり研究の遂行に協力的でない態度が見られてきていた。私は、「かまわないから、今日はミラフロ-レンスに行って説明会をしよう。いまさら中止にすることは、われわれの信用を傷つけることになってしまう。それに、研究費のうえで不足する分があれば、すべて僕が負担するから」といって、フランシスコに財政上の問題は心配しないように告げ、フランシスコも研究の遂行を決断した。
午後に、フランシスコ、ロサリオ、私、それにソーシャルワーカー研修生数名をともなって、ミラフローレンス女学園に出かけた。広い学園の敷地には大きくて立派な校舎が建ち、体育館などの体育施設も整っていた。
保護者としての母親達も、PTAの役員を主として、30名ほどが集まっていた。我々の到着がやや遅かったので、婦人たちは学園の待合室の上等なソファーに腰をおろして談笑していた。いずれもメキシコの上流階層の奥様達ばかりで、服装も、髪型も、容姿も、素晴らしく美しいひとが多かった。
「スライドの設備がある部屋に」、ということで、ミラフローレンス女学園の副園長先生の案内で、一同は待合室からは別棟の教室の1室へ案内されることになった。待合室からその教室までは5分間ほど歩かなければならなかった。奥様たちは、背筋と腰を伸ばした姿勢を保ちながら、ゆっくりとした歩調で歩き、真近に貴婦人たちの行進を見る思いがした。
一人の婦人は私に近づき、「あなたのご研究のご成功おめでとうございます」といわれた。このような言葉をかけてもらえることは、全く予想しないことであった。説明会は、実験のスライドを映写しながら、上品な雰囲気のなかで行われた。質問のなかに、「研究の責任はどのようになっているのですか」ということがあった。これは、どこの会場でも、必ずと言ってよいほど質問された内容である。
「メキシコ国家科学技術会議と日本学術振興会が共同の責任を持ちますが、グァナファト大学がこの研究に関連しております」。このように応えると、質問した婦人は「ブエノ(結構です)」といった。他の婦人達も大きくうなずいた。メキシコの国では、責任体制がどこにあるかということを明らかにしておくことが特に大切なことのようであった。それは、信じるべきものは何かを明らかにしておくことでもある。メキシコの社会では、上流富裕階層の人々は、低所得階層の人々を信用しないし、逆に、低所得階層の人々は、上流階層の人たちや、政治・行政をあまり信用しない、といった根強いものがあるように見受けられた。この研究を進める上で、もっとも協力が得られやすかったのは中流階層の人々であったし、低所得階層の人々との協力を得るのは、比較的根気と時間とを必要とした。
上流富裕階層の子女を研究の対象の最後に選んだのは、もっとも協力が得にくい階層であるというフランシスコの考え方からであった。説明会でのフランシスコの態度は、非常に丁寧であった。しかし、ミラフローレンスの婦人たちの間には、我々が説明会に到着する以前に、おおよそ全面協力の方向が決められてあったようだった。それは、日本からの研究者である私に接する婦人たちの思いやりのある態度からもうかがわれた。
私のメキシコ滞在日数は、残すところ10日になってしまい、実験可能な日も数日を残すだけになってしまった。したがって、出来る限りはやく、ミラフロ-レンスの生徒の測定を開始しなければならなかった。そうしなければ、女子の上流富裕階層の対象者が得られなくなってしまう。
次に私がすべきことは、ローサス教授と話し合うことであった。研究所には、毎日大勢の被検者希望者が訪れて、実験中止どころの話ではなかった。翌日、ローサス教授に話し合いを申し込んだ。ローサス教授は、フランシスコへの不信感を述べるとともに、「フランシスコに実験の中止を命令したのに、彼は私の命令を無視している」といった。実験の続行は、私の意志であったが、ローサス教授は、フランシスコが私に伝えていないと思っているらしかった。
「実験の中止の理由は何ですか」
「大学からもうこれ以上お金を出してもらえないし、研究所は全くの赤字なのだよ」とローサス教授は渋い顔で言った。
「この研究について、私は15万円の寄附をしているはずですが」と問いただした。ローサス教授は、あのお金は大学に寄附され、研究所にはそれと同額のお金が大学からの会計予算に加えられた。しかし、12月の国立宮殿の会議の時に多くの費用がかかったので、もう研究所の予算はなくなってしまった、という説明をした。国立宮殿の会議に関しては、アメリカから3人の教授を招いたので、その航空運賃や参加者全員のホテル代の支払いをした。それに加え、高級レストランで豪華な夕食会を開いたのでは、いくらお金があってもたまったものではない。特に、夕食会では、どうも気前が良すぎるな、と思っていた。何のことはない、考えてみれば、夕食会の費用は、私が寄附した15万円を当てにして開催したようなものである。なぜなら、私が当初研究所についた時は、スタッフの人件費にも困るほど、研究予算がほとんどゼロに近い状態であったからである。とにかく、15万円は、あの夕食会や会議の際に使われたものと思うことにした。私は、あまり腹をたてないように気持ちを抑えた。あの15万円は、景気づけのための誘い水の役割は充分に果したのだ。
ローサス教授は、国立宮殿の会議で使い果たした研究所の会計を補充するために、グァナファト大学に足繁く通って、新たに予算を要求していた様子であった。その要求が大学本部で受け入れられなかったことから、ローサス教授には、心理的に不安定な状態が生じたようである。私の研究を遂行することによって、一般人を対象にした健康診断などの業務を行うことができなかったこともその原因にあるのではないかと予想された。この研究事業は、研究所にとっては、邪魔なものになってきたのである。
一月中旬になって、非常勤の看護婦であったルス嬢が研究所を去り、メキシコ政府へのプロジェクト申請書を一生懸命タイプしていた秘書のマリア嬢も研究所を退職した。研究所の財政的破綻は、どうやら真実味を帯びてきたようである。しかし、勝負はこれからである。
「私は、日本学術振興会とメキシコ国家科学技術会議の国際間の交流研究者として、この研究所に派遣されています。いま、ここで研究を中止したら、当初の目的は達成できなくなってしまいます。また、報告書を日本学術振興会とメキシコ国家科学技術会議に提出する義務も負っています。日本とメキシコの友好関係を傷つけるようなことは避けなければなりません。この際、研究費はなくても、続けられるだけのものは 続けさせていただきたい。」背中に日の丸を背負った気分で、私は意見を述べた。外国に出ると、不思議に自分が日本人であることを自覚する。しかし、これほど日の丸を意識したことは、数回外国に出ているにもかかわらず、初めてのことであった。公務出張という立場も今回が始めてであった。ローサス教授は、苦い顔をして「俺は7つの顔を持った男だ」と意味不明のことをいって、研究の継続を暗に認める態度を示した。
この頃、私は、日本人の精鋭の研究グループと全く変わらない研究チームの中で働いている感覚を持ってきていた。このチームワークを乱すのは、ローサス教授一人という変な形になってしまっていた。ローサス教授は、あまりにもすべてを政治的に考えすぎ、政治的に利用することだけが先行して、研究の遂行上の実態については、机上の概念でしかとらえていないようであった。研究所には大きなうねりが生まれてきたように感じられてきた。ローサス教授を例外として、皆が生き生きとして働くようになったし、フランシスコもそのリーダーシップを発揮するようになってきた。
1月21日からは、ミラフローレンスの小・中学校の測定が開始された。白いシャツにブルーのタンパンツという体育のユニフォームを身につけて、少女たちは嬉々として実験に参加した。このユニフォーム姿は、とても新鮮な感じがした。低所得階層の子どもたちの場合には、運動靴もランニングパンツも買い揃えておかなければならなかった。学校体育の時間も、通常の服装のまま行っていた。子どもたちの中には、靴やパンツが自分達へのプレゼントかと思い、そのまま身につけて帰ってしまったものもいた。ミラフロ-レンスの実験が始まる頃には、いつの間にかランニングパンツも靴も、当初20組用意したものが、パンツ2枚、靴はゼロという状態に減少していた。しかし、ミラフローレンスの子どもたちには、それらの準備は不要であった。彼女たちは、概して色白で、髪もブロンド系統の人が多かった。メキシコの上流家庭で大切に育てられている様子が窺われたが、トレッドミルの上を走る時は、日頃の体育の成果もあってか、とても元気で、精神的にも強いものを発揮してくれた。
帰国のタイムリミットも迫り、ミラフローレンスの少女達を27名測定したところで、すべての実験は1月24日に終了することになった。完全に軌道に乗ってきたところで、残念ではあったが、この辺りが身の引き際なのかもしれないとも思った。
別れのとき
セニョール・ロレンソは、メキシコ銀行レオン支店長の要職にある50年配の人で、研究所の顧問でもあった。セニョール・ロレンソは、鼻ひげをたくわえた丸顔の背の低い人であったが、とてもユーモアのある人であった。15万円の日本円をペソ紙幣に換金するのに、ローサス教授に紹介され、依頼セニョール・ロレンソにはえらく気に入られてしまった。セニョール・ロレンソは、日本に帰る私に、メキシコ料理のフルコースをご馳走してくれることになった。ホテルのレストランでは、3人の楽士がトランペットやギター、コントラバスという取り合わせで、生演奏をすると共に、高い美しい声を張り上げて「パンチョビリャの馬」(El Grano de Oro)と言うような、有名なメキシコの歌を歌って聞かせていた。
「カンドーは俺のクニャド(義兄弟)だぞ」とセニョール・ロレンソは言った。「ハイ!クニャド、グラシアス。このレオンに来て、研究所で研究してくれてありがとう」「アル・コントラリオ(いや、こちらこそどうもありがとうございました)」と私は答えた。「ノー・アル・コントラリオ(いやいや、こちらこそどうもありがとう)」。セニョール・ロレンソとローサス教授は、口をそろえて、私に心から礼を述べている様子であった。彼等が私にこんなに感謝してくれるのかと思うと、何か目頭が熱くなってくるのを感じた。
ここで公表されたことは、国立宮殿の会議で申請した「メキシコ国民の体力づくりプロジェクト」に関する200万ペソス(約2000万円)のグラント(研究費)が、この研究所に交付されることが決定した、ということであった。来週の火曜日に、ローサス教授とセニョール・ロレンソは、メキシコシティーの大統領府まで、200万ペソスを受け取りに行くことになったそうだ。
大統領府は、この研究所がグラントにもとづいて研究を遂行できる能力があることを、ついに認めたからだという。これは、国際的な共同研究をするということが、いかに大きな影響をいろいろな方面に与えるかということを示す実例の一つであると思った。ローサス教授の政治的な手腕は、ついに身を結んだということになるのだろう。
私は、グラントが飲食のために使われることなく、本当の研究の遂行のために使われることを内心祈りながら、プロジェクトが成功するであろうことを祝福し、乾杯した。
翌日には、ローサス教授にともなわれて、グァナファト大学本部へ出かけ、学長先生に面会してお礼を述べた。学長先生は、「あなたがグァナファト大学に来たことは、グァナファト大学にとって良い結果を及ぼしました。研究を遂行してくれたことに感謝します。」といった意味のことを言われた。学長室の壁に掲げてある人の顔の石膏像を珍しい目で私がながめると、「あれはナポレオン・ボナパルトのデスマスクです。私はナポレオンを尊敬しています。」ということだった。学長先生は、私にグァナファト大学古典音楽研究会が演奏したレコードをプレゼントしてくれた。この古典音楽とは、数百年前の楽器類を原型のように復元し、これらを用いて合奏されたもので、奏者はグァナファト大学芸術学部の教授と、その弟子たちであるという。
本部事務局長の部屋に案内されると、事務局長は大きな机の前に私を座らせ、「あなたは、グァナファト大学をパワーフルにした。お礼申し上げます。」と、述べられた。
メキシコを離れる日は、刻一刻と近づいてきた。戸別訪問調査を真面目にやってくれたソーシャルワーカー研修生の女性8人は、レオン市を出発する前日の朝(日曜日)9時から、お別れパーティーをしてくれた。手作りのケーキ、メキシコ式サンドウィッチ、コカコーラ、といった本当にささやかなものであったが、その心が嬉しかった。
多くの思いを残して、メキシコを離れることになった。
収集した研究データは、その生データのすべてをフランシスコに託し、私は手書きで写したデータを持ち帰った。最大酸素摂取量のデータも計算済みの結果を渡し、これを元にグラフ化できる状態にして渡した。メキシコ人の子どもたちを対象にした世界初の最大酸素摂取量の測定データである。
323人分の呼気ガスサンプルを、すべてショランダー微量ガス分析器で分析した。一人当たり2~3サンプルを分析しているので、洗浄や空気分析の回数をくわえると、およそ1000サンプルを分析したことになる。さすがに、ここまで徹底して分析するとマイクロスイッチを回す右手の親指の腹と中指の皮膚は硬く硬直し、硬い肉の塊が膨れ上がったようなものになっていた。のちに、この実験の助手として働いてくれたロサリオ・コネホ嬢は、これらのデータを論文にまとめて「リセンシアド」の学位を取得することが出来た。私は、「メキシコの子どもの体力と生活環境」という書籍にすべての測定結果をまとめて、日本人やノルウェー人との比較を含めて名古屋大学出版会から1985年に出版することが出来た。この本を贈呈させていただいた運動生理学者の石河利寛先生からは、「この本の内容は10年先を行った研究である」という評価を戴いた。一人の研究者が、同一の手法を用いて子どもの体力の国際比較を行ったという点では、時代に先駆けた研究であったということが出来よう。メキシコでの体験は、その後の人生で大いに役立ったように思う。そう実感できるのは、目標ばかりが見えながら、目標にたどり着く手法や過程が極めて難しかった「駒場寮廃寮問題」に直面した10年間の折々であった。
人間を対象として、生活環境と体力との関係を調査測定するばあいには、対象となる人々の住む地域に出かけ、実際に人々の生活の様子に接することが必要である。