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第16回初めての中国訪問~バイオメカニクス指導1979

第16回 初めての中国訪問 ~バイオメカニクス講学指導~

文化大革命が終わり、4人組が追放されて数年が経過した1979年頃、中国から、日本体育協会を通じて松井秀治先生のところにバイオメカニクス研究(生物力学)に関する講学指導の依頼が舞い込み、この招請にこたえて、バイオメカニクスの講義と実習指導を行うため、北京を訪問した。
指導スタッフは、松井秀治団長、星川 保、小林寛道、三栄測器株式会社鈴木技師の4名であった。
中国民航のジャンボ機にのり、北京空港に降り立って、薄暗い空港ロビーで入国審査をうけた。大きな荷物や実験機材なども引き取り、待ち受けていた人の案内でマイクロバス乗り込んで、背の高い樹木が道の両脇に植えられた細長い並木道を市街に向けて約1時間ほど走った。はじめて見る中国大陸の様子は、第2次大戦後の日本の様子にも似ており、大きな荷物を積んだ大八車を馬が前にかがむようにして引っ張っている様子があちこちで見られた。
満州で生まれ、3歳で日本に引き上げてきた自分の生い立ちや父母や家族のさまざまな満州に絡む  思いが、一気に体中からわきあがってきて、並木道をバスが走っている間中、涙腺から止め処もなく涙があふれ続けた。時々鼻をかむ私の様子に気づいた星川先生が、無神経に「おまえ なにやってんだ」と声をかけた。歌手の加藤登紀子が「はじめて北京空港から市内まで続く長い並木道を車に乗せられて走ったとき、車の中で泣き続けた」という新聞記事を「人国記:外地編」という欄で読んだことがある。外地でうまれたものにとっては、そうした感涙をそそる情景がこの並木道にはあるのだと思う。
ホテルに着いて一泊し、翌日からは講義が始まった。中国では、講義や講演を「講学」とよぶ。
受講生は、中国全土から汽車で3日間をかけてやってきたという人もいて、広い講義室には200名ほどが集まり、その全員が人民服姿であった。当時は、街を歩く女性も、全員が人民服を着ていたが、パーマネント(電髪)が大流行で、おかっぱのような髪型の人たちにまじって、電髪姿の人たちがおしゃれな感じを漂わせていた。
講義が行われた場所は、国家体委・体育研究所というところで、天檀公園の近くの体育館広路というところにあった。
講義の内容は、松井先生の体育科学に関する内容、および実験実習として、写真映像から作図法による身体重心の算出法、筋電図導出法、無線による心電図記録法、半導体による圧力測定法、などであった。実験実習では、私がモデルで上半身裸となり心電図電極をつけるなどした。真冬の寒い季節に裸になって電極をつけたことが、とても気に入られたようである。「身をもって範とする」ことは良いことであると褒められ、体育研究所長の王 汝英先生は、実験の待ち時間には暖かい毛皮の防寒服を両肩からかけてくれた。季節は2月であった。気合がはいっているときには、寒さもさして感じないものだ。
授業は、大変な熱気に満ちていた。1時間の講義をすれば1時間の質問の時間が用意されており、いくらでも質問が出てきて、ホテルに帰ってからも夜中までスタッフからの質問攻めにあった。
4日間の講義は中国の人にとってはカルチャーショックであったと思う。「昔、日本は中国から多くのものを学んだ。今は、日本が中国に教えてあげる時である。我々モンゴロイドは、仲間であり、兄弟である。長い歴史の中で深く付き合ってきた。これからも友好を深めて、貴国の発展に協力して行きたい」。松井秀治先生は、常に大局的視点から中国の研究者や管理的立場にある人と会話した。松井先生は、こうした大義名分を精神的バックとして行動したり、話をしたりする時が最も気分が高揚するようであり、そうした気持ちは、中国側にもおおいに受け入れられた。「自分たちは、4千年の歴史を持っているが、近代科学技術の面では非常に立ち遅れている」と言う劣等感を中国のだれもが強く抱いていた。
体育研究所長の王 汝英先生は、文化大革命の最中は10年間、調理人をしていたが、同僚の先生の中には農村でレンガを積む作業に従事させられていた人もいたという。通訳をしてくれた上海体育学院の学院長である陳先生は、とても日本語が上手で、日本で教育を受けた人であるが、文化大革命のときはブルジョア階級だということで紅衛兵にひきまわされ、農村で重労働をさせられたと言う。
文化大革命の10年間は、子どもたちは学校で勉強することも少なかったので、「この人たちがおとなになった時には困ったことになりますよ」と言うことであった。
 中国には、松井秀治先生に先立って、日本からはスポーツ医学の黒田善雄先生、運動生理学の石河利寛先生が先に講義に招待されていた。バイオメカニクス部門では、国際バイオメカニクス学会の会長であるアメリカのネルソン教授が招請されており、ネルソン教授は、持ち前のユーモアで人民服(毛沢東スーツを略してモースーツ)をきて講義したそうである。中国の人は、外国に出るときだけ背広着用が可能な時代であった。ネルソン教授のユーモアは中国ではあまり受けなかったようである。

田中角栄首相が日中国交回復を果たしたのが 1972年であり、それから7年しか経っていない頃である。中国の旅行は、中日友好使節団と言うことでなければ 入国が認められず、利用する紙幣は外国人のみが使える中国銀行紙幣で、民衆は中国人民銀行の発行する人民紙幣を用いていた。
休日には、万里の長城、故宮博物館、天安門広場、十三陵を見学させてもらった。民衆の1か月分の食費に当たるほどの豪華な中華料理をご馳走になった。談笑するうちに、中国では毛沢東主席よりも周恩来首相の人気が高く、深く敬愛されていることも知った。周恩来首相(1898~1976)は、1975年に国防、農業、工業、科学技術の4つの分野の革新を目指す「4つの現代化」を提唱した。我々が招請されたのも科学技術の現代化の一つとしての活動であった。周恩来首相は、毛沢東時代に失脚しなかった唯一の側近であった。周恩来は、文化大革命のときにも閣内に留まり、毛沢東の意思にしたがったが、毛沢東の暴走を少しでも抑えるために、我慢に我慢をかさね毛沢東に従ったのだという。周恩来は、失脚した人たちをもかばい、蔭で助けた。紅衛兵が故宮を破壊しようとしたとき、周恩来は軍隊をだして、故宮を破壊からまもった。「文化大革命で私は10年寿命を短めた」ともらしたと言う。また、周恩来を近くで見た人の話によると、「周恩来が歩くと彼の周りには不思議に風が感じられた」という。我々が中国を訪れた時、いたるところで紅衛兵に破壊された石仏や文化財の姿に接した。紅衛兵は、中国の伝統的な文化を破壊しようとしたのであるから、秦の始皇帝時代の焚書坑儒のような気分で行動していたのであろう。
4日間の北京での講義をおえて、次の講義が行われる四川省成都に向かった。成都には春の息吹が感じられた。公園の柳が淡い緑色の新芽を吹いていた。北京の緊張した空気とは異なって、全体にほっとする雰囲気を感じた。農村に行けばいくほど人の数が多く、日本とは全く異なった状況であった。杜甫堂を見学し、諸葛 亮の「出師の表」を見学した。日本人が来たのが珍しいのか、大勢の人が我々一行の後ろを付いて回っていた。その中には子どもの姿もあった。
松井先生には太い筆と大きな紙が用意されており、何か記念に書き残すように要望された。松井先生は固辞されたが、仕方なく一筆をしたためられた。
四川省では、実験実習はなく、松井先生の講義だけだったので、われわれは気が楽であった。夜はクラシックバレーの見学に招待された。クラシックバレーでは「白鳥の湖」が上演されたが、舞台の前面には透けて見えるカーテンが下ろされており、バレリーナの裸に近い身体をじかに鑑賞することができないように配慮されていた。 
四川省では、地区のリーダーである王先生が、大きな声で、一言、一言、はっきり区切った発音で、指先での表情も含めて多くの人に説明やら指示を与えている。中国共産党の優秀な指導者であることが伺われた。この王先生は恐ろしいほどの達筆家であり、筆の穂先からはなれた高い位置で筆を軽く握り、さらさらと字を書く筆使いの見事さには、ただただ感心するばかりであった。たくさんのお土産も用意してくれていた。礼節を重んじる国、中国の規律正しい、つつましい生活の一端に触れることが出来た。
当時、日中国交回復の記念に周恩来首相からおくられた「らんらん」「かんかん」というパンダが上野動物園では大変な人気で、パンダブームが起こっていた。パンダは四川省に生息しており、笹を主食としている。四川省の自然動物公園にも案内してもらい、そこに多くのパンダが飼育されていた。パンダのしぐさを観察してみると、背骨の柔らかさに特徴があり、軟体動物のように背骨が存在しないような動き方をするので、ユーモラスで可愛いさがあらわれているのであろうと感じられた。時々野生のパンダも人里にあらわれるという。四川料理は辛いことが特徴だと言われるが、接待の宴席では地元の有力者も美味しい食事が出来るので楽しみのようだ。頭がぴかぴかにひかり、でこぼこに頭にこぶ状の隆起がある顔の大きな豪傑タイプの人が、どんぶりにたっぷり唐辛子がはいったひりひりするようなとびきり辛いスープをさも美味そうに、酒の一気飲みのように飲み干した様子に接し、「この国には怪物がいる」と驚かされた。
このような様子で、はじめての中国旅行は何とか終了した。いただいた記念品を山のように携えて帰路に付いたが、中国に持ち込んだ三栄側器の機材は「中国の科学技術発展の一助に」とすべて寄贈した。
その後、中国との文化交流は毎年のように続いた。
特に、日本体育協会が中国との「日中共同研究」を熱心に推進した。
はじめての中国訪問のおり、講義の通訳は上海体育学院長の陳先生であったが、このとき若い通訳の人が汗をかきかき中国側との会見で日本語の通訳してくれていた。この人が、のちに日本体育協会の「スポーツ選手や青少年の体力に関する日中共同研究」で、通訳として大活躍する張 敏先氏である。このころはまだお世辞にも上手な通訳とはいえなかった。張さんは、「自分は日本語はあまり上手くないが、日本語を中国語に翻訳する能力は優れている」と自慢していた。張さんは、文化大革命の頃は紅衛兵として激しく活動したらしい。中国と台湾の話題になると、声をおおきくし、興奮の色を目に浮かべて何かと教条的な内容を演説しまくる。こういう状態のときに、議論を吹っかけると、彼はますます興奮してくる。
日本語で書かれた文献を中国語に翻訳することが「体育研究所情報部」の部員である彼の主たる仕事であった。張さんは、私の論文は必ずといってよいほど中国語に翻訳して発表して続けたので、しばらくすると中国の研究者から、「小林寛道先生は、中国では大変有名な学者です」という声が聞かれるようになった。
張さんは、1991~92年の2年間、日本体育協会を身元引受人として日本に留学しているが、その成果として論文を書かなければならない義務があった。日本体育協会から日本オリンピック委員会が独立して間もない時期に当たり、そのあたりの資料を収集していたが、どうしても論文にまとめることが出来ないで苦しんでいた。そのことを相談された私は、論文にまとめる作業を手伝い、その成果を「体育の科学:外国人からみた日本の体育事情」というタイトルで発表できるように体裁に整えてあげた。
この論文の成果を認められて、帰国後に「助理研究員」に昇格している。張さんは町田市に新しく建築した我が家にも宿泊したことがあり、まだ庭の整備まで行き届かずに、簡単な畑をつくり、野菜の種をまいておいたが、育った野菜の様子を見て、「先生は畑の作り方がなっていない」と酷評して、紅衛兵時代に培った野菜作りの方法を伝授して帰っていった。秘訣は、肥料のやり方や畝の作り方にあるようだ。