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国際バイオメカクス学会大会 1981

第8回国際バイオメカニクス学会大会(1981年 於:名古屋) 

第8回国際バイオメカニクス学会大会は2年に一度開催される国際バイオメカニクス学会の公式学会大会として、昭和56年(1981)7月20日から24日まで愛知県産業貿易館で開催された。大会会長は名古屋大学教授の松井秀治先生、事務局長を私が務めた。
名古屋大会は、日本を含む23カ国から419名の参加があり、国別に見ると、アメリカ21、スウェーデン11、カナダ9、韓国9、西ドイツ9、イタリア6、ソ連6、オーストラリア4、台湾4、ポーランド4、中国3、スイス3、エジプト2、イギリス2、フィンランド2、フランス2、南アフリカ2、ベルギー1、ブルガリア1、ブラジル1、東ドイツ1、オランダ1、および日本271、という人数であった。
 開会式は、7月20日午前9時、石塚直隆名古屋大学学長、中谷義明愛知県知事(代理)を来賓として、行なわれた。その前夜、愛知厚生年金会館で行なわれた歓迎レセプションでは、大会参加者のほかに、寄付者、大会協力者を招待し、愛知県知事も臨席され、参加者が400人という盛大な会になった。パーティー会場の中央には、氷の彫刻がすえられ、雰囲気が盛り上がった。テーブルには300人分の料理、屋台として焼き鳥150人分、ひやむぎ150人分、すし150人分、かき氷100人分を用意したが、その旺盛な食用の前にみるみる消化されたのは圧巻であった。薦被りの4斗樽の日本酒やビールも思う存分味わってもらった。
 アトラクションとして、金城学院大学の琴演奏、および愛知県無形文化財の指定を受けている尾張旭市の「棒の手」東軍の、真剣、真槍を用いた数々の演技が披露された。浴衣姿の女子学生の箏曲演奏の『静』、勇猛な「棒の手」の『動』との組み合わせによって、日本文化の振幅の大きさと深さを味わってもらおうという趣向であった。このパーティーでは、事務局の加藤典子さんが、華麗なエレクトーンの演奏でムードを盛り上げてくれた。
7月21日には、午後2時から、7台の観光バスに分乗して明治村、犬山城を見学した後、犬山の鵜飼を見物した。25艘の船を借り切っての鵜飼見物は小雨ながらの天候ながら、実に優雅、幽玄の世界を満喫することが出来、大変好評であった。鵜飼のおわりには、雷交じりの豪雨にみまわれた。意外なことに、これがまた好評で、「鵜飼は本当にすばらしかった。それにどうして君たちは天気まであのようにドラマチックに演出できるのだい。本当にすばらしかった」とジョーク交じりの賞賛を何人もの参加者からいただいた。
7月23日は、午後2時から4つのコースにわかれて施設見学を行なった。①愛知県心身障害者コロニー(50名)、②労災義肢センター(50名)、③トヨタ自動車(100名)、④麒麟麦酒工場(50名)。これらのコースのうち、①②③は満員で、④にかろうじて余裕があったほど、多くの興味が持たれた。
レディース・プログラムも準備した。同伴婦人の接待も、このような国際学会には重要なものである。7月20日は、徳川園、花嫁ショー、名古屋城見学、7月21日は、鵜飼見物に先立ち、犬山有楽園にて茶会、7月22日は、愛知県小原村和紙のふるさと、および瀬戸陶磁器センター見学、7月24は、ノリタケ工場見学、といった具合に、奥様方にはこのレディース・プログラムを嬉々として満喫していただいたようだ。
このような企画も、現在ならば全て旅行社やイベント業者に任せてしまうのが普通であるが、この時代は全て主催者が準備し、まさに手作りのおもてなしであった。外国から遠い日本に来てくれるお客様を精一杯もてなしたいという心の現われであった。
7月24日、学会最終日には、午後6時から名鉄グランドホテルの大宴会場で、バンクェットを開催した。参加人数は291名、テーブル列の端から端まで、遠くて見えないほどの大宴会であった。国際バイオメカニクス学会から、本大会開催に対する謝辞が述べられ、数々の表彰がジョーク交じりに行なわれた、和やかな雰囲気のうちに閉会した。

パーティーや観光ばかりに力をいれたわけではない。研究発表や招待講演にも多くの心配りをした。
本大会の演題発表は、特別招待講演3題(各60分間)、セッション別招待講演13題(各30分間)、一般口頭発表118題(各15分間)、一般ポスター発表95題(各5分間の口頭発表時間をもつ)、一般TV発表4題(各30分間)、総計233題が予定された。
これら全ての発表内容について、形式が整うようにタイプを打ち直し、プログラムを作成した。この作業が非常に大変であった。特にアメリカ以外の国から送られてくるアブストラクトの原稿は、インクリボンのインクがかすれたものや、そのままとても印刷できるような状態ではないものがほとんどであり、特に経済状態の悪い国では紙の質も極端に悪いものが多かった。プログラムとアブストラクトの冊子が出来上がってみると、学会大会の全体像がつかめてくる。これらの冊子の表紙には、名古屋城の鯱をデザインしたものをロゴマークとして用いた。

 特別招待講演およびセッション別招待講演はすべて予定通り行なわれた。一般発表217題のうち、実際に発表されたのは185題で、その内訳は、口頭発表98題、ポスター発表83題、TV発表4題であった。プログラムに予定された演題のうち、32題の演題がキャンセルされた。キャンセルされた演題の国別内訳は次のとおりであった。ソ連8題、カナダ・仏・スウェーデン・米国より各3題、伊1題、および他の9カ国より各1題。ソ連からのキャンセルが多いのが目立った。この理由は、参加申し込みのあと、アブストラクト原稿が送られてくるが、それがアクセプトされても実際に参加する意思がなかったと見られるケースが考えられた。自分の発表が国際学会のアブストラクトに掲載されたという事実をもって目的を終わるのである。これらの人たちからの参加料の払い込みは皆無であった。
 バイオメカニクス関連科学機器の展示会もポスター発表会場に隣接して開催された。35社がこの展示会に参加出展し、最近の研究システム、研究機器のデモンストレーションが行なわれた。この幹事役を請け負ってくれたのが株式会社八神の小林勝司さんたちである。
 
この学会大会で意図したことは、バイオメカニクスという学問を、体育・スポーツ関係者による研究領域にとどめず、これを「人間の動きの科学(Science of Human Movement)」として位置づけ、人間の動きに関する学問領域からの参加者を広く呼びかけることにあった。そこには、体育・スポーツの他に、医学、整形外科、リハビリテーション、人間工学、神経筋コントロール、計測工学、自動制御工学、などの分野が含まれている。従って、組織委員会メンバーもこのことを意図して構成されている。このような幅広い発想は、松井秀治先生の基本的な考え方である。
バイオメカニクスという新しい学問分野を更に発展させるためには、既成の概念にとらわれることなく、「Human Movement」の研究をすすめる上で、お互いにどのような基礎知識を持っていたら思考の幅を広げられるであろうか、ということを前提として招待講演者の依頼を行った。アメリカを例にとれば、若い研究者たちは自分の専攻分野を狭く深く研究することによって自分をスペシャリストとして位置づけ、そのことによって社会的な立場を築こうとする傾向が強く見られている。また、事実アメリカ社会ではスペシャリストでなければ受け入れがたいという体質を色濃くしている。スペシャリストであってしかも人間の全体像について幅広い視野を備えていくことが人間そのものを研究対象とする研究者にとって必要欠くべからざる将来の方向であろう。この傾向はアメリカのみならず、科学が進歩すればするほど心がけなければならないもののように考えられる。
その意味で、開会式直後の特別招待講演者には、筋生化学者として世界的業績をあげているP.D.ゴルニック教授を依頼した。ゴルニック教授はバイオメカニクス分野の研究者ではない、という批判が一部には聞かれたが、ゴルニック教授の講演は多くの研究者に深い示唆を与えてくれたと考えられる。動物の運動解析の第一人者、東 昭教授(東大工学部境界領域研究施設)に動物の飛翔や泳動作についての特別招待講演をお願いした。人間の動きの研究を行ううえで動物の動きの研究との違いなどを認識することは大変有意義であろうと考えられたからである。第3の特別招待講演者は、国際バイオメカニクス学会次期会長のP.コミー教授(フィンランド)で、その将来の研究課題について多くの示唆に富む講演を依頼した。コミー教授は、ペンシルバニア州立大学のバスカーク教授の研究室で博士の学位をとり、若手の研究者として注目されている学者で、ユバスキュラ(フィンランド)で行なわれた第5回の国際バイオメカニクス学会会長勤めている。

13題のセッション招待講演の依頼については、次の通りであった。
一般バイオメカニクス:W.バウマン(西ドイツ)、スポーツ:J.G.ヘイ(アメリカ)、F.サイベネ(イタリア)、人間工学:G.ラウ(西ドイツ)、D.ブリーヴ(イギリス)、医学:Y.S.ハン(台湾)、鈴木良平(長崎大)、リハビリテーション:D.ウィンター(カナダ)、A.モレッキー(ポーランド)、方法工学:B.M.ニック(カナダ)、G.マーホールド(東ドイツ)、神経筋コントロール:S.ボイセー(フランス)、本間三郎(千葉大)。
 これら招待講演者と事務局との手紙の往復は合計152通、国際電報14通、国際電話3回、という多きにわたった。国境を越えてこれだけ多くの優れた研究者が一堂に会する機会を作ることの難しさを身にしみて思い知らされた。1980年頃には、インターネットもワープロもなく、ただひたすらIBMのタイプライターを打ちまくる日々が続いた。手紙はコピーでは、招待者に対して失礼にあたるので、一枚ずつオリジナルでタイピングする必要があった。こうした英文タイプの仕事を一手に引き受けてくれたのが、名古屋大学文学部をでたばかりで秘書となった藤田由子さんであった。
 この学会大会の組織委員会メンバーは次の先生方であった。
委員長・松井秀治(名古屋大学)、副委員長・宮下充正(名古屋大学)、委員・浅見俊雄(東大)、星川 保(愛知県立大学)、石井喜八(日本体育大学)、石川利寛(順天堂大)、伊藤正美(名古屋大工学部)、金子公宥(大阪体育大)、加藤一郎(早稲田大学)、熊本水頼(京都大)、渋川侃二(筑波大)、杉浦康夫(西尾市民病院・整形外科)、高田和之(豊田高専・自動制御)、土屋和夫(労災義肢センター)、矢部京之助(愛知県心身障害者コロニー)、山川純(日女体大)。

学会大会運営のいわば裏方をつとめたのが毎週火曜日に名古屋大学に集まって勉強会を行なっている「火曜会」のメンバーを主体としたチームであった。火曜会では、サンドラ角田婦人を英会話のコーチに招いてこの学会大会に向けて約10回の特訓を受けた。この特訓中、最も進歩したのが松井秀治先生であったというがサンドラ角田の評価であった。
裏方チームの構成は次の通りであった。
事務局長:小林寛道、秘書:藤田由子、
発表会場・国際ホール:星川保、豊島進太郎、階段ホール:宮村実晴、安田好文、大桑哲男、加藤典子、
展示・ポスターホール:高田和之、池上康男、山本親、斉藤満、市川真澄、株式会社ヤガミ(小林勝司、長谷川和久)、
インフォメーション:三浦望慶、小野満みどり、袖山紘、島岡清、橋本勲、伊藤久子、妹尾江里子、
エクスカーション:村瀬豊、亀井貞次、レディース・コース:松井夫人、矢部夫人、小林夫人、
論文審査:Dr.コミー、大平芳宣(UCLA教官)、
会計:芳賀洋和、永井敦子、
宿泊・旅行:近畿日本ツーリスト。
 また、各パートで、東大大学院生10名、愛知県立大学外国語学部および文学部学生21名、名古屋大学学生5名、愛知県ボランティア通訳(イギリス・ドイツ・フランス)7名の方々のご協力をいただいた。
また、愛知県、名古屋市をはじめ、80社1個人から寄附をいただいた。

閉会式の席上、今大会の成果や参加者状況についての発表を事務局長として行なった。途中まですらすらと報告事項を述べて、「日本は遠く離れた国なのに、多くの方々がよく集まってくれました」というお礼の言葉を述べながら会場を見回したところ、会場中段の左手奥に離れて座っていた3人の中国からの参加者が目に飛び込んできた。そのうちの二人は、私が松井先生たちと一緒に中国にバイオメカニクスの講義に行った時に参加していた中国国家体委のバイオメカニクス研究者であった。おそらくこの学会大会に参加してカルチャーショックを受けているに違いなかった。彼らはちょこんと借り物のように座っていた。その姿を目にした私には、ある強い感情が胸いっぱいに湧き上がってきて、嗚咽にもにた震えが全身をめぐり、目頭も熱くなり、次の言葉が発せなくなってしまった。今、自分は、国際学会の事務局長として、もうすぐこの仕事を終える瞬間を迎える。その瞬間に、目の前にいる中国からの客は、もしかしたらまったく逆に自分の姿だったかもしれないのだ。
人の運命はわからないものである。

国際バイオメカニクス学会大会が終了した翌朝、久しぶりに我が家の庭の野菜や植木たちにホースで水をかけてやった。自然に、次のような句が浮かんできた。
 「大役を 終えて水撒く 夫かな」