「十坪ジムと禅」 その2
1.はじめに
「十坪ジム」には、認知動作型トレーニングマシンが設置されており、トレーニングする人はそれぞれ、日常ではあまり使わないような体の使い方をしながらマシンを動かしたり、マシンの動きに合わせた身体操作を行う。この運動動作や身体操作を繰り返し行っていると、『自分自身の体の動きの意識を通して、体の深部感覚が目覚め、深いところにある自分自身との内省的な対話が生じたり、身体深部や脳内にある意識、浅い意識下や無意識な部分に存在していたであろう想念のようなものが徐々に浮かび上がり、意識化されて沸き上がり、それが体外に発散されたり、蒸発されたりしながら、精神と身体が動きを通して浄化されていく』、という感覚を多くの人が経験し、感じるとることができる。
このことは、仏教の行や禅に通じるものがあるように思われる。
そこで、仏教についての知識を学んでいくことにした。
この稿は、「十坪ジム」会員を対象にした講演会の内容に関するもので、「十坪ジム」と「禅」とが、深いところでつながっているのではないかという前提で話が進められています。
2.「禅」と「密教」との関係について
日本では、道元によって開かれた曹洞宗や栄西によって開かれた臨済宗などの禅宗の寺院が最も多く、空海の真言宗や最澄の天台宗の密教も大きな影響を持っています。
しかし、禅宗と密教の関係はどうなっているのだろうかと疑問に思うことがあります。
そこで、もう一度、禅と密教の関係という視点から、その関係をとらえておきたいと思います。
空海の真言宗は密教(東蜜)であり、最澄の天台宗においても密教(台蜜)は重要な位置を占めています。鎌倉後期には、密教教団の枠を超え、日本国中に密教を学ばぬ僧はないとされるほど広く実践されていました。
禅については、鎌倉時代初期に比叡山の学僧であった大日房能忍(生没不詳)が禅を独修し、三宝寺を建て、禅道場を開いています。三宝寺は、禅宗であったが、密教の行も修める「禅・密兼修」の寺でした。能忍の禅は独修であったことから世間での評価が分かれ、二人の弟子を宋に派遣し、独自の禅が間違っていないかを問い合わせ、阿育王寺の拙庵徳光から達磨像を贈られ印可を得ました(1189年)。 能忍のもとには、天台宗の主流をなす学僧に対立する別所聖などが多数集まるようになり、達磨宗と呼ばれました。
栄西(1141~1215)は、比叡山、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学んだ後、南宋に二度留学し、一度目は天台密教、二度目は当時南宋で盛んであった禅宗を学び、帰国後、博多に聖福寺を建立して日本最初の禅道場としました。
栄西は大日房能忍とともに京で禅宗をおこす運動を始めましたが、延暦寺や興福寺などから排斥され、天台宗派からの訴えで朝廷から禅宗停止の宣旨が下されました。
栄西は1198年に「興禅護国論」を執筆し、禅が既存宗派を否定するものではなく、日本における仏法復興に重要であることを説きましたが、京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、鎌倉幕府の庇護を受けました。やがて鎌倉幕府2代将軍源頼家の外護によって京都に建仁寺を建立し、栄西は建仁寺で75歳で入滅しています。
栄西
3.禅と茶
栄西は中国の禅院で修行の茶礼(されい)として行われていた茶の習慣を研究し、茶の文化を日本に持ち帰りました。日本には、すでに茶は伝わっていましたが、貴族や僧侶など限られた上流社会の習慣でした、それを一般社会に広めた栄西は、日本の茶の始祖として、茶道の世界でも尊ばれています。
茶室の床の間には、禅語の掛け軸などが用いられます。茶道では、「人をもてなす際に現れる心の美しさ」が強調されますが、ここには大徳寺派の臨済宗寺院の影響も大きく、利休流茶道の根本とされる「和敬静寂」という語もこうした過程で生み出されたとされます。
ちなみに、栄西が中国から持ち帰った茶を九州に植え、宇治の明恵上人(1173~1232)にも茶の種を送り、それが宇治茶の起源とされます。
明恵(みょうえ)上人 国宝
樹上で座禅を組む明恵 栂尾山(とがおさん)高山寺の碑
高山寺の宇治茶摘み風景
栄西は、1214年に「喫茶養生記」を記し、源実朝に献上しましたが、そのことが武士階級に広まる足がかりになったとされます。そこには、茶の医学的効能について、「茶なるものは、末代養生の仙薬、人倫延齢の妙術なり」と書かれています。
栄西の禅は、「看話禅」と呼ばれ、禅問答が行われますが、そこにも茶の文化があったという事ができます。
円爾(聖一国師)について、これから触れていきますが、円爾は、晩年、生まれ故郷の駿河国にかえり、医王山回春院を開き、禅宗を広めるとともに、宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培を広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称されています。静岡市では、円爾の誕生日である11月1日を「静岡市お茶の日」に制定しています。
禅とお茶には深い関係があるといえます。
4.円爾と禅・密
「禅」と「密教」の関係について調べていくうちに、先月(2020年3月)に発表された矢野立子さんの論文に出会いました。
これは、円爾に関した学術的論文なので、非常に綿密に記述されているのですが、その内容を参考にしながら「密」と「禅」について考えを進めることにします。
(矢野立子:鎌倉期における禅と密教に関する一試論 -円爾の事例を通してー(武蔵野大学の論文集The Basis(武蔵野大学教養教育リサーチセンター紀要 10巻:219~234.2020年3月発行)
円爾(えんに)(聖一国師)(1202~1280)は、鎌倉時代中期の臨済宗の僧で、宮中で禅を講じ、臨済宗の流布に力を尽くしました。禅のみを説くのではなく、真言・天台と混じって禅宗を広めました。臨済宗以外の宗派でも活躍して信望を得た僧です。
聖一国師
円爾は、宋の禅僧無準師範の禅を嗣法し、帰国後、九条道家の外護を受けて京都に真言・天台・禅の三宗を掲げる東福寺を建立しました。
東福寺三門 国宝
東福寺 禅堂 重要文化財
東福寺 方丈東庭
東福寺は、臨済宗東福寺派の大本山で、京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄え、現在でも日本最古の大伽藍や国宝の建物をもつ大寺院です。
円爾は、鎌倉期の禅の動向を考える上で、極めて重要な存在の一人として、歴史家の中で近年再評価されてきています。
従来の歴史観では、宋時代の禅の在り方を追求し実践する中で、密教とともに禅を広めた僧たちは、真言・「止観」と禅との兼行を禁じた道元や、宋からの来朝僧蘭渓道隆と比較して低い評価になっていました。円爾は、こうした兼行の僧とされてきました、
しかし、円爾門下の聖一派は、「京都を中心に13世紀の禅の主流を形成していた」とされ、大きな影響力を持っていました。
円爾の弟子に無住道暁(1227~1312)がいます、無住は、臨済宗の僧侶と理解されていることが多いが、「八宗兼学」として知られた人で、真言宗、律宗の僧侶でもあり、天台宗、浄土宗、法相宗にも深く通じていました。無住の著書には「沙石集」があります。
「沙石集」は、1279年に起して1283年に成立した説話集ですが、博学であった無住が、あらゆる分野の多様な題材を仮名まじり文で記述しており、それらは興味ある文学作品となっていることから、徒然草をはじめ後世の狂言・落語に多大な影響を与えたといわれます。
その仏教説話集「沙石集」に、「三密の金剛加持の縁にて、自己の万徳を現す事、めでたき宗なれ」とあり、「三密」によって自己のすべての徳を明らかにする、と記されています。
三密とは、手に契印を結ぶ「身密」、口に真言を唱える「口密」、心に本尊を観じる「意密」を指します。この三密を行ずることによって、行者は仏と一体になり、その身に成仏を実現し得るとされます。そして、自らの身に悟りを実現するのみならず、三密によって一体となった仏身の験力によって様々な衆生利益の実践を可能にするとしました。
5.「密」の位置づけ
空海は、心の段階を十種の段階に分けた「十住心」を立て、それぞれの段階に諸宗の教学をあて、最上の段階である第十心に密教を置き、密教が諸宗を包摂しながらその最上に位置する教学であるとしました(十住心論)。「十住心論」(正式名称は「秘密曼荼羅十住心論」)は、空海の代表的著述の一つで、真言密教の体系が述べられています。人間の心を10段階にわけ、当時の代表的な思想を配置して体系を築いています。そして、真言密教が人間の心の到達できる最高の境地であるとしています。
1.異生羝羊心 - 煩悩にまみれた心
2.愚童持斎心 - 道徳の目覚め・儒教的境地
3.嬰童無畏心 - 超俗志向・インド哲学、老荘思想の境地
4.唯蘊無我心 - 小乗仏教のうち声聞の境地
5.抜業因種心 - 小乗仏教のうち縁覚の境地
6.他縁大乗心 - 大乗仏教のうち唯識・法相宗の境地
7.覚心不生心 - 大乗仏教のうち中観・三論宗の境地
8.一道無為心(如実知自心・空性無境心) - 大乗仏教のうち天台宗の境地
9.極無自性心 - 大乗仏教のうち華厳宗の境地
10.秘密荘厳心 - 真言密教の境地
天台宗教団も三密行のある密教を諸宗の最上位としました。南都教団においても、空海が三密行による利益や即身成仏のあり様を眼前に示したことで皆信伏し、密教が根付いたとされます。鎌倉期には、密教が仏法を支える根幹として位置づけられたといえます。
密教は、三密によって忽ち成仏するという「即身成仏」を説き、一方禅宗は自心の仏性を見じて成仏するという「見性成仏」を説いています。
6.「密」と「禅」の「不立文字」「以心伝心」
空海が密教の本意は、文字に捉われず、心から心へ直接伝えられるものであると「性霊集」で述べていますが、この内容は禅と近似しているということを無住は主張しています。
密教は、文字によらず、師から弟子へ秘密裏に伝授が行われ、伝授された者以外には明らかにしてはならないとする教えですが、禅も文字によらず、心から心に直接伝える「不立文字」・「教外別伝」を標ぼうしており、無住はこの点で両者が一致するとしています。
空海の著作にも達磨大師の言にも同じく「以心伝心」「不立文字」の主張があり、禅と密が文字を立てずに、心から心へ教えを伝えるという特質で一致することが指摘されています。
* 不立文字とは、「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」の語句の始めに当たり、禅宗の開祖とされる達磨(ボーディダルマ)の言葉で、禅の根本を示すものとされています。「文字(で書かれたもの)は解釈いかんで変わってしまうので、そこに真実の仏法はない。悟りのためにはあえて文字を立てない」という戒めで、「経典の言葉から離れて、ひたすら坐禅することによって釈尊の悟りを直接体験する」という意味となります。
禅においては、文字や言葉を残す以外にも、禅師の全人格をそのまま弟子に伝えることが重要であるとされています。今日でも禅においては、中心経典を立てず、教外別伝を原則としています。仏教の悟りにおいて重要な姿勢は、仏心を持って智慧を学ばなければ悟りに至らないという考え方を著しています。
円爾の著作である「真禅融心義」や無住の「聖財集」にあるように禅と密の境地は一致するという主張につながっています。
円爾は、座禅修行と密教における最も根本的な瞑想法である阿字観との一致を説いています。
円爾は、「禅とは仏身なり、律とは外相なり、教は言説なり、称名は方便なり、これらの三昧みな仏心より出たり」とし、あらゆる行を実践する前提にある修行者の心を重視し、迷いのない仏と同じ「仏心」の状態を実現することを禅と呼んでいます。
当時の密教の実践では到達しえないと考えられていた悟りを実現するための心の在り方を説いたのが禅であったのです。そこに密を超える禅の価値が存在したと考えられます。
当時は、三密行がもたらす利益の実現に拘泥し、心の行をおろそかにすることで本来の悟りを目指すという目的を果たしえなくなっていたためと考えられます。
道元が「只管打坐」を説き、ひたすらに坐禅に打ち込むことを基本としたことに対して、曹洞宗第四代瑩山禅師は密教である加持祈祷をおこない、一般民衆への布教を図りました。
臨済宗においても、密教の教学や加持祈祷を大切にしながら、禅と密の融合を図りました。
そうすることが、一般民衆の布教には必要であったといえます。
今日においても、仏教では加持祈祷(祈願や厄払いなど)や法要供養が民衆の心をとらえ、生き方や生活習慣の中に根付いています。禅も人々の中に文化教養・礼儀作法として深く根付いているという事ができます。
禅、密の文化は、主に精神・心理・哲学・思想の文化という事ができます。そこに身体を動かすことの意味が加わってくると、現在や将来を生きる人間にとって、より深く必要な文化的価値を持ってくると考えられます。
関連のサイト
武蔵野大学における「スポーツと身体科学」
1.はじめに
「十坪ジム」には、認知動作型トレーニングマシンが設置されており、トレーニングする人はそれぞれ、日常ではあまり使わないような体の使い方をしながらマシンを動かしたり、マシンの動きに合わせた身体操作を行う。この運動動作や身体操作を繰り返し行っていると、『自分自身の体の動きの意識を通して、体の深部感覚が目覚め、深いところにある自分自身との内省的な対話が生じたり、身体深部や脳内にある意識、浅い意識下や無意識な部分に存在していたであろう想念のようなものが徐々に浮かび上がり、意識化されて沸き上がり、それが体外に発散されたり、蒸発されたりしながら、精神と身体が動きを通して浄化されていく』、という感覚を多くの人が経験し、感じるとることができる。
このことは、仏教の行や禅に通じるものがあるように思われる。
そこで、仏教についての知識を学んでいくことにした。
この稿は、「十坪ジム」会員を対象にした講演会の内容に関するもので、「十坪ジム」と「禅」とが、深いところでつながっているのではないかという前提で話が進められています。
2.「禅」と「密教」との関係について
日本では、道元によって開かれた曹洞宗や栄西によって開かれた臨済宗などの禅宗の寺院が最も多く、空海の真言宗や最澄の天台宗の密教も大きな影響を持っています。
しかし、禅宗と密教の関係はどうなっているのだろうかと疑問に思うことがあります。
そこで、もう一度、禅と密教の関係という視点から、その関係をとらえておきたいと思います。
空海の真言宗は密教(東蜜)であり、最澄の天台宗においても密教(台蜜)は重要な位置を占めています。鎌倉後期には、密教教団の枠を超え、日本国中に密教を学ばぬ僧はないとされるほど広く実践されていました。
禅については、鎌倉時代初期に比叡山の学僧であった大日房能忍(生没不詳)が禅を独修し、三宝寺を建て、禅道場を開いています。三宝寺は、禅宗であったが、密教の行も修める「禅・密兼修」の寺でした。能忍の禅は独修であったことから世間での評価が分かれ、二人の弟子を宋に派遣し、独自の禅が間違っていないかを問い合わせ、阿育王寺の拙庵徳光から達磨像を贈られ印可を得ました(1189年)。 能忍のもとには、天台宗の主流をなす学僧に対立する別所聖などが多数集まるようになり、達磨宗と呼ばれました。
栄西(1141~1215)は、比叡山、吉備安養寺、伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学んだ後、南宋に二度留学し、一度目は天台密教、二度目は当時南宋で盛んであった禅宗を学び、帰国後、博多に聖福寺を建立して日本最初の禅道場としました。
栄西は大日房能忍とともに京で禅宗をおこす運動を始めましたが、延暦寺や興福寺などから排斥され、天台宗派からの訴えで朝廷から禅宗停止の宣旨が下されました。
栄西は1198年に「興禅護国論」を執筆し、禅が既存宗派を否定するものではなく、日本における仏法復興に重要であることを説きましたが、京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、鎌倉幕府の庇護を受けました。やがて鎌倉幕府2代将軍源頼家の外護によって京都に建仁寺を建立し、栄西は建仁寺で75歳で入滅しています。
栄西
3.禅と茶
栄西は中国の禅院で修行の茶礼(されい)として行われていた茶の習慣を研究し、茶の文化を日本に持ち帰りました。日本には、すでに茶は伝わっていましたが、貴族や僧侶など限られた上流社会の習慣でした、それを一般社会に広めた栄西は、日本の茶の始祖として、茶道の世界でも尊ばれています。
茶室の床の間には、禅語の掛け軸などが用いられます。茶道では、「人をもてなす際に現れる心の美しさ」が強調されますが、ここには大徳寺派の臨済宗寺院の影響も大きく、利休流茶道の根本とされる「和敬静寂」という語もこうした過程で生み出されたとされます。
ちなみに、栄西が中国から持ち帰った茶を九州に植え、宇治の明恵上人(1173~1232)にも茶の種を送り、それが宇治茶の起源とされます。
明恵(みょうえ)上人 国宝
樹上で座禅を組む明恵 栂尾山(とがおさん)高山寺の碑
高山寺の宇治茶摘み風景
栄西は、1214年に「喫茶養生記」を記し、源実朝に献上しましたが、そのことが武士階級に広まる足がかりになったとされます。そこには、茶の医学的効能について、「茶なるものは、末代養生の仙薬、人倫延齢の妙術なり」と書かれています。
栄西の禅は、「看話禅」と呼ばれ、禅問答が行われますが、そこにも茶の文化があったという事ができます。
円爾(聖一国師)について、これから触れていきますが、円爾は、晩年、生まれ故郷の駿河国にかえり、医王山回春院を開き、禅宗を広めるとともに、宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培を広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称されています。静岡市では、円爾の誕生日である11月1日を「静岡市お茶の日」に制定しています。
禅とお茶には深い関係があるといえます。
4.円爾と禅・密
「禅」と「密教」の関係について調べていくうちに、先月(2020年3月)に発表された矢野立子さんの論文に出会いました。
これは、円爾に関した学術的論文なので、非常に綿密に記述されているのですが、その内容を参考にしながら「密」と「禅」について考えを進めることにします。
(矢野立子:鎌倉期における禅と密教に関する一試論 -円爾の事例を通してー(武蔵野大学の論文集The Basis(武蔵野大学教養教育リサーチセンター紀要 10巻:219~234.2020年3月発行)
円爾(えんに)(聖一国師)(1202~1280)は、鎌倉時代中期の臨済宗の僧で、宮中で禅を講じ、臨済宗の流布に力を尽くしました。禅のみを説くのではなく、真言・天台と混じって禅宗を広めました。臨済宗以外の宗派でも活躍して信望を得た僧です。
聖一国師
円爾は、宋の禅僧無準師範の禅を嗣法し、帰国後、九条道家の外護を受けて京都に真言・天台・禅の三宗を掲げる東福寺を建立しました。
東福寺三門 国宝
東福寺 禅堂 重要文化財
東福寺 方丈東庭
東福寺は、臨済宗東福寺派の大本山で、京都五山の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄え、現在でも日本最古の大伽藍や国宝の建物をもつ大寺院です。
円爾は、鎌倉期の禅の動向を考える上で、極めて重要な存在の一人として、歴史家の中で近年再評価されてきています。
従来の歴史観では、宋時代の禅の在り方を追求し実践する中で、密教とともに禅を広めた僧たちは、真言・「止観」と禅との兼行を禁じた道元や、宋からの来朝僧蘭渓道隆と比較して低い評価になっていました。円爾は、こうした兼行の僧とされてきました、
しかし、円爾門下の聖一派は、「京都を中心に13世紀の禅の主流を形成していた」とされ、大きな影響力を持っていました。
円爾の弟子に無住道暁(1227~1312)がいます、無住は、臨済宗の僧侶と理解されていることが多いが、「八宗兼学」として知られた人で、真言宗、律宗の僧侶でもあり、天台宗、浄土宗、法相宗にも深く通じていました。無住の著書には「沙石集」があります。
「沙石集」は、1279年に起して1283年に成立した説話集ですが、博学であった無住が、あらゆる分野の多様な題材を仮名まじり文で記述しており、それらは興味ある文学作品となっていることから、徒然草をはじめ後世の狂言・落語に多大な影響を与えたといわれます。
その仏教説話集「沙石集」に、「三密の金剛加持の縁にて、自己の万徳を現す事、めでたき宗なれ」とあり、「三密」によって自己のすべての徳を明らかにする、と記されています。
三密とは、手に契印を結ぶ「身密」、口に真言を唱える「口密」、心に本尊を観じる「意密」を指します。この三密を行ずることによって、行者は仏と一体になり、その身に成仏を実現し得るとされます。そして、自らの身に悟りを実現するのみならず、三密によって一体となった仏身の験力によって様々な衆生利益の実践を可能にするとしました。
5.「密」の位置づけ
空海は、心の段階を十種の段階に分けた「十住心」を立て、それぞれの段階に諸宗の教学をあて、最上の段階である第十心に密教を置き、密教が諸宗を包摂しながらその最上に位置する教学であるとしました(十住心論)。「十住心論」(正式名称は「秘密曼荼羅十住心論」)は、空海の代表的著述の一つで、真言密教の体系が述べられています。人間の心を10段階にわけ、当時の代表的な思想を配置して体系を築いています。そして、真言密教が人間の心の到達できる最高の境地であるとしています。
1.異生羝羊心 - 煩悩にまみれた心
2.愚童持斎心 - 道徳の目覚め・儒教的境地
3.嬰童無畏心 - 超俗志向・インド哲学、老荘思想の境地
4.唯蘊無我心 - 小乗仏教のうち声聞の境地
5.抜業因種心 - 小乗仏教のうち縁覚の境地
6.他縁大乗心 - 大乗仏教のうち唯識・法相宗の境地
7.覚心不生心 - 大乗仏教のうち中観・三論宗の境地
8.一道無為心(如実知自心・空性無境心) - 大乗仏教のうち天台宗の境地
9.極無自性心 - 大乗仏教のうち華厳宗の境地
10.秘密荘厳心 - 真言密教の境地
天台宗教団も三密行のある密教を諸宗の最上位としました。南都教団においても、空海が三密行による利益や即身成仏のあり様を眼前に示したことで皆信伏し、密教が根付いたとされます。鎌倉期には、密教が仏法を支える根幹として位置づけられたといえます。
密教は、三密によって忽ち成仏するという「即身成仏」を説き、一方禅宗は自心の仏性を見じて成仏するという「見性成仏」を説いています。
6.「密」と「禅」の「不立文字」「以心伝心」
空海が密教の本意は、文字に捉われず、心から心へ直接伝えられるものであると「性霊集」で述べていますが、この内容は禅と近似しているということを無住は主張しています。
密教は、文字によらず、師から弟子へ秘密裏に伝授が行われ、伝授された者以外には明らかにしてはならないとする教えですが、禅も文字によらず、心から心に直接伝える「不立文字」・「教外別伝」を標ぼうしており、無住はこの点で両者が一致するとしています。
空海の著作にも達磨大師の言にも同じく「以心伝心」「不立文字」の主張があり、禅と密が文字を立てずに、心から心へ教えを伝えるという特質で一致することが指摘されています。
* 不立文字とは、「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」の語句の始めに当たり、禅宗の開祖とされる達磨(ボーディダルマ)の言葉で、禅の根本を示すものとされています。「文字(で書かれたもの)は解釈いかんで変わってしまうので、そこに真実の仏法はない。悟りのためにはあえて文字を立てない」という戒めで、「経典の言葉から離れて、ひたすら坐禅することによって釈尊の悟りを直接体験する」という意味となります。
禅においては、文字や言葉を残す以外にも、禅師の全人格をそのまま弟子に伝えることが重要であるとされています。今日でも禅においては、中心経典を立てず、教外別伝を原則としています。仏教の悟りにおいて重要な姿勢は、仏心を持って智慧を学ばなければ悟りに至らないという考え方を著しています。
円爾の著作である「真禅融心義」や無住の「聖財集」にあるように禅と密の境地は一致するという主張につながっています。
円爾は、座禅修行と密教における最も根本的な瞑想法である阿字観との一致を説いています。
円爾は、「禅とは仏身なり、律とは外相なり、教は言説なり、称名は方便なり、これらの三昧みな仏心より出たり」とし、あらゆる行を実践する前提にある修行者の心を重視し、迷いのない仏と同じ「仏心」の状態を実現することを禅と呼んでいます。
当時の密教の実践では到達しえないと考えられていた悟りを実現するための心の在り方を説いたのが禅であったのです。そこに密を超える禅の価値が存在したと考えられます。
当時は、三密行がもたらす利益の実現に拘泥し、心の行をおろそかにすることで本来の悟りを目指すという目的を果たしえなくなっていたためと考えられます。
道元が「只管打坐」を説き、ひたすらに坐禅に打ち込むことを基本としたことに対して、曹洞宗第四代瑩山禅師は密教である加持祈祷をおこない、一般民衆への布教を図りました。
臨済宗においても、密教の教学や加持祈祷を大切にしながら、禅と密の融合を図りました。
そうすることが、一般民衆の布教には必要であったといえます。
今日においても、仏教では加持祈祷(祈願や厄払いなど)や法要供養が民衆の心をとらえ、生き方や生活習慣の中に根付いています。禅も人々の中に文化教養・礼儀作法として深く根付いているという事ができます。
禅、密の文化は、主に精神・心理・哲学・思想の文化という事ができます。そこに身体を動かすことの意味が加わってくると、現在や将来を生きる人間にとって、より深く必要な文化的価値を持ってくると考えられます。
関連のサイト
武蔵野大学における「スポーツと身体科学」