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国内高地トレーニング施設の開設にむけて  飛騨御嶽編

国内高地トレーニング施設の開設にむけて  飛騨御嶽編

1997年に実業団陸上競技連盟の事務局長である露木 昇さんが駒場キャンパスの研究室に訪ねてこられた。「実は岐阜県の飛騨御嶽高原にスキー場を開設したが、夏には高地トレーニング場として利用できるようにならないか相談を受けて困っている。この問題の適任者は東大の小林先生をおいて他にないので一度現地を見てもらいたいのだが・・・」という依頼であった。時を同じくして富山県の話もあったので、一度現地を見せてもらいましょう、ということで案内してもらうことにした。
中央線の木曽福島の駅に着くと、高根村の河合助役と総務課長の大家 忠さんが出迎えに来てくれていた。そこから現地の説明を聞きながら約1時間、途中長いトンネルをぬけて標高1000mのコスモスの咲く開田高原をぬけ、やがて山道をくねくねと登っていくと、突然御嶽山の壮大な姿が目前に迫ってくる。御嶽山は「木曾の御嶽さん」が有名であるが、これは長野県側からみた御嶽山のことで、岐阜県側からは、飛騨御嶽と呼んでいる。御嶽山は、楕円形の形をしているので、見る角度によって、横幅の広い雄大な山に見えたり、ほっそりしたスマートな山に見えたりする。標高1800mから2200mにかけて開設された「チャオ御岳スノーリゾート」に到着すると、眼前には乗鞍岳とその山麓が眼下一面に広がっており、この世のものとは思えないほどの美しい雄大な景色が果てしなく続いていた。「あの乗鞍岳からこちら側がすべて高根村です。こんな綺麗なところがあることは高根に住む人にもわからなかったのです」と大家さんの説明はつづいた。「この広大な敷地に、人口は770人です」。 
チャオ御岳スノーリゾートの支配人は大場さんで、昭和43年に東大の経済学部を卒業し、銀行系からJR東海が開発したチャオスキー場の初代の支配人になっていた。ここはバブルの頃にさらに大規模なリゾート開発計画があったという。
夕刻に濁河温泉の朝日館に案内されると、高根村の中井勉村長、朝日村の木本新一村長、小坂町の大森喜一町長がそろって迎えてくれて、一通りの趣旨説明を受けた。この席には岐阜県教育委員会の石榑体育課長も同席しており、私一人の視察に対してこれだけの方々の出席があることは並大抵のことではないと感じた。旅館の一室で、さまざまな話を聞くうちに、この仕事はどうしても成功させなければならないと感じるようになってきた。当時、私は日本陸上競技連盟の科学委員長をしており、陸上選手の国内高地トレーニング場を開発したいと思い、候補地を探していたことも幸いした。
その頃の国内事情を考えると、バブル期のリゾート開発計画が頓挫し、どの地方もリゾートに変わる国のプロジェクトに期待を寄せていた。文部科学省から、ナショナルトレーニングセンターの設置構想が浮かびあがり、その候補地として、さまざまなところから立候補の手が挙がっていたという。そのなかで高地トレーニングセンターの設立も取りざたされるようになっていた。高地トレーニングセンターの候補地としても、さまざまなところから手が挙がり、山形県上山市坊平高原(標高1000m)、富山県立山市、岡山県柵原、長野県諏訪市、などが名乗りを上げており、ぜひナショナルトレーニングセンターを国の力で作ってもらいたいという要望を持っていた。
ナショナルトレーニングセンターを設置するために、文部科学省に特別の委員会が作られ、浅見俊雄先生が委員長に就任し、川原 貴先生も委員であり、私も委員の一人に入っていた。その委員会は、候補地を選定するのが目的ではなく、どの様なセンターを造るかという構想をねる委員会であった。まもなく、私は委員会のメンバーから外れることになるが、それは私が高地トレーニング場の開発に直接関わることになったので、委員会の公平性を保つためである。
当初、富山県立山の話が先に起こってきており、研究も進行していたが、候補地がいくつもあるほうが選手にとってはありがたいし、実際いくつもの高地トレーニング場があれば、練習のバリエーションも豊かになる。
 富山県立山の場合は、はじめから自然保護がネックになっていたが、岐阜県飛騨御嶽の場合は、すでにスキー場として開発されており、林野庁の許可を受ければ開発が可能で、すでにその許可は受けているとのことであった。一度樹木を伐採した2次林であることや、スキー場開発の際に、自然保護団体との話し合いが行われ、決着が付いているという。ナショナルトレーニング場を誘致する期成同盟が2村1町が一体として作られており、冬のスキー、夏の高地トレーニングによって、集客を計りたいという地元の熱烈な希望があった。
 標高2000m付近は、わが国ではほとんどが国立公園などに指定されており、開発ができる可能性は少なく、岐阜県飛騨御嶽は開発可能な地域として、唯一ともいえる条件を備えていた。そうした条件とは別に、高根村の中井村長はじめ、地元の人たちがナショナルトレーニングセンターの夢に熱心であり、なんとしても実現させたいという希望を持っていた。
私が心を動かされたのは、高根村の人口がわずかに770人であり、そうなった理由のひとつにダムの開発があったことである。山が高く、山間に住む人たちの生活は林業によって営まれるが、多くの場合、川を利用していかだを組み、材木を運搬する。また、集落は川沿いに立てられるのが普通である。しかし、昭和30年代の電力事情をまかなうために日本各地にダムが建設されたが、高根村の場合にも、ダムの建設によって集落の主要な部分が水没した。ダム工事の期間は、村もにぎやかであったが、ダムが完成し、保証金をもらって立ち退いた人たちも、町に出たりしてちりぢりになり、人口も減り、このままでは廃村にもなりかねない。過疎村であるこの地域を発展させるために、スキー場を建設したが、夏の高地トレーニングによって、夏も利用価値を高めたいということであった。スキー場は前年に開設されたばかりであった。
 地元の人たちは、国の力でナショナルトレーニングセンターを作って欲しいと考えていた。しかし、1964年の東京オリンピックのころから構想された国立スポーツ科学センターがようやく2000年になって完成したような状況の中で、簡単に国が力を貸してくれるとは思われない。バブルが崩壊した時期に当たっては、到底おいそれと行くはずがない。私は、はじめから国の力を期待するようなことはしないで、まず自分達でできるだけのことを行い、自分たちの努力で進展させる方針が大切であるという意見を述べた。そして、今後どのような展開を図るかについて、その場で思いつくさまざまなアイディアを口にしてみた。その第一が、「何か旗印が必要だ」ということだった。何もないところからものごとを立ち上げるには、基点となるものがあると良い。
 この考え方は、北海道を開拓した方法にヒントを得ている。明治時代に札幌の街づくりを始めるにあたって、明治神宮から明治天皇の御霊を背負い、未開の地でもっともふさわしい地に明治天皇の御霊をまつる北海道神社を作り、ここを基点としてまっすぐな道路を東西に走らせて街を南北に分け、さらに道路の中央部分で南北に通る道路を作り、街を東西に分けた。
すなわち、ものごとをはじめるには、物理的な基点と精神的な原点を明確にすると良いということである。

飛騨御嶽の高地トレーニング場の名称を「飛騨御嶽高原広域高地トレーニングエリア」と命名し、看板を掲げることにした。さらに、ここに「東京大学の高地トレーニング研究分室」をおくことにしてこれも看板を掲げることにした。看板の名称は、「東京大学身体運動科学研究室 高地トレーニング飛騨御嶽研究分室」とした。東京大学の名称使用に当たっては、大学に帰ってから事務局の承認を得た。
その時点ではスキー場以外に、林間コースとして林道を整備した3kmのランニングコースが設置されていたのみである。濁河温泉の鉄分が多い赤茶けた湯に浸かりながら、どのような展開をすることが必要かを思案した。翌日、現地をゆっくり案内してもらった。オケジッタという場所に村営のスキー場があり、昔はスキーが行われていたが、チャオスキー場が出来てからは、使用されなくなっていた。そこに食堂に使われていた暖炉つきの立派な建物があり、これを改造して私が利用しても良いということになった。
標高1800mにあるスキー客用の駐車場を利用して、ほぼ400mのランニングトラックをチャオスキー場の大場支配人が作った。砂利を敷き詰めて、展圧し、砂を敷きつめて走りやい走路が出来ていた。大場さんもなかなかのアイディアマンである。大場さん、チャオの青島さん、高根村の大家さん、それに私が加わり、事態は急速に展開していった。
2000年には、スペインのグラナダ郊外にある標高2300mのシェラネバタ高地トレーニング施設の見学視察団が結成され、岐阜県教育長日比治夫、教育委員会保健体育課の林、岐阜県会議員の中村、駒田議員、高根村村長、朝日村長、小坂町町長、大家、大場、のほか15人ほどメンバーに私も加わり、スペインのスキーリゾート地に作られた立派なトレーニング施設を見学した。こうした旅行をすることによって、岐阜県の人たちとはとても親しい間柄になった。また、8月の第1週の日曜日には「日本一のかがり火祭り」が、高根村で行われ、かがり火がともされるまでの時間は、大勢の来賓が招待され、楽しく祭り気分を味わう。野外ステージでは、一流の演歌歌手が来て歌謡祭も開催される。ホテルの一角に宴席が設けられ、かがり火が点火されるまで、この場は非常に大事な社交場となり、副知事、岐阜県出身の金子代議士や、県会議員、近隣の首長たちも必ず出席する。私も毎年出席して、地元の有力者とも交流した。特に副知事クラスの人は自治省から出向された高級官僚の方が多く、私は自治省出身の大野慎一副知事に気に入ってもらい、いろいろと大きな支援をしていただいたようだ。こうした支援の形はなかなか見えないものであるが、村の人が県に陳情に行くと「小林先生が一生懸命やっているのだから」といって予算をつけてくれたという。そのもっとも大きな成果がオケジッタの400mトラックの建設予算である。予算取りに苦労してきた人たちは、予算が満額ついたことにびっくりしたという。大野副知事が本省に帰る時の置き土産である。私は、こうした太っ腹な方の心意気に深く感謝している。標高1300mのところに全天候型の400mトラックが出来上がった。このグランドの名づけを高根村の中井勉村長から依頼され、「日和田ハイランド陸上競技場」と命名した。この名前は、とてもよい名前だと地元の方々からも好評であった。
先のオケジッタスキー場のレストハウスは、偶然のように国の施設改修予算に該当する項目と合致し、全国で2件採用の内の1つとして認められ、3000万円をかけてトレーニングフロアーと和室2つ、ダイニングキッチン、事務室をもつ立派な施設に生まれ変わった。トレーニング機器も3台セットされた。標高1305mのところに建てられた建物なので、建物の名称を「オケジッタ1305」とした。オケジッタとは地名であるが、その由来は「湿田(しった)」ということである。確かに山の中腹から水がじとじとと湧き出しており、しかも鉄分を含んでいるので水垢のように赤さびが浮いてきている。「桶湿田」がオケジッタということであるらしい。とても景色のよいところで、眼下には、かがり火祭りの駐車場として使われる400mトラックが描ける広場が有り、土のグランドとして利用されている。ここにハンマー投げのサークルを設置し、投擲練習場とした。ハンマー投げのサークルは地元の高校生が練習するためのものであるが、室伏広治選手が高地でトレーニングしたいという希望から現地の環境を整えたものである。ハンマー投げのサークルは長谷川体育施設株式会社に作ってもらい、私の寄贈となっている。
「オケジッタ1305」は、私が自由に使ってよいということになり、高地トレーニングの測定実験や冬のスキーでの宿泊施設として随分利用させてもらった。最近では、国立スポーツ科学センターの禰屋光男氏のフィールド実験室兼宿泊施設としてたびたび利用されている。
ものごとを進める上で、風向きというものが重要な要素になることが多い。順調に行く時は、予期せぬ順風がふくものである。そのもっとも大きな順風は2000年シドニーオリンピック大会での高橋尚子選手の女子マラソン金メダル獲得である。高橋尚子選手は岐阜県の出身で、コロラドでの高地トレーニングの成果が金メダルに結びついている。岐阜県の梶原 拓知事は大いに悦び、高橋尚子選手の顕彰碑を飛騨御嶽高地トレーニングエリアのもっとも景色の良い場所の建立し、かねてから計画していたランニングロードを「高橋尚子ボルダーロード」となづけて、建設が急速に進行した。現在までに約4kmが完成して、その後歩みがストップしている。また、道路建設の際に伐採した樹木をウッドチップとして加工し、スキー場内に設けたさまざまなランニング走路に敷き詰め、クッション性のある素晴らしいトレーニング走路が出来上がった。また、かねてから計画中の標高1700mのところに全天候型の400mトラックを建設する計画も進み、2007年夏には完成する予定である。標高1300mと標高1700mでは、身体に与える影響に違いが有り、標高の異なるトレーニング場でトレーニングすることがトレーニング効果をより一層高めることが考えられる。
「東京大学身体運動科学研究室 高地トレーニング飛騨御岳研究分室」を実績のあるものとするために、1999年夏から大掛かりな高地トレーニング研究を実施した。その主なテーマは、短期間のトレーニング効果を検証することのほかに、標高1300m、標高1800m、標高2200mでは、滞在の効果やトレーニングによる生体への変化がどのように異なるかを検証することであった。このためには、小林研究室のメンバーが総出で協力してくれた。岐阜県スポーツ科学トレーニングセンターのスタッフ数名が岐阜から測定日には日帰りで研究に参加した。この研究成果は、すべて岐阜県への報告書としてまとめたが、この報告書やその後に継続した研究実績によって、飛騨御嶽高原高地トレーニングエリアのトレーニング効果が少しずつ世間にも知られるようになった。
高地トレーニング実験は、東京の研究室を離れて住み込みで毎日早朝から測定を繰り返すので、研究員のストレスもたまってくる。1999年の大規模な実験では、小林研究室の秘書である仲村みのりさんや助手の松垣紀子さん、大学院の禰屋光男君や、小林研究室の博士課程卒業生で、岐阜県スポーツ科学トレーニングセンターに就職していた藤原寛康君がこの実験の重要なスタッフとして頑張ってくれた。実験対象は、陸上の三洋電機陸上部、アラコ陸上部、岐阜県益田高校陸上部、中津川高校陸上部などの選手であった。高地トレーニングということで、はじめはおっかなびっくりのジョギングが中心のトレーニングであったが、「全力で走っても2000m以下の標高では問題がない」と説明した。そのことに安心したこともあって、かなり強い強度の練習も取り入れられるようになった。
飛騨御岳高原広域高地トレーニング場の認知度を高めるために、この地で国際学会を開催する計画を進めた。最初の国際学会は、2000年8月に「第5回高所トレーニング国際シンポジウム、兼第2回陸上競技医科学コーチング国際会議」を高山市飛騨センターで開催した。大会委員長には佐々木秀幸先生、組織委員長には日本陸連の桜井孝次専務理事に就任していただいた。国内外から多くの著名な方々が飛騨高山にあつまり、真剣な研究発表とともに、夜には賑やかなパーティーが開催された。増田明美さんや、澤木啓祐さんも地元の人々には人気者であった。翌日には、高地トレーニングの現地にバスで移動し、シンポジウムや案内をおこない、将来展望を紹介した。
高地トレーニング国際シンポジウムの開催地を、東京の国立スポーツ科学センターと飛騨御嶽地区で交互に開催する方式を決め、2002年に第7回高所トレーニング国際シンポジウムを朝日村、2004年に第9回高所トレーニング国際シンポジウムを高山市の飛騨センターで開催し、2007年10月5~7日には下呂市で開催する予定である。
2006年には、日本オリンピック委員会から陸上競技の高地トレーニング強化拠点の指定を受け、2007年には、文部科学省のナショナルトレーニングセンター高地トレーニング拠点の指定を受けることが出来る予定である。
ナショナルトレーニングセンターの誘致を目指して約10年になる。そのことがようやく現実になりつつある。他の候補地がすべておりてしまい、飛騨御嶽高原高地トレーニングエリアのみが自力で着実に環境を整備し、研究活動も継続してきたことが評価されたようだ。
文部科学省スポーツ青少年局には、ナショナルトレーニングセンターの設置を進める部局がある。ある時、文部省の方から「小林先生は文部省に圧力をかけないから助かる」という感想を頂戴した。確かに、私自身、文部科学省に陳情したこともなければ、人を介して是非にとお願いしたこともない。ひたすら地元の人たちの熱意を支援し、科学的な検証をすることに努力してきた。
 平成16年には、岐阜県スポーツ科学トレーニングセンターの名誉所長であったドイツのバウマン教授が10年間の任期をおえて退職し、変わって私が名誉顧問に就任した。名誉顧問の就任式は岐阜県の梶原 拓知事の知事室で行われ、梶原知事から、高地トレーニングの発展について強い要望が述べられた。名誉顧問に就任したのは、梶原知事の指名によるものであったという。その後も、梶原知事とは2回ほど面談させていただき、高地トレーニング施設の将来像についても話し合った。
 2004年には、TBSの番組で標高1800mのところに100m走のためのウレタン走路が1レーン設置されたが、2005年には、長谷川体育施設株式会社と味の素株式会社のご好意によって、さらに1レーンが増設され、長さ140mの走路が2レーン整備された。
 将来の課題は、標高1700mにプールを造ることであると考えている。温泉とあわせたトレーニングプールが出来れば、アジアを始め諸外国からも選手が合宿に来ることも可能である。水泳に関しては、外国の遠征に出かけなくてもかなりな人がトレーニング可能となる。
 平成17年(2005年)2月、町村合併によって高根村と朝日村は高山市に合併され、小坂町は下呂市に合併された。広大な高根村の敷地も加わって、1市2町7村の合併により土地面積では日本一広い高山市が誕生した。9期35年間高根村の村長を務めた中井 勉氏は、町村合併によって村長の役割を終え、助役をはじめ村会議員は全員が失職した。愛した村がなくなる日をむかえた閉村式は、涙の式典となった。席上、村の発展や自治に貢献した人々に自治功労賞が授与された。自治功労賞の該当者は村会議員を20年間務めた方々と2人の民間人であった。民間人の一人は飛騨牛の育成に功労があった人、もう一人は高地トレーニング施設の整備推進に貢献があった人であった。私は、高地トレーニング施設の整備推進に功績があったとして高根村の自治功労者に選ばれ、勲章と略章にあたる金バッチを戴いた。村議会の議をへて、岐阜県議会の承認により、自治功労者が決められたという。これも中井 勉村長の人を遇する暖かい配慮の賜物ものであると感じている。私の心の奥深くから、村がなくなってしまったことに対する哀切の気持ちが、時々ふっと湧き上がってくる。
高根村と長野県岡谷に向かう街道の県境には、女工哀史で有名な野麦峠がある。標高1672mの険しい峠の頂上付近には「ああ野麦峠」と刻まれた大きな石碑と、「ああ飛騨が見える」といって兄に背負われて息絶えた22歳の女工政井みねの像が飛騨の山なみに向かって静かに建てられている。