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運動と体力・知力・徳力

運動と体力・知力・徳力                       

                        小林寛道

100歳をこえる超高齢者が6万5千人、90歳以上の高齢者が100万人をこえる現代社会において、60歳をすぎた30~40年間をどのように生きるかということが、個人にとっても社会にとっても重要な意味を持ってきている。
人生をおよそ30年間単位でくくるとすれば、はじめの30年間は学校および社会での勉学の期間、次の30年間は勤労の期間、60歳をすぎた残りの30年間は勤労とその後の充実の期間、ということが出来よう。
それぞれのライフスパンをさらに細かくわけて論じることは可能であるが、全体を通して、「長い人生を如何に生きるべきか」という「生き方の質」(Quality of Life)が重要な意味を持つ時代となっている。具体的にいえば、生き方の質の内容には、「経済的に豊かである」「健康である」、「自由に動ける」、「脳の働きがしっかりしている」、などの要素が大きく影響している。
近年、健康を保つために運動することが、生涯を通じて必要であるということについての社会的な認識は高まってきたが、日常生活で、身体を動かす必要度は少なくなればなるほど、意識して身体をうごかすことに心がけることが必要となっている。こうした「心がけ」は、「生き方の質」に大きな差異をもたらすようになる。生活のなかに運動を取り組み、それを習慣化することが理想とされている。

東京大学生涯スポーツ健康科学研究センターでは、「寝たきり」予防とコミュニティーの再生を目標に掲げ、千葉県柏市の市民を対象に、生活密着型のトレーニング施設である「十坪ジム」の普及と指導にあたってきた。(20007年5月では、市内10箇所の「十坪ジム」でおよそ600~700人の高齢者を対象に運動指導を行っている。2017年4月では1750名となっている)
トレーニングに通う人のうち、90歳代の人も混じっている。こうした大勢の高齢者を対象に運動の指導を行ってみると、実にさまざまな人間模様に接することが出来る。運動することに対しても、さまざまな考え方が存在する。好ましい考え方を持った高齢者や、あまり好ましくない考えを持った高齢者などがいる。
不思議なことに、「運動」というものに対する「態度」や「考え方」には、人間の性格というよりも、むしろ「人間の徳」というものの違いが現れるのではないかと感じられることがある。
そこで、「知育、徳育、体育」という言葉が浮かんできた。

体育を論じる時には、人格の陶冶や、社会性の育成、スポーツマンシップなどの道徳性についても言及されることが多い。これは、身体を動かして運動するという行為が、2次的な価値を生じさせることを意味しているためであろう。
これまで、あまり「人間の徳」というものを深く考えたことは無かったが、さまざまに高齢者に接してみると、改めて身体を動かして運動するという行為が、「人間の徳」を養うということと深くかかわっているのではないかと考えるようになってきた。
学校教育の目的を調べなおしてみると、現在の日本における学校教育は、「知識の伸張(知育)、道徳の伸張(徳育)、身体の伸張(体育)」の3つを中核としてとらえられている。
そもそも、「知育、徳育、体育」という言葉は、近代教育の基本的枠組みを形成している考え方であり、1860年に発表されたスペンサー(H。Spencer)の「教育論」に収められている3育思想にもとづいている。
スペンサーは、彼の思想を集大成した「倫理学原理」に表わしているように、社会および人間の最高目的を、「完全な生活」「個人的・社会的幸福」が実現された状態にあると考えていた。そして、教育は「完全な生活」への準備過程であると規定した。
人間に備わっている基本的な諸能力を「知性、徳性、身体性」の3つの領域に分け、諸能力の育成は、最高目標を実現させるために必要なものであり、相対的な価値基準に基づいた「正しい行為」を確立させなければならないとした。
正しい行為をおこなうことの目的や方向性をしっかりと認識することが出来る「知性」の確立、正しい行為をおこなうための動因の形成や、感情の制御を行うことができる「徳性」の育成、および人間存在の基盤として「身体」の育成が図られなければならない、としている。
 身体が調和の取れた状態である「健康」な状態を実現させるためには、身体の内外の行為指針である「欲求」や「感覚」にもとづく身体の育成が重要であり、これらは自然な行為でもあるが、基本的に科学的原理にもとづく行為の指針にもつながるものである。
 これら「知・徳・体」の3つの領域の育成過程においては、「調和」が重要であり、特定の領域が必要以上に強調されると、他の領域に悪影響を及ぼし、結果的に全体存在としての人間の育成をさまたげられる。(参照:ハーバード・スペンサー(三笠乙彦訳)「知育・徳育・体育論」明治図書 1969)。

ここで考えておかなければならないのは、なぜ「徳」というものが「身体」と密接な関係を持っているのかということであろう。
 まず、スペンサーが示した「徳育」とは、モラル教育(moral education)を意味し、「正しい行為の動因としての徳性という内的行為規範の確立を図ることを目的とする」という。
「行為を誘発する感情」というものを「徳性」としてとらえ、最高目的を達成するための一領域として位置づけている。
 しかし、広い意味で、人間の持つ「徳」というものは、必ずしも、こうした「目的指向型の感情」といった内容ばかりではないはずである。
「徳」という言葉の内容を、もう少し深く考えてみる必要があろう。
西洋古典世界の基本的な「徳」(cardinal virtures)とは、「思慮、叡智」、「正義」、「忍耐・勇気」、「節制」である。
これは、ギリシア的な教養に由来するもので、プラトンの主著「国家」でこれらの「徳」が議論された。徳の概念は、古代の哲学において共通の話題であったし、キケロによって採用されたので、キリスト哲学者に広く受け入れられ、カトリック神学の要諦になった。
ギリシアでは、身体の「徳」が論じられた。プラトンは「徳」とは、本性を意味し、身体の徳とは、良く消化し、良く動くことの有能性を意味した。徳は磨くことによって有能性を顕現することから、身体の徳である「健康」「美」「体力」などを有効に発揮できるようにするためには、身体の「看護」と「修練」が必要であるとした。(最新スポーツ科学辞典:平凡社)
ギリシア人は、身体の徳を磨くことを「身体修練」と名づけ、特別の意味をもたせていた。この考え方は、アリストテレス、ガレノスにも継承されていった。アリストテレスは、人はこれらの徳を完全に追及するために、すべてを習得しなければならない、といった。
キリスト教的な徳は、神の前における「人間の魂と行為の良さ」を意味し、その中心は、「信仰、希望、愛」とされる。
中世時代にそれまでの「徳論」を学問的に体系付けたのは、トマス・アクイナスであった。かれは、プラトン、アリストテレスを引き継ぎ、徳を「魂の能力が持つ善き習性」としている。

それは人間本性を完成させ、同時に善き働きの源泉とされる。徳は、知性的徳と倫理的徳に大別され、知性的徳には、「智恵、知性、学知」の徳が、倫理的徳には、4つの基本的徳(枢要徳)として、「正義、賢慮、剛毅、節制」にまとめられる。
以上の獲得的徳に対して、「神の恩恵として人間の心に注ぎ与えられる注賦的徳こそ、信仰、希望、愛の神学的徳である」、としている。(岩波キリスト教辞典 大貫 隆 ほか編:岩波書店)
中華文明における「徳」とは、中国の哲学、特に儒教において重要な概念である。
「甲骨文字」では、大きな目の上に装飾をかぶった形であり、司祭王の目による呪力で土地を抑えることを意味し、やがて統治者としての資質や自然万物を育成する力を表わしていったと考えられる。
儒教的な「徳」は、人間の道徳的卓越性を表わし、具体的には「仁・義・礼・智・信」の5徳や、「孝・悌・忠」の実践として表わされる。
徳は、人間の道徳性から発展して、統治原理とされ、治世者の優れた教化によって、秩序の安定がもたらされると考えられた。儒教思想において重要な規範的価値は、生まれによってではなく、その人の徳のあらわれた実際の量の結果によって社会的地位が決められるべきであるとされた。
道家の徳は、根本的実在である「道」の万物自然を生成育成する働きを表わす。「老子」はその名を「道徳経」とも言われる。
このように、洋の東西を問わず、「徳」というものは、人間として好ましい道徳的、知性的な素養にもとづいた「精神の働き」としてとらえることが出来る。さらに簡略化して「徳」を表現すれば、「生きることへの善き心がまえ」とでもいうことが出来よう。
いま、長寿をよく生きることを、現代長寿社会の重要な意義としてとらえるならば、そこに求められるものは、「長寿を心身健全にして楽しみ、床に伏すこと久しからずして逝く」ことが求められよう。
こうした理想が実現されるためには、日頃の心構えが大切となる。

わが国では、こうした分野の大御所として、貝原益軒の「養生訓」をさけて通ることは出来ない。
杉 靖三郎は、貝原益軒の解説者として有名であるが、ここでも、杉先生の助けを借りて、「養生訓」の説く重要な部分に触れておきたい。
 養生訓では、健康と長寿のためには、精神と身体の両面からの心がけが必要であり、特に「精神的な平静」が重要であると説いている。
身体と心の健康を組み合わせた「人間の健康」への道(養生)は、社会の福祉や健康と別なものではなく、個人の健康の道は、そのまま社会の健康に連なるのでなければならないとする。
養生ということは、尊い人間の生命を発揮させることである、その生命を全うする(長生きをする)ことを意味している。養生の根本の方法は、我々がもっている生きる力を、自然に伸びるように仕向けることであり、健康に心を配り、害するものを近づけないようにするのが養生の第一とする。
具体的な方法としては、「心を平静に、常に和楽に保ち、身体をたえず動かす」ことであるとしている。養生の術は、わが身を損なう内因と外因とを取り去る。内因とは内に備わっている欲望(飲食欲、色欲、睡欲、言語をほしいままにする欲)と、七情(喜・怒・愛・思・悲・恐・驚)である。外因とは、風、寒さ、暑さ、湿気をいう。

貝原益軒は、養生訓(全8巻)を84歳の時(1713年)に著しており、その翌年に没しているが、黒田藩の城中で生まれ、幼くして儒学、医学を学び、その後長崎、江戸、京都に留学して勉強し、「養生訓」のほかに、「大和本草」「採譜」「筑前続風土記」などの歴史書や紀行文を多数残した。

養生の教えについては、貝原益軒ばかりでなく、古医方(傷寒論による漢方)を唱え、「生々堂医談」「生々堂養生訓」を表わした中神琴溪(1791年)(91歳没)、1771年に前野良沢と解剖をおこなって「解体新書」を著した杉田玄白(1818年に85歳で没)(著書に「養生七不可」「蘭学事始」「和蘭医事問答」)、1545年に将軍足利義輝の病を直して有名になった曲直瀬道三(まなせどうさん)(88歳没、著書に「択善居主人草谿」と題する養生物語)などの記したものがあり、共通して「養生の極意は、精神の修養にあり」と述べられている。
 これらの著書より古くさかのぼれば、中国の「素問」という書物には次のような記述がある。
「怒れば気上がり、喜べば気緩み、悲しめば気消える。恐れれば気環らず、寒ければ気閉じる。暑ければ気泄る。驚けば気乱れる。労すれば気耗り、思えば気結ばる。百病は凡て気から生じる。」これを予防するには「心気を養うことが第一で、心を平和に怒りと欲とを制し、憂いを少なくして心を苦しめず、気を損なわないこと」と論じている。

このように、みてくると、昔から、「心の持ち方」というものが健康には極めて大切であることを教えている。
今日、スポーツ科学の発展によって、運動の方法については具体的で効果的な方法が開発され、その効果も実証されている。わずかな努力を必要とする健康増進の方法を、持続的に行うことができるか否かは、かなりな部分「心の持ち方」や「心構え」による要素が強い。
長いライフスパンにわたって運動を継続して、豊かな生涯を送ることが出来るためには、「体力」「知力」「徳力」の3力を養うことが望ましい。
人間生活を長く継続し「人間の徳」というものを尊ぶような晩年を歩んで欲しいと感じる時がある。
これは、高齢者ばかりでなく、若い人にも共通することかもしれない。運動をし、心身の健康を計ることは、実は「人間の徳」を高めることに通じているのではないかと考えられるのである。

体育やスポーツをおこなうことの目的の中に、「人間としての徳を高める」という内容をしっかり根付かせることが、21世紀の人間教育のなかに、もっと強調されるべきではないかとも考えられるのである。

参考文献
1. 貝原益軒著、杉靖三郎解説。養生訓。1987 徳間書店。
2. 読売新聞婦人部編、新・養生訓。1976 評言社。 
3. 大貫隆、名取四郎、宮本久雄、百瀬文晃編。岩波キリスト教辞典 2002岩波書店。
4. 日本体育学会 監修。最新スポーツ科学辞典。2006 平凡社

(体育の科学 2007年6月号 特集 [ライフスパンと健康・体力づくり]を再編集して2017年4月1日掲載)