1. HOME >
  2. 自伝的「健康とスポーツの科学」連載「月刊私の世田谷」より >
  3. 日本体育学会第50回記念大会 1999

日本体育学会第50回記念大会 1999

26 日本体育学会第50回記念大会について

日本体育学会が創設50年を迎えるので、1999年に記念の大会をやろうという計画が持ち上がった。どのような企画案がよいか、いろいろな議論があった。本来ならば開催校は関西地区であったが、記念大会は東京大学でおこなうことがよいだろうということで、駒場キャンパスでおこなうことが決定された。開催の約2年前のことである。大会組織委員会委員長には私が指名され、事務局長には金久博明助教授が就任することになった。日本体育学会の中に「50回記念大会特別委員会」が設置され、どのような内容の記念大会にするについて検討された。一つは、国際シンポジウムを行おうということで、国際委員会の山口順子先生を中心とするシンポジウムが2つ計画された。
日本体育学会を取り巻く、この頃の状況をとらえてみると、日本体育学会の空洞化が懸念される事態が次々と起こっていた。第一は、大学設置基準の大綱化がおこなわれたことにより、「体育」という名称が使われなくなり、「体育」への愛着が希薄化する傾向にあった。第2には、専門分科会とは別に「独立学会」が次々と設立され、それぞれの学会がオリジナリティーを主張するようになっていた。体育学会で発表するよりは、専門の独立学会で発表する方が価値があるという認識を若い研究者が持つようになってきていた。第3に、日本学術会議に届け出をおこなうことにより、日本体育学会と独立学会とが、学術会議会員の選挙などでは対等な権利を認められている、などの理由により、日本体育学会の存在理由が、揺るぎ始めているように感じられた。
 私は、こうした状況の中で、日本体育学会の存在価値を見直し、多くの会員の心のそこに存在する「日本体育学会の相対的な地盤沈下意識」を払拭することが必要であることを強く感じていた。50回記念大会は、そうした潜在意識にある地盤沈下の傾向を払拭し、日本体育学会は、「必要な学会」という積極的な意識を、会員に呼び覚まさせなければならないと考えた。
 こうした大きなテーマを考える原点として、10年前の1989年に日本体育学会第40回大会が横浜国立大学でおこなわれた際、「学会改革の方向を探る~マンモス化か、脱皮か、それとも変態か~」と題する特別シンポジウムが開催され、私が「日本体育学会の将来へ向けて」と題して提案をおこなっている経験があった。この企画は当時日本体育学会の理事長であった浅見俊雄先生が考えたもので、若手の研究者を代表して、理系から私、文系から寒川恒夫氏がシンポジストとして登壇している。その時の主張を振り返ってみると、体育学は、教育という範疇に収まりきれなくなっているので、教育的価値からはなれて「人間の身体運動に関する科学」というとらえ方が必要であり、学問領域を表わすイメージを明らかにするには「体育・スポーツ科学」という名称を持つことが望ましい時代になっている、という見解であった。日本体育学会の専門分科会とは関連を持たずに、独自の学会や研究会の組織化が進んでいるが、「スポーツ○○学会」というように、スポーツをつけた名称である場合が多い。これらは、体育学という範疇にこだわらずに、体育関係者以外の人を含んで、「スポーツ」という概念を大切にした考え方をとっている。こうした学会の担い手になっているのは、主として日本体育学会の会員であるが、従来の日本体育学会の活動範囲内だけにとどまっていたのでは、学術的欲求を満足させることが出来ない会員が多くなっていることや、多様な社会的要請や必要性に対応しようとする意図から来る独立学会創出現象であるととらえることが出来る。こうした独立学会が多数になれば、将来構想の一つとして、「日本体育・スポーツ科学学術連合」を創設し、日本体育学会は中心的な組織として、国際学術誌の発行、情報センターとしての役割、公報・サービス業務、や研究プロジェクトの申請、などをおこなう世話役的な存在になると良いとしている。
 日本体育学会の将来像を考えた10年前の構想の一部を、50回記念大会で実現させてみたいと考えた。「そのようなことは不可能だ」という意見もあり、積極的に反対する意見もあったが、やはり、時代の流れとしては、どうしてもこれをおこなってみることが必要であると考えた。
もっとも賛同が得られやすい方法は、日本体育学会と独立学会との共催シンポジウムの開催である。まずテーマを設定して、テーマごとに複数の独立学会との共催形式をとることにした。また、50回記念大会の開催期間中に独立学会の学会大会を開催してもらい、開催場所は組織委員会が提供する形をとることにした。従来どおり、日本体育学会の13の専門分科会は、それそれ独自にシンポジウムやキーノートレクチャー、一般発表を行い、日本学術会議主催のシンポジウムも大会期間中に一つ開催することにした。また、届け出団体が、独自にイブニングシンポジウムを開催することも可能とした。このような盛りたくさんな企画を実行するために、通常3日間の大会日程を5日間とすることにした。
 この記念大会の名称は、「日本体育学会第50回記念大会/体育・スポーツ関連学会連合大会」とした。実際のところ、どのような関連学会が存在するのか、明確にわかる人は誰もいなかったし、お互いにどんな学会があるのかわからないというのが実情であった。参加資格を持つ学術団体は、日本学術会議の登録団体であること、および登録団体でなくてもきちんとした学術団体としての活動実績を持っていること、などを条件とし、「学会の存在」を明らかにすることの作業から始めた。
独立学会の側に立てば、6000人を擁する日本体育学会との共催と銘打って、「日本体育学会が親学会振りを発揮して干渉するのではないか」、「覇権を主張するのではないか」という懸念や、「独立学会なので独自性を尊重するという立場を明確にしなければ参加できない」など、さまざまな意見が飛び交い、挙句の果て「そんなことは出来っこない」という意見まで公言するひともあらわれた。しかし、それらは悪意に満ちたものではなく、「良いことかもしれないけれど、出来るはずがない」という積極的不可能論ともいえる考え方であった。
50回記念大会を関連学会連合学会とするといった総合的概念を持ち出し、独立学会の世話人に話をすると、趣旨は悪くないが、「実現は難しいのではないか」というのが大方の雰囲気であった。しかし、積極的に参加するという独立学会の意見も聞こえるようになり、学会大会の1年前では、開催のめどが立つようになってきた。日本体育学会の理事長は勝田 茂先生で、独立学会との打ち合わせの会には必ず出席してくれた。学会大会委員会委員長は金子公宥先生で、「カンドウ君なら出来るよ」「カンドウ君しか出来ない仕事だよ」と励ましてくれた。こうした集合体の共同作業では、初めから協力してくれる団体と、最後まで様子見を決め込み、大勢が固まったところで、参加を決める団体とがある。後者の場合は、最小の努力で、メリットだけは共有するというタイプである。打ち合わせ会に休みがちの団体の一つから、途中から開催実現のペースが速まったことにたいして、「強引な進め方だ」という文句をいわれたケースもあった。しかし、よくその人を観察してみると、いつも一言ある場合が多く、「簡単に進められてはたまらない」という感覚であったり、「簡単には思うようにはさせないよ」という「チェック機構の意思表示」であったりする場合であることが多いようだ。全体を機敏に判断する能力とは異なって、マイナス要因を心配する発想法が取られている。こういう人には、安心できる内容を提示することが、一番大事である。

仕事のやり方として、まず共催シンポジウムのテーマを提示した。あらかじめ参加が可能そうなテーマを考え、それに参加団体の意見を加味して修正する手順をとった。代表者会議で決まったテーマは次のようなものであった。テーマは、ほぼ1年前までに準備した。
1.マスターズスポーツ、2.スポーツ科学の成果と競技力向上Ⅰ、3.アウトドアスポーツと環境問題~自然との共生を求めて~、4.21世紀における体育学研究の方向、5.スポーツ科学の成果と競技力向上Ⅱ:ボールゲーム、6.スポーツの技術指導を考える、7.地域とスポーツ活動~総合型地域スポーツクラブと地域社会の可能性~、8.からだを育てる~学校という場の再生を賭けて~、9.武道と教育、10.賭けとスポーツ、11.生涯スポーツとしてのウォーキング・ランニング、12.スポーツ産業とマーケティング~スポーツ文化のマーケティングとスポーツ産業~、13.スポーツと「身体知」、14.21世紀の大学体育のあり方、15.生涯学習社会におけるダンス学習を考える、16.スポーツ科学とフィールド研究、17.学校体育の制度とあり方、18.スポーツに関する資格取得とその問題点、19.障害者スポーツ~生涯スポーツと競技スポーツ振興のために、20.スポーツ科学の成果と競技力向上Ⅲ~運動学とバイオメカニクスは融合できるか~、21.学習指導要領と体育、22.ジュニアアスリートとトレーニング~子どもの全国大会のあり方を考える~、23.高齢者の健康・運動、24.日本人とスポーツ文化、25.子どもの心とからだの発達と社会的反映、26.スポーツにおける力と技、27.スポーツ科学の成果と体育科教育、28.高齢化社会における体育の役割。

 こうした具体的なシンポジウムテーマが提示されると、このテーマなら共催シンポジウムに参加しても良いという独立学会が明らかになってきた。結果的には、26学術団体が、日本体育学会との共催シンポジウムを開催することになった。
それらの学術団体は、次のような名称を持った団体であった。
1.日本体育・スポーツ哲学会、2.日本スポーツ社会学会、3.日本スポーツ心理学会、4.日本体育・スポーツ経営学会、5.日本スポーツ方法学会、6.日本学校保健学会、7.日本スポーツ教育学会、8.社)日本女子体育連盟、9.日本武道学会、10.日本レジャー・レクリエーション学会、11.日本スポーツ産業学会、12.日本スキー学会、13.日本スプリント学会、14.日本ゴルフ学会、15.日本テニス学会、16.日本運動・スポーツ科学学会、17.ランニング学会、18.日本スポーツ運動学会、19.日本体育・スポーツ政策学会、20.トレーニング科学研究会、21.バレーボール学会、22.ボールゲーム研究会、23.運動生化学研究会、24.社)全国大学体育連合、25日本冬季スポーツ科学研究会、26.日本水泳・水中運動学会。
学会を期間中に開催した学会は、1.スポーツ史学会、2.日本運動生理学会、3.日本バイオメカニクス学会、4.日本体育科教育学会、の4学術団体であった。

このようなわけで、50回記念大会は大変賑やかな学会となった。面白いことに、それぞれの学会がある意味で面子をかけて取り組んだ、という様子も窺われた。
夕刻からは、イブニングシンポジウムと題して、大学体育教育研究会、大学スキューバダイビング研究会、ソフトテニス医科学研究会、NPO法人ジュース、日本生涯スポーツ研究会、および共催シンポジウムをおこなった団体のうち、10団体が独自のシンポジウムを開催した。
この大会は、まさしく総合的な記念大会となり、あらためて体育・スポーツ科学が取り組んでいる多様性や、専門性、複合性について認識が高まり、終了した時点で、」面白く有意義な大会だったと評価された。これらのシンポジウム内容は、大会終了後に3巻の本にまとめられた。タイトルは、「21世紀と体育・スポーツ科学の発展~日本体育学会題50回記念大会誌」(日本体育学会第50回記念大会特別委員会編・杏林書院発行)とされた。大掛かりな体裁であるが、すでに相当部数が販売され、6年が経過した今日でも杏林書院には注文が時々入っているという。
この複雑怪奇な50回記念大会を取り仕切ったのは、金久博明氏である。彼の働きぶりは、誠実の一言に尽きる。平成19年春、金久氏は総合文化研究科の教授に昇進した。いずれ、これらの経験を生かして駒場で体育学会大会を開催してくれるかもしれない。
50回記念大会では、中曽根弘文文部大臣(当時)を迎えての記念式典をおこなった。現職の文部大臣が見えるということで、学部長、評議員もお出迎えし、会場付近もにわかに掃除がはいって美しく整備された。この大会に参加した感想として、「こんなに真面目に勉強した学会は初めてだ」という年配者の声も聞かれた。確かに朝から夜まで、どこの会場も人がいっぱいの状態であった。体育学会会員および関連学会の会員の真面目さと熱心さが結集された記念大会であった。この大会の開催によって、日本体育学会の存在価値がどこにあるのか、それぞれの立場で理解されたように思われる。