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月刊誌「体育の科学」70巻発行にちなんで

この稿は、「体育の科学」(杏林書院発行)70巻発行にあたって、記念に執筆した原稿をベースに2022年8月に手を加えたものである。
月刊誌「体育の科学」の発刊は、1950年の日本体育学会の創設や、新制大学に保健体育科目が取り入れられたことと深い関連がある。そうした歴史的な経緯を含めて、体育・スポーツ科学の発展初期の状況や発展に深いかかわりを持つ人(先生方)について、私自身の身近な視点から随筆風に記述したものである。

「体育の科学」70巻発行と体育・スポーツ科学の発展

                 小林寛道 東京大学名誉教授

はじめに
月刊誌「体育の科学」(杏林書院発行)は、学術誌「体育学研究」(日本体育学会発行)と双璧となるものとして発刊され、2020年1月で70巻となる。人間の年齢で言えば円熟味や老化を合い交えた頃であるが、学問研究というものは、ますます新鮮さを発揮し、毎年若葉を美しく茂らせ、数百年は生きるであろう樹木のように幹や枝ぶりが味を出してくる頃である。
 日本体育学会50回記念大会のシンポジウム(国際、学術、共催シンポジウム)の全内容を記録した「21世紀の体育・スポーツ科学の発展 全3巻」)(杏林書院発行 2000)の表紙には、50年を経過した樹木の姿がデザインされている。その後20年を経過した今日、更にどのような枝ぶりや幹の姿になっていくのか楽しみである。樹木の健康度をみる時は、根のはりかた、幹や枝ぶり、葉の付き方、色艶などに目を配らなければならない。

1.新制大学の発足と体育研究
体育・スポーツ科学が飛躍的な発展を遂げることができたのは、新制大学の中に体育科目が取り入れられ、大学体育の教員たちが「研究」に取り組んだことにある。特に、一般教育科目と専門科目のそれぞれに体育教員が配置され、非常に大きな人数を含む職能的(体育指導者)な研究者集団が形成されたことが大きい。

今日においても「現場・実践」と「研究」の融合、または両者の乖離がしばしば論点とされているが、本来、日本体育学会は、職能者と研究者の混合体であり、一人2役を発揮しながら「研究」に取り組む姿を原姿としているので、両者を完全に分離させずに融合体として生きていくことが組織体(学会)の生命力を高めるといえよう。
近年では、大学体育の教員の補充が難しくなっており、今後の展開には工夫が必要であるが、体育・スポーツ科学には、健康やスポーツ活動を支える源としての価値(需要)が高まっており、大学や研究機関を核とした新しい展開が求められる。また、体育・スポーツに関する民間力(各種健康スポーツ教室、ジム、塾など)の広がりもみられるようになっている。それらの活動の科学的根拠として、需要に応えられる正しく新鮮な知識や研究成果が求められるといえよう。

2.大学の必修科目としての体育と加藤橘夫教授
戦後、新しい学制(1950)が形作られたときに、社会科学、人文科学、自然科学を必修科目とした骨組みの中に、語学と体育がいわば滑り込みのような形で必修科目として取り入れられた
新制大学に、体育科目が一般教育科目として必修単位の中に組み込まれた経緯については、加藤橘夫先生(東大名誉教授)(1907~1992年)から、何回も言い聞かされてきた。
加藤橘夫教授は、東京帝国大学文学部を卒業した後、厚生省体育官となり、新学制発足時は、東大教養学部(駒場キャンパス)の教授となり、体育・スポーツ科学の分野とともに、体育行政の面でも大いに力を発揮された。
オリンピックは、スポーツ競技のほかに、スポーツに関する学術的な国際交流も行うべきであるという考え方に立ち、1964年東京オリンピック開催の年に、第1回国際スポーツ科学会議の組織委員長としてスポーツ科学の発展の礎を築いた。このことは、2020年東京オリンピック開催に合わせて、2020横浜スポーツ学術会議の開催として受け継がれている。
 加藤橘夫先生の自慢話の一つは人事である。東大教育学部教授に猪飼道夫先生(1913~1972)、東京大学教養学部に黒田善雄先生(スポーツ医学)を招いたことである。
黒田善雄先生は、財団法人日本体育協会のスポーツ科学研究所の所長として、スポーツ医・科学研究の推進役を果たし、その延長線上に2000年に創設された国立スポーツ科学センター(北区西が丘)がある。

3.体育は科学か? 大学カリキュラムの位置づけ 
日本体育学会が組織され、大学教育としての体育授業や研究はどうあるべきかが真剣に討議された。学会としては、学術論文誌が発刊されなければならないので、「体育学研究」が年1回発行されることになった。しかし、これだけでは科学としての体育学を広く理解し、大学体育科目の指導者の資質を高めるためには不足であることから、月刊誌「体育の科学」が発行されることになった。体育の科学は、科学としての体育を理解する啓発書としての役割を持たせ、その編集方針は、科学的な内容とすることが意図された。

「体育には科学性が必要である」という見解は、当時としては極めて先端的な考え方であった。しかし、多くの人にとって、「体育の科学化」といっても、なかなか理解しがたいものがあった。「体育は、身体を通しての教育である」という考え方は、体育の大前提ともいえる考え方であり、体育は、教育の枠内にある教科目であった。
「科学的である」、「科学的でない」、という語は、その事象を「肯定する」「否定する」という意味合いにまで使われた。「科学」「科学的」という概念は、学問分野の最も高い上位概念として掲げられ、「体育」も「科学的」な内容を高めなければ、学術的な立場を保持することが不可能であった。
「体育は科学か?」「体育は、アカデミズムの府である大学に必要か?」「体育が必修単位科目である必要性ない」という論議が、新制大学発足後に、しばしば取り上げられ、それらは「大学体育の危機」とよばれ、10年周期で大学体育関係者を悩ませた。
 大学大綱化におけるカリキュラム作成において、体育は必修科目でなくても良く、各大学でそれを決めればよいことになった。東京大学教養学部では、大綱化が実施される1年前からカリキュラム作成特別委員会(委員長 渡辺守章教授・フランス文学者、演出家)で検討がなされ、1年間は必修、2年目は選択科目とした。東京大学が体育実技を1年間必修としたことは、多くの国立大学に影響をもたらした。渡辺守章教授は演出家として多彩な能力を発揮されたが、「保健体育」は「スポーツ・身体運動」という名称変更を提案された。この大幅な一般教育科目のカリキュラム改編は、東大では新制大学制度が始まって以来初めてことであり、渡辺守章委員会は、「革命評議会」(イランでの国政改革)だと評して「思い切った改革」を行った。この新カリキュラムに基づいて実際の時間割を作成するのが「教務委員会」であった。果たして現実に実行可能かどうか大きな問題であった。
 この時の教務委員会委員長が体育科の浅見俊雄教授であった。浅見教授は、非常に優れた頭脳の持ち主であると認められた人で、サッカーのインターハイで浦和高校が全国制覇をした時の主将であり、国体、関東大会でも優勝。浅見主将の下で浦和高校は公式戦28試合、練習試合24試合の合計52試合無敗であり、現役で東大の入学試験に合格したという英才である。
新カリキュラムに基づく時間割を作成するにあたり、理系の大西教授がコンピュータを用いて処理しようと努力したが、条件があまりにも複雑であり、また、文部科学省の示す細々とした教務事項にも精通していなければならないことから、匙を投げださざるを得なかった。結局、人口頭脳AIとの勝負で浅見先生の人脳が勝ったということであろう。体育の浅見先生は「すごい」という評判が、ほかの教科の先生方からもあがり、浅見先生の真骨頂が発揮された一面であった。浅見先生は、サッカーのFIFA国際審判委員として主審を数多く務め、東大定年後は、国立スポーツ科学センターの初代センター長としてスポーツ科学の発展に尽くされた。

4.「体育の科学」の編集
日本体育学会は、発足当初から、学術集団(研究者集団)としての性格と職能集団(体育教員集団)という2つの性格を備えており、大学体育を担当する教員のほとんどは、日本体育学会に所属し、その研究者集団としての専門分科会(のちに専門領域)に所属する形をとった。専門分科会は、研究手法によって分けられ、人文科学と自然科学に分けられた。
また、「体育方法」「体育科教育」など、体育教育にかかわる専門分科会が作られた。
雑誌「体育の科学」は、体育の科学を専門家が、その分野を専門とする人や専門外の人も含めて理解を深める目的で編集されてきた。
「体育の科学」は、日本体育学会の発足と時を同じに発行された。体育の科学の発足に当たっては、杏林書院の初代社長太田四郎氏の功績が大きい。当初は赤字続きの発行であったという話を聞いている。2代目社長は太田博氏、3代目が現在の太田康司氏である。
体育の科学は、体育系大学では、学生も購入する書物であった。体育の科学によって育てられた学生も多いと思う。
私は、3回の交代を含めて合計13年間にわたって編集委員長(委員を含めると20年以上)となったが、執筆されたすべての記事に目を通して、自らの体育の科学に対する考え方や目を養った。
ともすると、文科系の読者は理系の記事に目を通さず、理系が専門の人は文系の記事に目を通さない傾向がある。若い研究者は、研究論文の執筆に集中せざるを得ないので、勢い、他分野の事柄に目を向けないようになってしまうが、これは好ましい傾向ではない。
「体育の科学」の編集会議は、意見百出である。特集案を考える場面になると、いろいろな考え方が出てきて、これをまとめるのが一苦労である。

5.「体育の科学」の江橋慎四郎教授と宮下充正教授
特集案には、いろいろな意見が出てくるが、初期の体育の科学の特集案をまとめるのが最も得意であった先生が、江橋愼四郎先生(1920~2018)(東大教授 鹿屋体育大学初代学長)であったと聞いている。江橋慎四郎先生は、「体育の科学」の編集にとても力を入れてくれた先生で、「厚生の指標」などの統計資料を大切に考えて、その当時の体育の科学には、毎年の統計資料が載せられている。
江橋先生は、「体育の科学」の編集方針について、幅広い視野で編集を取り扱わなければならないこと、読者の層に合わせた編集を行うことが必要であること、などの編集方針を貫かれた。江橋先生の門下生として指導を受けたのが、現在の編集長(2022年現在)である海老原修先生(横浜国立大学教授,現・尚美学園大学教授)である。
 江橋慎四郎先生は、太平洋戦争の学徒出陣壮行会(1943年神宮外苑競技場)で「生等(せいら)もとより生還を期せず」と答辞を読み上げたその人である。江橋先生は90歳を超えた頃からそのことについて重い口を開くようになられた。先生の口から直接「東大の運動会総務の委員をしていたことから持ち回りで代表に選ばれたようだ」と伺ったことがある。江橋先生は、東大水泳部のOBで、戦後日本水泳連盟主催の神宮プールで行われた日米対抗水上競技会や日本選手権大会で、「第1のコォース〇〇君」という独特の名調子で選手紹介のアナウンスの行っておられた。国立の単科大学である鹿屋体育大学が鹿児島県鹿屋市に設立された時、初代学長としてその発展に尽くされた。

宮下充正先生(東大名誉教授)は「体育の科学」の編集長として活躍された。宮下先生の編集長時代の特集案では、「・・・を考える」というタイトルの特集が多い。宮下先生は、80歳代後半の年齢になられても、「体育の科学」に時々原稿を投稿されている。(2022年現在)。
宮下先生は、「考える」ことを大切にされている。俗にいう「もっと頭を使え」ということである。宮下先生の体育に関する考え方は明快であり、理系的な切り口がさえている。言い換えると、運動は、パワーによって分類され、「ロウパワー、ミドルパワー、ハイパワー」によってパワーが発揮されるという物理的なもので、あっさりと切り捨てるものは切り捨てるというものの見方である。私は、若いころの宮下先生のものの考え方に接して、「よくも、このように大胆に物事を整理し、切り捨てられるものだ」と感心した。それは、理系的な視点が強く打ち出されている。体育の文科系的な論議はあまり好まれなかったようだ。しかし、優しい口調で物事を説く文章が特徴的である感じられる。

6.キネ研からバイオメカニクス学会へ
 宮下先生の真骨頂は、キネシオロジーの研究分野を「バイオメカニクス」という考え方にした点にあると考えている。
キネシオロジーという分野は、機能解剖学や動作学など、その源流は解剖学と力学である。
私が学生の頃は、キネシオロジーという分野では、宮畑虎彦(日本女子大学)、高木公三郎(京大)、小林一敏(順大)、渋川侃二(筑波大)、金原勇(きんぱら いさむ)(筑波大)という諸先生がおられた。キネシオロジー専門分科会では、運動力学の渋川先生、小林一敏先生、機能解剖学の宮畑先生、高木先生、運動技術に関連した体力トレーニングの金原先生がおり、当時は「キネ研」と称して、東大の猪飼道夫先生をリーダーとして、それぞれの門下生が金曜日の夕刻に集まって研究会を催していた。金原先生の門下生で、当時学生の高松薫先生(後に筑波大学教授)、三浦望慶先生(後に上越教育大学教授)がキネ研の世話役となっていた。
1970年代になると、名古屋大学の松井秀治教授をリーダーとした名古屋グループが台頭してくる。松井秀治先生の名古屋大学には、浅見俊雄、宮下光正、三浦望慶の諸先生が助教授、講師として近隣の大学の先生たちと研究会を開催していた。私は、1970年に名古屋大学教養部に文部技官教務員として採用され、この研究会の下働きも行うことになった。

松井秀治先生は、東大駒場体育科で助手として勤めた10年間のうちに、東大医学部の福田邦三先生の教室に通い、医学部出身者ではない医学博士第1号を東大医学部から授与され、その後39歳で名古屋大学教授となり、30歳代教授として世の中に注目される存在となった。松井秀治先生は、福田邦三先生を深く尊敬し、猪飼道夫先生と無二の親友であった。
松井先生の学位論文は、身体の各部位を立体図形としてとらえ、それぞれの部位の重心を求め、それらを幾何学的に合成して身体重心を求めるというものであった。ある動作を行った時の写真から、各部位の重心点を求め、これを各部位の質量比に従って合成するという合成重心の考え方は斬新であり、福田先生は、この考え方は運動分析の手法として役立つと考え、学位を授与された。この写真による幾何学的な合成身体重心の手法は、三浦望慶氏と池上康夫氏(後に名古屋大学教授)によって、「質点重心の算出法」が開発され、コンピュータ画面で身体の部位の座標を求めてこれを松井の係数に基づいて計算すると容易に身体重心が求められるという画期的な方法が開発された。

運動に伴う身体重心の移動については、身体各部位の重心の移動をとらえなければならない。現在では、パソコンで容易に身体重心の移動を図解してみることができるが、身体各部位の重心をどのように算出するかについて、1970年代には方法が確立していなかった。
この方法をスポーツ科学の分野で確立したのが、アメリカのイリノイ大学James G. Hay(J.ヘイ)教授である。
 J.Hay氏は、アメリカで教授になる前は、母国オーストラリアで身体重心の算出法を研究していた。松井教授の所にオーストラリアから手紙が届いた。その内容は、松井の係数について、その算出法と係数について問い合わせるものであった。
私は、松井教授の助手の役割もあり、ただでさえ難解な身体重心算出法の内容を英文に翻訳しながら、内容を何とか理解し、松井の係数の算出法などを英文に直してHay氏に送った。
 松井の係数は、その根拠として、死体の各身体部位の質量から求めたドイツの研究者フィシャー値が用いられており、立体的な図形から算出する配分比などに松井氏のオリジナリティが含まれていた。
J.Hay氏からは、丁寧なお礼の手紙が来た。きっとHay氏の研究に役立っていることがあったと思う。やがてHay氏は、アメリカで教授職を得て移住した。そこに阿江通良氏が留学した。阿江通良氏(後に筑波大学教授・日本体育大学教授)は、金原勇教授の門下生で、筑波大学の体育学群の博士課程で第1号の学位(体育学)を取得した人である。日本陸上競技連盟科学委員長として、日本選手権や国際競技会の現場でバイオメカニクス研究を行う活動を継続させ、多くの後進を育て、スポーツ技術のバイオメカニクス研究で活躍されている。

7.大阪体育大学の加藤橘夫学長と大島鎌吉氏
 加藤先生は、1966年に東京大学を定年退官され、新設の大阪体育大学体育学部長として赴任されたが、その後もたびたび大阪茨木市の加藤先生宅を訪問させていただき、様々に学問や体育界の事情などもお話しいただいた。私が当時あまり人気のなかった教育学部体育学健康教育学科に第1希望で進学したこともあって、期待されたようにも感じられた。1986年に私は名古屋大学から東京大学駒場キャンパスに転勤し、様々な大学改革の嵐になかで、大学体育のあるべき制度や研究・教育施設の在り方、カリキュラムなどを考えるときに、加藤先生や名古屋大学教授であった松井秀治先生(1920~2009)から受けた体育に対する考え方が意識の奥底に存在していたといえる。

 その加藤先生の盟友ともいえる人が大島鎌吉氏(1908~1985)である。
大島鎌吉氏のことは、体育・スポーツ科学の発展の礎を築いた人として、研究者の間でもっと知られても良いと思われる。
大島鎌吉氏は、「体育の科学」にも論文を数編執筆されているが、学問的な業績にかかわらず、日本のスポーツ科学の発展の基礎を築いた重要な人である。大島鎌吉氏には直接2回ほどしかお会いしていないが、改めてその足跡をたどると、その功績の大きさに驚くばかりである。
 近年、伴 義孝氏(関西大学教授)によって、「大島鎌吉のオリンピック運動」(その三、四、五)(文献1,2,3)という論文が関西大學文學論集、66巻(2016)、67巻(2017年)、68巻(2018)に掲載されているが、その内容は圧巻であり、きわめて力作である。
今日のスポーツやスポーツ科学が、いかなる経緯で戦前から戦後の日本の復興と発展に結びついているか、青少年の育成をどのように考え、それが実践されたかということについて知ることができる。
 大島鎌吉氏は、1932年ロサンゼルスオリンピック陸上三段跳で南部忠平氏の金メダルに次いで3位入賞、1936年ベルリンオリンピックでは, 田島直人氏の金メダルについで6位に入賞しているが、実力的には金メダルが期待され、当時(1934年)の世界記録(15m82)を樹立した。1939年に国際学生競技大会(ユニバーシアード大会)の監督(団長)としてドイツ、オーストリアを訪問中に第2次世界大戦が勃発した。選手は帰国させたが、自身は大阪毎日新聞の特派員(従軍記者)としてドイツ戦線を取材し続け、1945年のベルリン陥落を見届けた。
 ヒトラー政権下で行われたベルリンオリンピックの組織委員会事務総長であったカール・ディーム(Carl  Diem 1882~1962)(ケルン体育大学初代学長)に私淑し交流した。
 大島氏は、「ディーム博士は、1930年頃、すでに生理学、生物学的視点から体育・スポーツを究明したばかりでなく、人間と人間完成の観点から体育・スポーツの形態的、現象的なものの奥にある本質的なものを指摘し、これを教育学的に展開して、精神的、倫理的、形而上学的に組み立てるという事業を成し遂げたのである」(文献5)と記している。
戦後は、毎日新聞の政治部から運動部の記者となり、日本のスポーツ界の復興に尽くした。特に、ドイツ仕込みの科学的トレーニング理論の重要性を説き、「スポーツ科学者研究グループ」を発足させ、日本体育協会東京オリンピック選手強化対策本部長、1964年東京オリンピック日本選手団団長を務めた。その成果は金メダル16個の成果となっている。陸上界きっての理論派で、堪能なドイツ語を生かし、翻訳書も多い。最新鋭のトレーニング理論を取り入れ、日本陸上界の近代化に大きな役割を果たした。日本体育協会(現・日本スポーツ協会)に、指導者養成制度を発足させた。
 1964年の東京オリンピックは、「日本のスポーツ元年」であり、「競技力向上」「国民スポーツの振興」が新しい日本に課せられた命題であるとした。東京オリンピックの後に起こった「国民体力づくり運動」や「みんなのスポーツ(Sport for All)」の仕掛けは大島氏の発案であった。

日本体育学会も、2021年4月から、「一般社団法人 日本体育・スポーツ・健康学会」というように名称変更された。これらの名称変更は、それぞれの時代の流れの中で受けとめられるイメージや意識、哲学、科学的内容の発展などによって変化していくことによるものであろう。


参考文献

1.伴 義孝:大島鎌吉のオリンピック運動(その三). クーベルタン布石について. 関西大學文學論集 66(2):23--62.2016
2.伴 義孝:大島鎌吉のオリンピック運動(その四). いわゆる「運動」の捉え方について. 関西大學文學論集 67(1):49-90. 2017
3.伴 義孝:大島鎌吉のオリンピック運動(その五). 一九六二年随想「もう一度省みよう」の展望について. 関西大學文學論集 68(1):63-106. 2018
4.日本体育学会第50回記念大会特別委員会編:21世紀と体育・スポーツ科学の発展 1,2,3巻. 杏林書院 2000
5.大島鎌吉:カール・ディーム博士の人と業績.体育の科学 5(11,12):426-430.1955.



体育の科学 2020年1月号 掲載記事に加筆(2022年8月)