静岡産業大にスポーツ科学が2021年に開設されたことを記念して、オンライン特別講義「スポーツだからできること」が開設されました。
小林寛道静岡産業大学特別教授が、「スポーツ科学誕生の秘話とこれから」(15分間)と題して講義を行いました。その内容を静岡産業大学の紹介ビデオから見ることができます。
https://www.ssu.ac.jp/movie/20210821/
小林寛道特別教授と宮崎彰吾講師の対談
宮崎:私の専門はバイオメカニクスですが、先生の専門は、運動生理学、バイオメカニクス、発育発達学、トレーニング学、健康スポーツ科学、など大変幅広い分野を専門にされていますが、本当の専門領域はどのあたりにあるのでしょうか。
小林:大きなくくりでいえば、「体育学・健康スポーツ科学」だと思います。
私が大学1年生であったときに1964年東京オリンピックがありました。東大駒場キャンパスの陸上競技場がオリンピック陸上選手の練習場になり、世界のスポーツ選手を真近に見る機会に恵まれました。素晴らしい体やスピード、カッコよさに憧れました。
オリンピック選手に憧れましたが、実力的にはそこまでは手が届かないので、スポーツに関する研究が注目されるようにもなっていたので、スポーツに関する研究に興味を持つようになりました。
宮崎:小林先生のスポーツの専門種目はなんですか、
小林:小学生の頃は水泳もやっていましたが、高校・大学は陸上競技で中・長距離をやっていました。35歳からは、合気道を習い3段になりました。
宮崎:スポーツ科学というものはどのように発展してきたのですか。
小林:私が学生の頃はスポーツ科学という学問領域はまだ未成熟で、「体力測定」が主となった運動生理学や体力科学中心の学問でした。1964年の東京オリンピックを境に、「国民体力づくり運動」というものが盛んになり、学校の体育も「体力づくり」が最も重視されました。1990年代までは、この傾向がずっと続きました。
スポーツ科学が必要とされ始めたのは、1988年のソウルオリンピックの頃からで、日本選手がオリンピック大会やアジア大会でメダルが取れなくなり、競技力向上を図るためにスポーツ科学が必要だという機運が高まってきたからです。
2000年に国立スポーツ科学センターが設立され、ようやくスポーツ科学が科学として認められるようになった経緯があります。
宮崎:国立スポーツ科学センターができる前までは、スポーツ科学はどのように発展してきたのですか。
小林:財団法人日本体育協会、現在は公益財団法人日本スポーツ協会という名称になっていますが、ここに「スポーツ医科学委員会」という組織がつくられ、日本陸上競技連盟、日本水泳連盟など、各競技団体に「スポーツ科学委員会」がつくられ、多少の研究予算が配分されて、競技力向上に関する研究を行っていました。
私は、日本陸上競技連盟の科学委員長として1988年から13年間、陸上競技の競技力向上に関する研究を行ってきました。
宮崎:陸上競技連盟の科学委員長として、どんなことに取り組まれたのですか?
小林:まず科学委員会の組織作りに取り組みました。専門委員として、運動生理学、バイオメカニクス、心理学、栄養学、内科学、整形外科、などの分野で、スポーツの競技力向上研究に興味を持つ若手の研究者を集めました。スポーツで勝つためには、いろいろな分野の協力が必要なので、このような体制にしました。
宮崎:小林先生は総合的なスポーツ科学のあり方を重視されたのですね
小林:陸上競技連盟の本部長から要望されたことは、「マラソンでメダルを取りたい」という事でした。そこで取り組んだのは、夏のマラソンに強くなるための「暑さ対策」、と「高地トレーニング」です。当時の日本選手は、冬のマラソンには強かったのですが、オリンピックや世界選手権大会が真夏に行われるようになったために、暑さ対策が必要でした。
また、高地トレーニングは1968年のメキシコオリンピック大会が高地で行われるようになりましたが、高地民族が長距離種目に強いことから、高地トレーニングを日本選手に取り入れることにしました。しかし、どのようなやり方で高地トレーニングを行うべきか、その方法を確立するための研究が求められていました。
宮崎:研究の成果はどのような形で現れたのですか。
小林:1991年の東京で第3回世界陸上選手権大会が開催されましたが、この時に男子マラソンで谷口博美選手が金メダル、女子マラソンで山下佐知子選手が銀メダルを取りました。その翌年の1992年バルセロナオリンピックでは、男子マラソンで森下公一選手が銀メダル、女子マラソンで有森裕子選手が銀メダルを取りました。その後、アトランタオリンピックで有森裕子選手が銅メダル、2000年のシドニーオリンピックでは高橋尚子選手が金メダル、2004年のアテネオリンピックでは野口みずき選手が金メダル、という成績が続きました。とても良い成績が続きました。暑さ対策と高地トレーニングの組み合わせが成功したということが言えます。また、スポーツ栄養学にも力を入れて、医科学サポートを食事面からも支えることが良かったと思います。
マラソンの監督さんたちとも仲良くして、研究者と現場の監督さんたちがとても良いチームワークができていたことも成功の要因だと思います。
宮崎:最近は、陸上競技4×100mリレーなどでメダルが取れていますが、このあたりはどのようになっているのですか。
小林:1988年から1991年にかけて最も活躍した短距離選手はカール・ルイス選手です。カール・ルイス選手はもともと走り幅跳びの選手でしたが100m走にも才能を発揮し、1991年には、100m走9秒86の世界記録を作りました。
1991年世界陸上選手権大会が東京で行われる機会に、実際の競技場面で世界一流選手の競技技術をビデオ撮影して、これを技術的に解析する目的で、陸上競技連盟科学委員会とは別に「バイオメカニクス研究特別班」を総勢79名で組織して、実際の活動に当たることができました。こうした研究プロジェクトは世界初めてのことだったので、いろいろと準備が大変だったのですが、その後も「バイオメカニクス研究」は、大きな大会ごとに組織されて、その研究成果は膨大なものになっています。
世界一流競技者の技術を分析してみて様々なことが科学的に見えてきました。
その一つに、100m走単独では、なかなか決勝には残れないが、リレーであれば決勝に残れる可能性が見えてきました。バトンパスの時に生じる速度低下をなくすことができれば、400mリレーで0.8秒短縮でき、決勝に残れるという計算ができました。それ以後、日本選手はバトンパスの際に、速度低下を起こさない練習を繰り返すことによって、2016年リオデジャネイロ大会では男子4×100mリレーで銀メダルが取れました。
また、カール・ルイス選手やモーリス・グリーン選手(9秒78)の研究から、脚の筋力強化ばかりでなく、体幹深部筋すなわちインナーマッスルを強化すべきことが明らかになり、世界に先駆けて日本選手ではインナーマッスルの強化に取り組み始めました。
このことも日本のバイオメカニクス研究が進んでいる成果だといえます。
最近、山縣亮太選手が100m9秒95の日本新記録を出しました。9秒台を記録している日本選手は4人いますが、わたくしの個人的な印象では、もっと早い時期に9秒台の選手が出てもよかったのではないかと感じています。
宮崎:静岡産業大には、小林先生が開発された「認知動作型トレーニングマシン」が設備されていますが、認知動作型トレーニングマシンというものは、どのようなものなのですか。
小林:1991年世界陸上でのカール・ルイス選手の技術を分析してみると、それまで日本人選手が考えていた走りの技術とはかなり違っていました。カール・ルイス選手は、骨盤の深いところのインナーマッスルを有効活用して素早く脚全体を動かしていることが分かったのです。この技術を多くの人に身に着けてもらうように働きかけたのですが、どうしても言葉や解説だけではうまく理解してもらえません。そこで、実際にインナーマッスルの有効活用を体験できるトレーニングマシンを開発することを思いつき、マシン開発に取り組み始めました。
その結果、インナーマッスルを有効活用することは、陸上短距離選手ばかりでなく、あらゆるスポーツ選手に必要なことであり、高齢者が元気に歩いたり、生活するうえでも大切であることがわかってきました、認知動作型トレーニングマシンは、インナーマッスルを有効活用するための「動作学習型トレーニングマシン」だと位置づけられています。
静岡産業大学では、「認知動作型トレーニング論」という授業名で授業を行っています。
宮崎:今日は、貴重なお話をありがとうございました。
小林寛道静岡産業大学特別教授が、「スポーツ科学誕生の秘話とこれから」(15分間)と題して講義を行いました。その内容を静岡産業大学の紹介ビデオから見ることができます。
https://www.ssu.ac.jp/movie/20210821/
小林寛道特別教授と宮崎彰吾講師の対談
宮崎:私の専門はバイオメカニクスですが、先生の専門は、運動生理学、バイオメカニクス、発育発達学、トレーニング学、健康スポーツ科学、など大変幅広い分野を専門にされていますが、本当の専門領域はどのあたりにあるのでしょうか。
小林:大きなくくりでいえば、「体育学・健康スポーツ科学」だと思います。
私が大学1年生であったときに1964年東京オリンピックがありました。東大駒場キャンパスの陸上競技場がオリンピック陸上選手の練習場になり、世界のスポーツ選手を真近に見る機会に恵まれました。素晴らしい体やスピード、カッコよさに憧れました。
オリンピック選手に憧れましたが、実力的にはそこまでは手が届かないので、スポーツに関する研究が注目されるようにもなっていたので、スポーツに関する研究に興味を持つようになりました。
宮崎:小林先生のスポーツの専門種目はなんですか、
小林:小学生の頃は水泳もやっていましたが、高校・大学は陸上競技で中・長距離をやっていました。35歳からは、合気道を習い3段になりました。
宮崎:スポーツ科学というものはどのように発展してきたのですか。
小林:私が学生の頃はスポーツ科学という学問領域はまだ未成熟で、「体力測定」が主となった運動生理学や体力科学中心の学問でした。1964年の東京オリンピックを境に、「国民体力づくり運動」というものが盛んになり、学校の体育も「体力づくり」が最も重視されました。1990年代までは、この傾向がずっと続きました。
スポーツ科学が必要とされ始めたのは、1988年のソウルオリンピックの頃からで、日本選手がオリンピック大会やアジア大会でメダルが取れなくなり、競技力向上を図るためにスポーツ科学が必要だという機運が高まってきたからです。
2000年に国立スポーツ科学センターが設立され、ようやくスポーツ科学が科学として認められるようになった経緯があります。
宮崎:国立スポーツ科学センターができる前までは、スポーツ科学はどのように発展してきたのですか。
小林:財団法人日本体育協会、現在は公益財団法人日本スポーツ協会という名称になっていますが、ここに「スポーツ医科学委員会」という組織がつくられ、日本陸上競技連盟、日本水泳連盟など、各競技団体に「スポーツ科学委員会」がつくられ、多少の研究予算が配分されて、競技力向上に関する研究を行っていました。
私は、日本陸上競技連盟の科学委員長として1988年から13年間、陸上競技の競技力向上に関する研究を行ってきました。
宮崎:陸上競技連盟の科学委員長として、どんなことに取り組まれたのですか?
小林:まず科学委員会の組織作りに取り組みました。専門委員として、運動生理学、バイオメカニクス、心理学、栄養学、内科学、整形外科、などの分野で、スポーツの競技力向上研究に興味を持つ若手の研究者を集めました。スポーツで勝つためには、いろいろな分野の協力が必要なので、このような体制にしました。
宮崎:小林先生は総合的なスポーツ科学のあり方を重視されたのですね
小林:陸上競技連盟の本部長から要望されたことは、「マラソンでメダルを取りたい」という事でした。そこで取り組んだのは、夏のマラソンに強くなるための「暑さ対策」、と「高地トレーニング」です。当時の日本選手は、冬のマラソンには強かったのですが、オリンピックや世界選手権大会が真夏に行われるようになったために、暑さ対策が必要でした。
また、高地トレーニングは1968年のメキシコオリンピック大会が高地で行われるようになりましたが、高地民族が長距離種目に強いことから、高地トレーニングを日本選手に取り入れることにしました。しかし、どのようなやり方で高地トレーニングを行うべきか、その方法を確立するための研究が求められていました。
宮崎:研究の成果はどのような形で現れたのですか。
小林:1991年の東京で第3回世界陸上選手権大会が開催されましたが、この時に男子マラソンで谷口博美選手が金メダル、女子マラソンで山下佐知子選手が銀メダルを取りました。その翌年の1992年バルセロナオリンピックでは、男子マラソンで森下公一選手が銀メダル、女子マラソンで有森裕子選手が銀メダルを取りました。その後、アトランタオリンピックで有森裕子選手が銅メダル、2000年のシドニーオリンピックでは高橋尚子選手が金メダル、2004年のアテネオリンピックでは野口みずき選手が金メダル、という成績が続きました。とても良い成績が続きました。暑さ対策と高地トレーニングの組み合わせが成功したということが言えます。また、スポーツ栄養学にも力を入れて、医科学サポートを食事面からも支えることが良かったと思います。
マラソンの監督さんたちとも仲良くして、研究者と現場の監督さんたちがとても良いチームワークができていたことも成功の要因だと思います。
宮崎:最近は、陸上競技4×100mリレーなどでメダルが取れていますが、このあたりはどのようになっているのですか。
小林:1988年から1991年にかけて最も活躍した短距離選手はカール・ルイス選手です。カール・ルイス選手はもともと走り幅跳びの選手でしたが100m走にも才能を発揮し、1991年には、100m走9秒86の世界記録を作りました。
1991年世界陸上選手権大会が東京で行われる機会に、実際の競技場面で世界一流選手の競技技術をビデオ撮影して、これを技術的に解析する目的で、陸上競技連盟科学委員会とは別に「バイオメカニクス研究特別班」を総勢79名で組織して、実際の活動に当たることができました。こうした研究プロジェクトは世界初めてのことだったので、いろいろと準備が大変だったのですが、その後も「バイオメカニクス研究」は、大きな大会ごとに組織されて、その研究成果は膨大なものになっています。
世界一流競技者の技術を分析してみて様々なことが科学的に見えてきました。
その一つに、100m走単独では、なかなか決勝には残れないが、リレーであれば決勝に残れる可能性が見えてきました。バトンパスの時に生じる速度低下をなくすことができれば、400mリレーで0.8秒短縮でき、決勝に残れるという計算ができました。それ以後、日本選手はバトンパスの際に、速度低下を起こさない練習を繰り返すことによって、2016年リオデジャネイロ大会では男子4×100mリレーで銀メダルが取れました。
また、カール・ルイス選手やモーリス・グリーン選手(9秒78)の研究から、脚の筋力強化ばかりでなく、体幹深部筋すなわちインナーマッスルを強化すべきことが明らかになり、世界に先駆けて日本選手ではインナーマッスルの強化に取り組み始めました。
このことも日本のバイオメカニクス研究が進んでいる成果だといえます。
最近、山縣亮太選手が100m9秒95の日本新記録を出しました。9秒台を記録している日本選手は4人いますが、わたくしの個人的な印象では、もっと早い時期に9秒台の選手が出てもよかったのではないかと感じています。
宮崎:静岡産業大には、小林先生が開発された「認知動作型トレーニングマシン」が設備されていますが、認知動作型トレーニングマシンというものは、どのようなものなのですか。
小林:1991年世界陸上でのカール・ルイス選手の技術を分析してみると、それまで日本人選手が考えていた走りの技術とはかなり違っていました。カール・ルイス選手は、骨盤の深いところのインナーマッスルを有効活用して素早く脚全体を動かしていることが分かったのです。この技術を多くの人に身に着けてもらうように働きかけたのですが、どうしても言葉や解説だけではうまく理解してもらえません。そこで、実際にインナーマッスルの有効活用を体験できるトレーニングマシンを開発することを思いつき、マシン開発に取り組み始めました。
その結果、インナーマッスルを有効活用することは、陸上短距離選手ばかりでなく、あらゆるスポーツ選手に必要なことであり、高齢者が元気に歩いたり、生活するうえでも大切であることがわかってきました、認知動作型トレーニングマシンは、インナーマッスルを有効活用するための「動作学習型トレーニングマシン」だと位置づけられています。
静岡産業大学では、「認知動作型トレーニング論」という授業名で授業を行っています。
宮崎:今日は、貴重なお話をありがとうございました。