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高地トレーニングの医科学サポート 1990~1996

高地トレーニングの医科学サポート 1990~1996

わが国の高地トレーニングの研究は、1968年のメキシコオリンピックを目標とした高地順化のための研究として出発した。このため、メキシコオリンピック以後はトレーニングに関する組織的な研究はおこなわれておらず、一部の選手によって高地トレーニングは手探りで行なわれていた程度である。1990年になって、日本陸上競技連盟では高地トレーニングを組織的に行なおうという機運が盛り上がり、アメリカ陸連の推薦によって、コロラド州アラモサから、ヴィーヒル博士を招請して高地トレーニングに関する研修会を日本青年館でおこなった。この講習会には全国各地から監督やコーチが集まり、高地トレーニングの可能性についていろいろな勉強をした。ヴィーヒル博士の理論は標高2300mの高地で6週間のトレーニングをおこなうことが理想的であるというものであった。日本陸上競技連盟では、ヴィーヒル博士を高地トレーニングの顧問としてアドバイザー契約を結び、1990年の夏にコロラドで日本選手が合宿する受け入れをお願いした。ヴィーヒル博士は、世界的に有名な長距離選手の名前を何人も挙げ、これらの選手を指導している実績を強調した。
ヴィーヒル博士を日本に招請して研修会を開催する前に、強化委員長の大串啓二氏は、中国雲南省昆明に標高1860mの高地トレーニング場があるので、1990年3月に昆明で最初の高地トレーニングを行なうということを決めていた。大串委員長は、昆明に下見に行き、日本人が宿泊できる外国選手用のホテルが訓練基地内にあることや、日本選手のための食事を特別に用意してくれる手はずなどを整えてきた。また、洗濯施設が良くないので、日本陸上競技連盟から電気洗濯機を3台寄附して備え付けることにした。中国の馬(マー)軍団の選手たちはそこでトレーニングしているという情報も入っていた。
 今日では、昆明は日本人の高地トレーニングのメッカとなっているが、日本選手がここでトレーニングを開始したのは1990年が最初である。この頃、高地トレーニングは諸刃の剣であるというように考えられ、効果がある人と、かえって身体が不調になり、出しがらのようになってしまう人があるといわれていた。
この高地トレーニングには、日本陸連科学部の医学、運動生理学部門の委員が総力をあげてサポート活動を行うことにした。
昆明での高地トレーニングは、1990年3月7日から3週間行なわれ、男子11名女子4名の選手が参加した。科学部では、まず先発隊として川原 貴先生と江橋 博先生、栄養担当の石島まり子さんが選手に同行して昆明に入り、途中から浅野勝巳先生と陸連医事委員会の浅野委員長に交代し、後半に小林寛道と渡会公治先生が昆明に入った。
今回の高地トレーニングは、測定研究をかねたものであったので、選手は医科学研究に協力するという条件で参加していた。
医科学サポートを行う上で、最も重要な視点は、コンディションを悪化させないことにあると考えた。第一は食事のサポートである。食事内容を中国側にまかせきりにしないで、日本から調理が出来る栄養サポートのスタッフである石島さんが同行した。スポーツ栄養学という分野において、専門家が極めて少なく、1990年当時、スポーツ栄養学といえば筑波大学の鈴木正成先生の評判が極めて高かった。しかし、理論のみの栄養学ではなく、実際に調理ができる栄養サポートが必要であった。ところが、なかなか適任者がいない。陸連科学部を立ち上げる時に、栄養担当者について浅見俊雄先生に相談したところ、石島まり子さんを紹介してくれた。石島さんは、NHKの料理番組のアシスタントを勤めたり、アメリカにスポーツ栄養学を勉強に行ったりしており、「マダム石島」というケータリングの会社の社長として、実際に食事を作りサービスする仕事に従事していた。陸連科学部のメンバーとなった石島さんは昆明の合宿所の厨房に入り、日本食を提供すると共に、中国の料理人が使う素材や調理方法をしっかり観察した。この合宿では、日本料理と中国料理がふんだんに用意され、選手達に好評であった。
この頃、馬(マー)軍団があらわれて、女子中長距離の世界記録を驚異的な強さで打ち破る選手が次々と現れ、世界的な注目を浴びていた。昆明は、マー軍団のトレーニングがおこなわれた場所でもあった。マー軍団は、栄養や食事に特別な配慮がなされており、ドリンクとして冬虫夏草や、カメの生き血を飲むなど、変わった食行動もめだっていた。ドーピングという言葉もようやくスポーツ界に普及し始めた頃である。

昆明の合宿では、川原先生によって、個人ファイルが作られ、選手は毎日次のような項目欄に、日記風に自己コンディションを記入した。
前日の就寝時間、睡眠時間、起床時脈拍、起床時血圧、起床時体温(舌下温)、起床時体重(精密体重計10g単位)、本練習前後の体重、練習内容、走行距離。
自己評価項目:練習時主観、練習意欲、全身の疲労、筋疲労、筋肉痛、頭痛、立ちくらみ、不眠、食欲不振、食事、生理、便通、全体的体調、痛み、その他の自覚症状。
医科学担当者は現地で次の業務を行なった。
1.選手との面接と健康チェックおよび健康管理指導:起床時脈拍、血圧測定、検尿検査の結果を毎朝、食事時にコーチに報告するとともに、心理、コンディション調査(POMS)を1週間間隔で実施し、問題例について対策をコーチと検討した。
2.本練習前後の体重、本練習後の尿検査結果を毎夕食事時にコーチに報告した。
3.選手を3班にわけ、自転車エルゴメータで最大負荷3段階の生体反応をチェックした。
4.血液検査(10日ごとに実施)などの検査結果についての解説や体の手入れに関するセミナーを開催した。
5.心電図を記録し、判定した(浅野医事委員長)。
6.練習時のビデオを撮影し、練習風景やフォームなどについて記録した。
 
先発隊の川原先生は、身体コンディションチェックのデータをコンピュータに克明に入力すると共に、POMSとの関係を調べた。すると、POMSが、心身のコンディションをとらえる上で、実に有効な診断基準になることを見出した。POMSとは,「Profile of Mood State(気分の状態)」に関する65項目の質問に回答してもらい、それらを、「緊張」、「抑うつ」、「怒り」、「活気」、「疲労」、「混乱」、6つの項目にわけ、得点化してグラフに表わし、その波形で心身のコンディションを判断するものであるが、質問項目は猪俣公宏氏によって日本語に翻訳されていた。それまで、スポーツ心理学の分野で利用してみたが、さっぱり受け入れられる様子はなかった。
この高地トレーニングで、生理学的変化と、POMSとの関連をはっきりとさせた川原先生の功績は大きかった。この事実が、日本体育協会の全国コーチ会議で陸連科学部の実績として紹介されると、たちまちPOMSブームが起こり、スポーツの世界で広く取り入れられるようになった。
世の中には目ざとい人がいるもので、POMSブームが起こると、間もなく金子書房という出版社の人が駒場の研究室にみえて、「今度、アメリカから版権を獲得して、日本語版POMSを発売することになったので、今後は陸連においてもコピーを用いて検査しないようにしてください」といって、10冊ほどの日本語版POMSをおいていった。
日本語版POMSの翻訳者には、1993年に新しく陸連科学委員会メンバーとなった白山正人氏の名前があった。2007年にインターネットで調べてみると、翻訳者の名前も変わり、コンピュータ判定に一回15000円がかかるという。立派なビジネスになっているようだ。
1990年の高地トレーニングでは、POMSの点数計算が面倒であったが、翌年のサポートでは、回答された番号を読み取ることが便利なように穴あきの台紙を6枚作り、項目別の合計点を比較的容易に計算できるように工夫がなされていた。科学部のどなたか(江橋 博先生?)が、この台紙を工夫してくれたので、夜なべ仕事の点数計算がとても楽になった。

栄養担当者は、厨房に入り、現地の料理担当者と共同して選手に食事の提供を行い、栄養指導および生活上の相談相手としての役割を担った。
このような医科学サポート体制の中で実施したトレーニングでは、身体コンディションの変化がかなり明確に現れてくる。このことが極めて困難とされていた高地トレーニングのコンディショニングの科学的な研究や、実践面での応用に有効な資料を提供してくれることになった。
中国雲南省昆明での第1回高地トレーニングは、標高1886mということであり、高地トレーニングと銘打つにはやや高さが足りないのではないか、という当初の懸念をよそに、実に多くの選手が好成績を記録した。高地トレーニングの効果は、平地に戻って2週間程度しか持続しない、というそれまでの通説とは異なり、帰国後しばらくしてもなお自己記録を更新する選手が目立った。高地トレーニングは、少なくとも好記録を生み出すための引き金役を果たしたことは確かである。
もっとも著しい効果を発揮したのが浅利純子選手、秋山幸恵選手、篠原太選手、橋本 康選手、武田裕明選手、幸保雅信選手、早田俊彦選手、深井 剛選手、鈴木尚人選手であった。自己記録を更新できなかったが、唯一の学生ランナーとして東京農大短大の石坂雅美選手もよく頑張っていた。昆明の合宿では、必ずといった良いほど下痢に襲われることが多かった。やはり衛生状態に何か問題があるのではないかと考えられた。 

この昆明の高地トレーニングの成果に勢いづいて、1990年6月19日から8月19日の2ヶ月に亘って、アメリカコロラド州で行なわれた第2回高地トレーニングには、男子15名、女子13名が参加した。最初の6日間は、身体ならしの意味でコロラドスプリングス(標高1500m)に滞在し、その後、男子はアラモサ(標高2300m)、女子はガニソン(標高2350m)で、男女別々の合宿となった。
 医科学サポートは、最も練習がきつい7月3日から8月14日までの6週間について、昆明よりやや簡略化した形で実施された。
男子の参加者は、篠原太、北島克巳、武田裕明(以上56日間、)、森下広一、鈴木秀之、鈴木尚人、深井剛、(以上38日間)、幸保雅信(33日間)、奥山光広、中山茂樹、荒田祥利、湯場伸一郎、綾部健二、板橋弘行、(以上30日間)、橋本 康(23日間)。女子の参加者は、吉田光代、浅利純子、秋山幸恵(以上56日間)、荒木久美、山下佐知子、有森裕子、松川千恵子、峰岸里江、石川裕美、内山三知子(以上55日間)、松野明美、田代美保、村中真保美(以上27日間)の各選手であった。
高地トレーニングに参加した指導者(監督、コーチ)は、小掛照二本部長、大串啓二強化委員長、浜田安則、碓井哲夫、安田 亘、小沢欽一、岡田正裕、鈴木従道、武富 豊、菅谷久二、泉田利治、平田和光、大志田秀次、の各氏であった。
また、科学部からのスタッフは、医学担当として、川原 貴(7・3-12ガニソン)、渡会公治(7/17-29アラモサ)、鳥居 俊(78/1-12ガニソン)、山澤文裕(8/1-12アラモサ)、科学担当として、江橋 博(7/3-21アラモサ)、小林寛道(8/1-14ガニソン、アラモサ)、栄養担当石島まり子(7/3-11ガニソン)、佐藤晴美、佐藤恭子(7/8-15アラモサ)、吉田ミヨ子(7/22-31ガニソン)、石川光子(8/1-14アラモサ)の各メンバーが参加した。
また、トレーナーとして、白木、永井、他1名の方が参加して、選手のコンディショニング調整に当たった。
ここで最も良く働いてくれたのは、栄養担当のスタッフであった。キッチンのある部屋、モーテル、またはアパートにおいて、選手、コーチ、科学スタッフ全員の食事を毎日三食作ってくれた。夜は12時過ぎまで後片付けや翌日の準備、朝は毎日4時起きで、朝食の準備に取り掛かってくれた。
合宿計画を作る会議の席上で、「アメリカでは外食が自由に出来るので、栄養補給はあまり重視する必要はない」、という陸連幹部の意見が出された。さらに、「昆明での栄養サポートはやりすぎであり、選手を甘やかせ過ぎた」という意見が出された。
私は、昆明の現状を見ずに自己判断するこの陸連幹部に、しっかり抵抗する姿勢を示した。陸連幹部とは中長距離部門のマネージャーとして新たに就任した浜田安則氏である。浜田氏は有能な人物であり、指導力もマネジメント能力も素晴らしい能力を発揮したが、あまりにも自己判断でものごとを進める傾向があった。他の陸連幹部の人たちも、浜田氏の能力を認め、ある意味で面倒なことを浜田氏に任せてしまう雰囲気があった。私は、不条理と思われることは、浜田氏の意見に従わなかった。私は陸連の科学部長という役職にはついていたが、本職は東京大学の教官であり、陸連とは利害関係がなかったので、自由な立場でものごとを言うことが出来るというスタンスに立っていた。陸上競技の世界で生きようとすると、陸連幹部へ言動はおのずと制約の多いものになる。そこには、我慢とある種の忍従の心が必要とされるが、この点、大学の教官という立場は自由であった。「栄養サポートはいらない」と明言した浜田氏に対して、私は、「選手のためには栄養サポートは大事なので、予算は少しでいいから、どうしてもやりましょう」と、無理にでも実行する態度を示した。浜田氏が言うことには、限られた予算で合宿をまかなわなければならないので、どこかで予算をやりくりしなくてはならない。特に科学部の先生方は、一人がずっと滞在してくれるならば、航空運賃も往復1回で済むところ、入れ替わりが頻繁にあるので、航空運賃がかかって仕方がない、ということであった。これにも一理あるが、大学の先生や医師が、長い期間本務を空けることは不可能であることも理解してもらった。栄養担当の石島まり子さんに相談したところ、「そんなことなら、選手達の食事サポート分の費用を、全部自前で持ってやりましょう」と気風のよさを示してくれた。昆明で栄養サポートした成果が現実に競技成績にもつながっていることを石島さんは強く認識していた。石島さんは、自分の会社で働いている人の派遣給与分、食材購入費をすべて負担することでコロラドに乗り込んだ。当時のお金で100万円以上になった。この石島さんの心意気は、たいしたものだった。選手やコーチは、石島さんの料理に満足してトレーニングに励んだ。
しかし、ガニソンで浜田氏と一緒に合宿してみると、油脂類の使い方やその他食材や調理法について、浜田氏一流の食事理論にあわないことが生じて、とうとう大喧嘩になってしまった。石島さんも堪忍袋の緒が切れてしまったようだ。その場は何とか収まったようだが、私が8月にアラモサに出かけた時は、浜田氏が自分のチームの選手のために、自分が包丁をもって食事を作っているような様子も見られた。浜田氏は、調理人として、選手の食事管理もしていたようだ。自分の考えとあわない食事を選手に与えたくないという監督としての配慮であった。浜田氏の京セラチームの選手として、荒木久美選手、山下佐知子選手がいた。
一方、食べ物はしっかり食べるというリクルートチームでは、有森裕子選手が比較的落ち着いた雰囲気でトレーニングに取り組んでおり、泉田監督の率いる日本ケミコンチームは、峰岸選手が監督が連発するジョークのお相手をしながら、笑いをベースとした雰囲気であった。鈴木監督のダイハツチームの吉田選手、浅利選手はおとなしかった。
体のコンディションについて、私が柔軟性の大切な理由を説明して、身体をほぐす方法をおしえてあげると、実際にほぐして欲しいという選手が何人も現れた。選手の身体を触ってみると、背中から肩、首筋にかけてパンパンに張っている選手が多かった。私は、選手をうつぶせに寝かし、腕を後ろ手に回し、肩甲骨を浮かして締め付ける「腕後ろ回し」の締め技をつかって、選手たちの肩や背中の「凝り」をほぐしてあげた。これは、スポーツマッサージでは禁じ手になっている「オーバーストレッチ」の方法を用いるものであるが、武術の世界では、決め技はオーバーストレッチを用いるものであり、正しく用いればこれほど身体に効果的なものはない。この技は、東京大学の合気道の授業時間に、必ず行う最も大切な基本技であった。トレーナーの施術にかかっても軽減しない頑固な凝りは、私の武術の技で回復を早めた。高地環境では空気が薄いので、呼吸のために必要な筋肉が平地の時より強く働かなければならない。このことが背中や肩の凝りを招くのであろう。背中を触ってみると、気の毒になること凝り固まって、重い石をせおっているような選手がいた。この選手をほぐそうと思ったが、とても短時間に回復するような状態ではなかったし、監督も私の施術を受けることを選手に勧めなかった。気の毒だとは思ったが、仕方がなかった。有森裕子選手、吉田光代選手、浅利純子選手は喜んでたびたび私の施術を受けた。男子でもっとも熱心であったのは篠原 太選手であった。私は、これらの選手の背中を押したり、腕を締め付けるような技をくわえたりしながら、走るということを職業にする人たちの生活の不思議さを感じた。

合宿は長期間に亘ると心身面で様々な影響を生じさせやすい。医科学サポートスタッフは、医科学・栄養面でサポートを行なうとともに、いろいろな問題の緩衝剤の役割を果たすことによって、より深いレベルで選手やコーチの方々とかかわりを持った。
コロラド合宿が8月19日に終了し、選手は帰国し、このうち5名が1990年8月26日に札幌で行なわれた北海道マラソンに出場した。篠原 太選手が2時間15分22秒で優勝、山下佐知子選手が2時間35分41秒で2位、吉田光代選手が5位、峰岸里江選手が6位と、高地トレーニングに参加した5選手が夏のマラソンで全員好成績を収めた。
コロラド高地トレーニング第2期は、1991年5月28日から8月7日までの正味70日間に亘って実施された。最も長期に合宿したのは荒木久美選手の71日間であったが、他の選手は42~59日間の合宿で、男子20人、女子8人、それにコーチ・監督16人、トレーナー4人(交代)という大世帯の男女合同合宿であった。
医科学サポートは、前年同様におこなわれたが、栄養サポートには、明治製菓のスポーツ&ニュートリッション・ラボの藤沢いずみさんたちが入った。これ以後、明治製菓の若い栄養士さんたちが調理と食事管理業務を受持つことになった。栄養サポートはいらないと、主張した浜田氏が、独自に明治製菓と話をつけ、協力を依頼したのだと思う。科学部長の私には、何も知らされず、明治製菓に決まったことだけが報告された。これを機会に、明治製菓のスポーツ・ニュートリッションラボの所長であった杉浦克巳氏と出会うのである。
この年(1991)には、8月24日から9月1日まで、第3回世界陸上選手権大会があり、高地トレーニングに参加した女子の山下佐知子選手2位、有森裕子選手4位、荒木久美選手9位、篠原太選手5位となった。念願の金メダルを谷口浩美選手が獲得したが、谷口選手は高地トレーニングには参加していなかった。
バロセロナオリンピックの年である1992年には、コロラド州ガニソンで山下佐知子選手が5月14日から7月2日まで60日間、およびマラソンの補欠選手である篠原太選手、谷川真理選手とそれぞれの練習パートナーが40日間の高地トレーニングを行なった。有森裕子選手はコロラド州ボルダー、小鴨由水選手は、練習パートナーの浅利純子選手とともに、ニューメキシコ州グランツほかで、高地トレーニングを行なった。
バルセロナオリンピックでは、高地トレーニングと暑さ対策の双方が有効に生かされ、日本選手のマラソンでは、始まって以来の大きな成果が生まれた。

 バロセロナオリンピックでは、日本から直接バルセロナに向かうのではなく、一旦イギリスのヒースロー空港から1時間ほど離れた静かな町で休養して疲れを取り、フレッシュアップしてバルセロナに乗り込む作戦を立てた。この中継基地のチーフに私が就任し、選手を日本から受け入れて、バルセロナに送り込む4日間の世話をすることになった。医学担当が鳥居 俊先生、食事はもちろん日本食で、栄養担当は明治製菓の田口素子さんであった。田口さんが、借り切った厨房に入り、選手や監督、コーチの食事を作った。バルセロナオリンピックが始まり、最初に陸連の大串強化委員長、渉外担当の浜田氏および女子マラソン選手を含む中長距離を中心とした選手、コーチ、監督の第1陣がやってきた。陸連幹部の人たちは、選手の居住環境などをチェックし、「選手は大切な宝だから、食事の後片付けなどは、付き添いの監督やコーチがおこなうようにしてください」と指示した。その言いつけどおり、第1陣でやってきた旭化成の宗監督も「陸連の言いつけだから」といって、食事後の皿洗いなどに参加した。大串委員長と浜田氏は、一日滞在しただけでバルセロナに向かった。浜田氏たちがいなくなって、私は「陸連の指示はおかしいから、変えましょう」と言い出すと、小出義男監督も「選手がやるのがいいんじゃないですか」ということになり、「陸連の指示(浜田氏に指示)」は、あえて無視することにした。小出監督は、「私から他の人たちに言いますよ」といって、各チームの監督の了解を取ってくれた。試合前の選手は緊張しており、壮行会などでへとへとになっている選手もいた。特に、オリンピック直前に北海道の南部忠平記念陸上大会に集められたことが日程的に辛いようでもあった。イギリスの4日間で疲れを回復して、気持ちを落ち着かせる必要があった。そのためには、台所を手伝ったり、食膳を整えたり、食事の後片付けをすることは、日常の生活を取り戻すことになり、かえって気分転換には有効であった。私は、高地トレーニング合宿で、監督やコーチ、選手の人たちとも親しくなっていたので、一緒に生活することに何の違和感もなかった。
競歩の小坂忠弘選手が体調をくずしており、あわや代表取り消しの声もでていたが、何とか体調を取りもどしてイギリスにやってきた。科学部は、競歩の強化にも力を入れていたので、メキシコにも医科学サポートで出かけていた。小坂選手は、私の「背中ほぐしの締め技」が気に入ったようで、イギリスでも「背中ほぐし」をして欲しいと毎晩部屋にやってきた。小坂選手は、何とか気力を充実させて、4日後にバルセロナに飛んでいった。
こうして、オリンピックというそれぞれの人にとって大きな勝負の前線基地で選手たちの行動を観察していると、ある大きな法則性が感じられてきた。その法則性とは、それぞれの人に備わった生活行動へのあり方や姿勢に関連していた。食事や食後の片付け、食器洗い、床や机の掃除など、日常必要と思われる作業をおっくうがらず、嫌がる様子もなく、気持ちよくこなす選手と、気が進まないけれど言われたから仕方なくやる、という2つのタイプに分かれる。イギリスの前線基地で、もっとも気持ちよくてきぱきとかいがいしく働いた選手が有森裕子選手であった。有森選手が働く姿は、美しくも見えた。バルセロナオリンピックの成績を見ると、不思議なことに「働き組」が良い成績をおさめ、「消極組」があまりよい結果を生まなかった。それは、性格的なこともあろうが、試合前の気分の乗り方といったものにも関係しているかもしれない。

日本陸連の高地トレーニングは、1990年の昆明以来、1992年のバルセロナオリンピック直前のコロラド合宿に至る4回を持って一応の区切りとし、1993年から新しい段階の高地トレーニングが開始された。1993年の高地トレーニングには、38名の選手(実業団が中心)が参加してボルダー(標高1650m)を本拠地にして実施された。この合宿に、日本陸連科学委員会に昇格した科学部スタッフは、完全体制での医科学サポートを組み、選手、監督、コーチとも一体となって、一層の研究の内容を充実させた高地トレーニングを進めた。アラモサで陸連のアドバイザーとして世話を焼いてくれたヴィーヒル博士は、科学部スタッフにいろいろなトレーニング理論を示してくれたが、現場のコーチたちは、さらに進んだ考え方をもつようになっていた。ヴィーヒル博士は、「これまでいろいろなチームや選手を指導してきたが、これほど徹底して科学的データを取り、しっかり研究して選手をサポートしたチームはなかった」と感想を述べた。ヴィーヒル博士からトレーニング理論を学んだアメリカの学生は数多く、ヴィーヒル博士への信頼度は高かったが、すでに時代の進歩が速いペースで進んでいた。
 医科学スタッフが研究的な内容の活動を行なえば、選手は「自分たちはモルモットか」、と不快感を持つことが1980年代後半までの雰囲気であった。ところが不思議なことに、バルセロナオリンピックを終えてみると、選手やコーチ、監督の皆さんは、「科学的な研究を大いに進めてください。自分たちは進んで協力します。研究成果は自分たちに大いに役立つので助かります」というように変化してきた。現場の第1線の人々が、科学の有効性を積極的に利用する態度になってきたのである。
スポーツ科学が有効であることが理解されるようになったのである。

これらの医科学サポートから得られた科学的研究成果は、2004年に杏林書院から発行された「高所トレーニングの科学」(日本運動生理学会 運動生理学シリーズ6)(編集 浅野勝巳、小林寛道、 杏林書院発行)にまとめられている。