1. HOME >
  2. 伊東温泉山喜旅館に開設した「十坪ジム」の由来

伊東温泉山喜旅館に開設した「十坪ジム」の由来

2010年11月15日 静岡県伊東市東松原 山喜旅館での講演内容。
2007年9月に、山喜旅館の建物内に「十坪ジムグランデ 伊東山喜旅館」を開設した。その3年後、日本大学との連携を意図して、「十坪ジム」の面積を拡大して建物を改装し、トレーニングマシンも新たに導入して15台の陣容とし、「小林寛道研究室伊東分室」を設置した。温泉と「十坪ジム」の組み合わせに新しい健康文化を構築できないかという試みのためである。
日本大学との連携は、大学組織の改編を伴うためにうまくいかなかったが、「研究分室」を設置するにあたって、その意気込みを示した講演内容となっている。(平成29年3月20日記)



「十坪ジムグランデ 伊東・山喜旅館」「小林寛道研究室伊東分室」開設記念講演の要旨

新しい伊豆健康文化の創造をめざして

                    小林寛道                  (東京大学名誉教授、日本大学国際関係学部特任教授)  

はじめに

伊豆地域は、別荘や保養地としてわが国で有数の土地柄であります。老後を暖かい気候や景色のよいところで暮らしたいと考える中高年者は多く、そうした夢を実現した方々が伊豆地方の別荘地には多く住んでおられます。また、伊東は、伊豆箱根国立公園の一角を占め、温泉観光地として有名であり、伊豆半島の東京方面からの最初の入口になっています。言うまでもなく伊豆の入口といえば熱海ですが、われわれ中高年の世代には、熱海は「大歓楽街」というイメージが残っており、近年では新幹線の駅ができて、ますます便利になりましたが、伊豆情緒というものは、徐々に薄れ、数多くあった宴会型の観光ホテルはマンションや老人介護施設に改装されるなど、その形態を変化させつつあります。

 JR熱海駅から、伊東までは伊東線が走り、JR東日本の終着駅が伊東です。伊東から南には伊豆急行電鉄が走っており、伊豆半島の終着駅が伊豆急下田です。
熱海駅を発車すると伊東線は単線運転にかわり、小さな駅で上り下りの列車の行き違いを待ち合わせるなど、鉄道の雰囲気は突然ローカルな伊豆情緒を醸し出します。左手には相模湾の海が一望に眺められ、右手には山が迫っています。海岸からやや遠くの海には初島が浮かんで見えます。車窓から見えるミカン畑や海の風景を眺めて、東京から伊東に向かう列車内のわずかな時間に海沼實によって有名な童謡「ミカンの花咲く丘」(作詞:加藤省吾)が1946年に作曲されたと伝えられています。

 伊豆の雰囲気は、熱海駅を発車して、最初のトンネルをくぐるころから本格的に始まるということができるでしょう。
 日本人は情緒に優れた民族だと言われますが、伊豆地域には、イメージ的に一級のものがあります。昭和を代表する文学や音楽には、川端康成の「伊豆の踊子」、井上靖の「白ばんば」、野村俊夫作詞、古賀政男作曲の「湯の町エレジー」などがあります。そして情緒的なイメージは、しっとりとした哀愁をたたえた日本情緒です。
 そのほかにも、伊豆半島は南方の島が日本列島にぶち当たって陸続きになったといわれているように、本州とは違った植物形態や地勢となっており、独特の海岸線も魅力の一つとなっています。
IMG_1750  
IMG_1743     IMG_1757
 IMG_1762           IMG_1767
IMG_1768      IMG_1769

伊東の温泉文化施設

伊豆地域は、昔から観光と保養の地として親しまれてきました。しかし、近年では、世界的な経済状態の動向や、世の中の様々な変化によって、一昔前は栄えた町が見るも無残なシャッター街になりつつあるという現実があります。特に老舗旅館といわれる歴史のある旅館は、何らかの形で経営上の変化を強いられているという状況にあります。
ここ伊東市内には、いくつかの老舗旅館がありますが、すでに営業をやめてしまった旅館が次々と現れています。伊東という町は、もともと漁師まちであり、漁港として栄えた所ですが、景色がよく、温暖な気候であるところから保養地として人気があり、熱海とは趣を異にした奥座敷として栄えた歴史があります。この近くの松川のほとりは景観も良く、今は伊東市の観光文化施設となっている東海館やその隣の稲葉館など、大きな旅館が建って栄えていました。
   IMG_1797
IMG_1804
IMG_1806    


東海館は昭和3年に建設され、その後増築を重ねながら大きくなって、昭和13年と24年には、天守閣のような望楼を立てるまでになりました。しかし、老朽化が進み、平成9年には70年間続いた旅館の営業を停止し、建物は伊東市に寄贈されました。伊東市では、昭和初期の旅館建築の代表的な建造物として、市の文化財に指定し、平成11年から2年がかりで大がかりな修復を加えて、平成13年から現在のような伊東市のシンボル的な伊東温泉観光・文化施設「東海館」となっています。東海館の創業者である稲葉安太郎氏は、材木店を営みながら国内外の高級な木材を集めており、東海館にはそうした木材が使われています。

山喜旅館の建物

 ここ山喜旅館は昭和15年に建設され、現在70年が経過しています。建築当時の木造3階建ての建物のまま、現役で経営を継続しているところは、伊東市内では、山喜旅館1軒だけになってしまいました。建物自体は東海館と同様の文化財指定を受けることが可能なのですが、文化財の指定を受けるとさまざまな制約が加わり、営業にも差しさわりがありことなどの理由から、文化財の指定を受けずに現役の旅館として生き延びていこうというのが山喜旅館の考え方です。

文化財的な価値はどこにあるかというと、建物全体の造りや、玄関、大広間、客間の様子など、典型的な昭和の旅館建築様式をよくあらわしており、その後大きな増改築もなく、正真正銘の昭和初期の木造建築物であるからです。とりわけ特徴的なのは、1階から3階まで貫く通し柱が10本使われ、これが建物の骨格を形作っています。この柱の太さは3階にいたっても一階とほぼ同じ太さを保っており、品質の良い大木を用いていることがうかがえます。東海館には1階から3階までの通し柱が1本だけ用いられていますが、3階になるとかなり細くなっており、「これが通し柱です」という案内説明を受けますが、山喜旅館の柱の太さと比べると3分の1ほどの太さです。この点だけからも、山喜旅館は東海館に勝る内容を持っています。

山喜旅館に使われている1本1本の木材の大きさやその品質を見てみると、きわめて価値が高く、今日では手に入らないようなものが随所につかわれています。また、東海館の稲葉安太郎氏が昭和13年に3人の棟梁を集め、各階ごとに腕を競わせて廊下、飾り窓、階段の手すりなどを作らせたように、華燭できらびやかな意匠はありませんが、山喜旅館の堅実で質実さと気品を感じさせる建築様式は、昭和建築を代表する文化財としての価値を十分に持っているのです。
IMG_1811
IMG_1815
IMG_1819IMG_1818
IMG_1949



 しかし、文化財としての価値がいくら高いということであっても、近代的なホテル設備に慣れた多くの宿泊客にとって、必ずしもその価値を理解できるわけでもありません。
宿泊客は、必ずしも昭和の文化を感じることを目的に宿泊に訪れるのでなく、宿泊客の目的はいろいろです。文化財というだけでは、理解が行き届かず、古い設備や建物の雰囲気を積極的に受け入れてくれることが難しい場合もあります。山喜旅館に限らず、多くの老舗旅館が、近代的なホテルや廉価なサービスをセールスポイントにする経営戦略のまえに苦戦を強いられている現実があります。

 私は、この山喜旅館に初めて宿泊した時に、昭和の時代、すなわち私たちが育ってきた時代でもありますが、物質的には豊かではなかったけれども、多くの人が生きることに一生懸命で、夢があり、時にはみんなで大騒ぎをして、にぎやかにエネルギーを発散させていた時代の人々の姿を彷彿とさせるものを感じました。また、3階の長い廊下の作りや、廊下から見える海の景色には、日常生活から解放されて海の景色を楽しむ「余裕」というものを感じました。そうした「余裕」は、昭和の初期から今日まで、時代を超えて変わらないものであろうとも感じました。

IMG_1956
IMG_1957
IMG_1944IMG_1946

 老舗旅館といっても、これがあと30年を経過すれば100年になります。人間も100年生きる時代ですから、本物の木でつくられた、質実な木造の建物が100年以上持つことは難しいことではありません。地面に生えている木は100年生きるが、切られた木は1000年以上生きるといわれています。奈良の法隆寺金堂や五重の塔は1300年を経過して、世界最古の木造建築とされていますから、この山喜旅館に使われている木が1000年以上生きることも可能なわけです。昭和15年に建てられた建物はこれからまだまだ長い年月を生き抜き、昭和の良き文化の香りを後世に継続させることは、時代が進めば進むほど価値を高めてくるのです。そのためには、やはり、生き残り作戦というものも必要になります。

「十坪ジム」とダンススタジオ

 私は、この山喜旅館の1000年の生き残り作戦に協力することにしました。残すべきものは、1階から3階まで通じる10本の通し柱、玄関、大広間、3階の客室、そして建物全体の景観です。そのほかの部分には、新しい設備と新しい文化を吹き込んで、建物全体を気持ちよく呼吸させることが必要であると考えました。

 今から3年前の平成19年9月に、1階の客室を改装して「十坪ジム 伊東・山喜旅館」を開設しました。これは、温泉のある建物の中に「十坪ジム」を作りたいという要望を伊東市の健康づくり担当者(萩原参事)に話したところ、山喜旅館を紹介され、私の申し入れを山喜旅館の山田社長が「ある種の決断」を持って受け入れる形で実現しました。

その年の12月には、地下スペースに本格的なバレエスタジオが作られ、現在東京バレエ高等専門学校の校長をされている里見悦郎先生の指導のもとに、「バレエ教師のためのセミナー」が開催されました。このセミナーは、伊東市の財政的支援をうけて行われました。
バレエスタジオの設計は、里見先生によるのもので、床に敷く素材は、韓国国立バレエ学校で用いられているものと同じものを輸入して設置しました。練習時に必要な壁面に設置する練習用バーは、フランスのトップバレエダンサーが所属する一流バレエスタジオで用いられているものと同じ「やや細身のサイズ」に合わせました。バーの壁面への取り付け金具は、特注サイズのものなので、鋳型を作って作成しました。壁面には画像のゆがみが生じない上質な鏡を正面全体に取り付けてあります。

IMG_1996IMG_1991

バレエには障害がつきものといわれるほど、バレエ障害に苦しむバレエ教師やバレエダンサーは数多く、そのための治療や回復の方法にはある特殊な手法が必要であるとされています。ニューヨークにはバレエ学校に併設してバレエ障害に対する専門施設がありますが、世界的にもバレエ障害の治療専門家はあまり数がいないということです。日本にも治療の専門家が1人おられましたが、高齢になって現在は専門家がいない状態であるということです。

子どもたちの多くが、町のバレエスタジオに通って、バレエに取り組んでいるのに、内実がそのような状態では具合がよくありません。学校の体育では、クラシックバレエは教材に取り入れられていないので、このような事情は、日本体育学会会長(当時)をしていた私にもわかりませんでした。バレエダンサーとバレエ教師のための保養と治療、回復のための施設を作りたいという里見先生の強い願いを、伊東温泉という温泉施設の利用、およびリハビリ効果を持つ認知動作型トレーニングの導入、そして適切な治療方法を開発することによって、実現させることが可能だと考え、私自身が「取り組むべきテーマ」のひとつにバレエを位置づけることにしました。

伊東でのバレエスタジオ新設を踏まえて、里見先生は、かねてから自分の夢として構想していた世界的なプロバレエダンサーを養成する学校の建設に取り掛かりました。平成20年4月、東京府中市の自宅敷地内に立派な3階建てのスタジオと教室設備が完成し、東京バレエ高等専門学校が開校されました。生徒数は1学年7名で、講師陣はロシア人指導者をはじめ世界有数のスタッフをそろえました。開校3年目にして21名の生徒の中から、複数が、ジュニアの世界コンクールで上位に入賞する成績を上げています。生徒たちは、毎日数時間に及ぶバレエレッスンをほぼ個人指導に近い形で受けています。

山喜旅館のバレエスタジオでは、東京から先生が来られるバレエ教室が行われていますが、来年度から東京バレエ高等専門学校の合宿訓練施設とすることが予定されており、また、近い将来に、世界各国からバレエ障害の治療と保養を目的に、バレエダンサーたちが集まる施設となるように、次の段階の準備を進めています。
バレエ障害の分野でも、里見先生を中心に、医療スタッフの協力を得て治療の方法を開発し、ほぼ良い結果が得られるようになってきています。このテクニックは、あらゆるスポーツ種目や一般人の「痛み」の緩和に有効であり、応用範囲が広いものです。

平成20年には、十坪ジムのとなりに、小セミナー室もつくられました。山喜旅館の山田社長夫妻は、本格的な生き残り作戦を展開する決意をされたわけです。私は、この3年間、時折「十坪ジム」の指導や、伊東市からの委託事業を行うために山喜旅館を訪れ、将来のあるべき姿について構想を重ねてきましが、平成22年に十坪ジムの面積を2倍以上に拡大し、リハビリ分野の認知動作型トレーニングマシンも設置した本格的な十坪ジムを作る方針を決めました。隣地への拡張も試みましたが、成功しなかったため、山喜旅館内を大改装してもらい、十坪ジム面積を館内で拡張するとともに、洗面トイレ施設の改修新設、小セミナー室の2階移転に伴う室内改修、および全和室の畳換えなどの館内環境の整備に取り掛かりました。

IMG_1997IMG_1918
IMG_1982IMG_1966IMG_1972
IMG_1978
また、小林寛道研究室伊東分室を開設しました。これは月々の家賃を払って長期にスペースを借用する形の契約になっています。
私が「小林寛道研究室伊東分室」を設けたことは、いわゆる老舗旅館の生き残り作戦に協力するといった防衛的な意味合いを持つだけでなく、むしろ山喜旅館という素晴らしい歴史的文化価値をもつ老舗旅館を拠点として、新しい大きな文化を創造し、発信していく重要な役割を担っていこうと考えているからです。

「伊豆健康文化」と認知脳科学

さて、新しい大きな文化とは何か。それは、人間が健康で心も身体も健やかに、豊かに生きていくことができる文化のことであり、言い換えれば「心身の健康文化」ということになります。これをここでは「伊豆健康文化」と名付けることにします。
どのように伊豆健康文化を構築していくのかという考え方の基本的な部分に触れることにします。

そのキーワードとなるものは、「認知脳科学」と「知性」という二つの言葉です。
認知脳科学の前身には「認知心理学」があり、認知心理学とは、1960年代になって急速に発達した「心の科学」の総称といえるものです。その認知心理学が明らかにした最も注目すべき成果は、「知性の多重性」ということです。アメリカの認知心理学者であるハワード・ガードナーは、1983年に「我々の知性は、一つではなく、多数の並列した知性からなっている」という多重知性理論を提唱しました。

ガードナーは、我々の知性を6つの要素に分類しましたが、近年の認知脳科学の成果を取り入れると、人間の知性は大きく8つに分類されます。
それは、1.言語的知性、2.絵画的知性、3.空間的知性、4.論理数学的知性、5.音楽的知性、6.身体運動的知性、7.社会的知性、8.感情的知性、の8つです。
これらの8つの知性を総括的にコントロールする知性は、「超知性」と言われ、それが「自我」に当たるとされています。この超知性は、多重知性の監督者やスーパーバイザーのような役割を持っており、別格な地位にあります。人格(性格)、理性、主体性、独創性、創造性などにもこの知性が中心的な役割を持っています。

さて、これから伊豆健康文化を構築する上で、認知脳科学の成果を十分に取り組んだ形で、文化の形成を図っていこうとすることがねらいです。
新しい伊豆健康文化には、こうした認知心理学、または認知脳科学で得られた「知性」の要素をできるだけ多く取り入れた形の総合的な心身の健康文化の拠点をつくっていこうと考えています。
知性と並ぶものに「本能や欲求」というものがあります。知性が、いわば大脳皮質の働きに関連するものであるとすれば、本能や欲求は、旧皮質といわれる大脳辺縁系、大脳基底核、脳幹、小脳など、大脳皮質以外の脳の働きと関連するものです。

人間は、「知性」と「本能や欲求」の要素が上手にコントロールされ、自己実現されるところに「快」感情が生まれ、「不快」を抑え、消去する働きが生まれます。人間の幸福感は、「快」感情が得られるかどうかによって大きく影響されます。
そこで、「知性」と「本能・欲求」が、低い次元ではなく、高い次元で満足できるような方向性を目標に進んでいくことが、新しい健康文化の創造には必要だという考え方になります。

IMG_1980IMG_1975IMG_1981

「十坪ジムグランデ」の文化的要素

山喜旅館に作られた十坪ジムグランデには、いくつかの特徴があります。
十坪ジムグランデのスペースを、「まちづくり」の空間と考えてみます。
日本人の心情には、「敬神愛人」という言葉があります。すなわち神を敬い、人を愛するという意味です。日本人に限らず世界中の多くの人たちには、古くから祖先崇拝の風習があり、生きて生活する上でのさまざまな欲求や願望を素直に受け止め、聞き置き、自然や人を守護し、災いを遠ざけてくれるような神仏への帰依と信仰心を持ち続けています。たとえ、信仰心の薄い人でも、正月には初詣に出かけ、観光がてら浅草の観音様に詣でた時には、雷門の大提灯を眺め、境内に並ぶお店を覗く楽しみを感じるはずです。浅草の観音様に限らず、巣鴨のとげぬき地蔵尊、川崎大師、四国の金毘羅神宮の参道には多くのお店が並び、参拝客を引き寄せています。参道の広さは狭く、人混みが感じられるような程度がちょうど良いのです。
スライド1

伊東市内には、葛見神社があり、千数百年以前の延長5年には久逗彌神社の名で延喜式神名帳に記録があり、代々伊東家の守護神として厚く祭られてきました。伊豆の東北部は「葛見の庄」と呼称され、約900年前に葛見の庄の初代地頭の工藤祐高公によって社殿が建てられています。境内には全国2番目の老樟といわれる樹齢千数百年の大樟があり、主祭神は葛見神と京都伏見稲荷からの稲荷神(倉稲魂命)であることから、葛見神社は、健康長寿と商売繁盛の御利益が授かる守護神ということになると思います。

 山喜旅館の十坪ジムグランデには、ジムの右手正面の神棚に氏神様である葛見神社のお札が祭られています。このお社に向かって真っすぐな参道があり、参道の両脇には様々なトレーニングマシンが設置されています。この一つ一つのマシンは、参道の両脇に開かれたお店であると想像してください。お店は15軒あり、それぞれ何か面白いことをやっています。参道の所々には立木に見据えた柱が立っており、参道には階段状の段差もあります。

人が面白いことをやっているのを眺めることも楽しいし、実際に自分がやってみるとさらに楽しい。15軒のお店に立ち寄ってみると、それぞれの店から見える境内の風景が異なって見えます。高い場所から見下ろすような風景もあれば、遠くを見通すことができるお店もある。仰向けに寝転がって空を眺めるような姿勢で体を動かすお店もあるし、遊園地の回転木馬のように椅子の高さが上下に自動的に動く乗り物のようなお店もある。動物のように両手両足を動かして遊ぶお店もある。いろいろに変化に富んでいて、飽きることがない。

15軒の店を体験すると、そこそこ疲れも出るので、参道のわきにはベンチならぬ椅子が於いてあり、一休みすることが可能です。境内には手を洗う水場も用意されているし、きれいなトイレもすぐ近くにある。帰りには「源泉かけ流しの温泉」に入ることもできます。
 こうした神社やお寺の境内に入るときには、山門というものがあって、そこには何やら難しい心得などが書かれていることがあります。

 十坪ジムグランデの正面入り口を入ると、すぐ上の方に山門の扁額のようなものがあり、そこには、境内に入る人の心得のようなものが書かれてあります。
「十坪ジム トレーニング十訓」という教えです。
IMG_1959

その十訓の内容は、次のようなものです。
一 力を抜いて体をのばし 気持も楽に伸ばします
二 力んで力を入れないで ゆっくり筋力鍛えます
三 体幹深部の筋群を 正しい動きで使います
四 右軸・左軸・正中の 三つの体軸つくります
五 二足歩行の原則は 回転とすり足動作の組み合わせ
六 膝腰や手足の同側動作では 「動きの質」を高めます
七 体と脳の運動で 心身のほど良いバランスはかります
八 骨盤と肩甲骨の連係は スポーツ動作の基本です
九 ゆっくり動作の学習で 運動の脳神経回路を作ります
十 百歳までも運動を 無理なく続けて楽しく生きる

こうしてみてくると、認知脳科学の知性の分類のうち、かなりの知性が山喜旅館や十坪ジムグランデには当てはまることになります。
こうした文化性を、より広く発展させて、伊豆文化観光学、または伊豆健康文化観光学というものを構築し、将来は国際センターの設立を図る構想までに広がっています。

まとめ

伊東市については、古くは、石器時代の遺跡、縄文時代や弥生時代の遺跡など、古くからの文化の宝庫です。これらの文化財を原点としながら、歴史・文化、地域経済、観光ツーリズム、健康スポーツ、ヒューマンコミュニケーション、栄養・食育といった領域の学問や実際の活動を結び付けていけば、素晴らしい街づくりや21世紀型の発信型観光文化を形成することは十分に可能です。

山喜旅館に作られた「十坪ジムグランデ 伊東・山喜旅館」と「小林寛道研究室伊東分室」は、豊かな歴史と文化、自然と風土に恵まれた伊豆地域に新しい風を起こすきっかけとなるのではないかと思います。

                           以上