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1991年世界陸上バイオメカニクス研究特別班の活動について

1991 日本陸連バイオメカニクス研究特別班の活動

1991年に第3回世界陸上選手権大会が東京で開催され、日本の陸上競技界では、東京オリンピック大会以来の大きな世界大会の開催となった。
この世界陸上選手権大会は、国際陸連が主催するもので、日本陸連は、国際陸連の指導の下に動かなければならなかった。日本陸連とは別組織として、世界陸上選手権大会組織委員会がつくられ、組織委員長には安田誠克氏が就任し、佐々木秀幸氏が組織委員会の庶務担当役員となっていた。
世界一流の選手が大勢来日し、オリンピックと同様にベストパフォーマンスを発揮するのだから、この機会に世界一流選手の技術を撮影分析し、日本の選手の強化に役立つような研究活動をしたいと考えた。
陸上競技の実際の大会で、選手の活動をビデオに撮影する研究活動は、既に外国では行なわれていた。国際的な競技会で、競技中の選手を対象とする動作分析研究のための組織的なバイオメカチームを活動させたのは、国際バイオメカニクス学会の1974年の創設に尽力したR.ネルソン教授であった。ネルソン教授は、南米で行なわれたパンパシフィック大会でバイオメカニクスチームを活動させた。
大きな国際競技大会では、ローマで行なわれた第2回世界陸上選手権大会やアテネで行なわれたジュニア陸上世界選手権大会でも、ヨーロッパのバイオメカニクス研究者たちのグループが、映像撮影を行なっていた。
1988年のソウルオリンピック大会では、ヨーロッパのバイオメカニクスチームが競技中の選手の映像を記録していた。活動していたバイオメカニクスチームは国際陸連バイオメカニクス研究のスタッフということで、本部役員と同じ役割で参加しているようであった。その総数はどうみても10人未満で、韓国の研究者は含まれていなかった。

1991年の世界陸上選手権大会で、バイオメカニクス研究班を組織し、活動したいと申し出たところ、こうした外国の大会で活動が行なわれているということに気がつかなかった日本陸連や、日本の大会組織委員会では、大変驚いたようだった。そんなことはできっこないし、国際陸連が許さないであろうということであった。
日本で、競技会中に、科学的測定がまったく行われていなかったわけではなく、日本選手権大会などでは、走り幅跳びの助走路に光電管のポールをいくつも並べて、選手の走り幅跳びの助走速度の変化を測定するということは行なわれていた。これは、東京女子体育大学の菅沼文雄先生を中心とした日本陸連の技術委員会の仕事として行なわれていたが、データのアウトプットが全くないということなどで、周りの人からは不評であった。
また、フィールド内のカメラを設置するは極めて難しく、プロのカメラマンのフィールド内の撮影も厳しくコントロールしており、そのうえ研究のためのカメラをフィールド内に入れるなどはもっての外という陸連幹部職員の感覚であった。
陸上競技を中継してくれるテレビ局には、特別の配慮がなされており、テレビカメラの撮影に妨げになるものは一切寄せ付けないという「テレビ中継最優先の態度」が貫かれていた。また、観客への配慮からかんがえてみても、フィールド内に研究用のカメラがはいり、踏み切り動作などを行う近くに陣取れば、観客から踏み切りの瞬間を観ることの妨げになり、陸上競技の興味を半減させてしまう恐れがあった。その他いろいろな要因を考えても、フィールド内には余計な人やものがない方がよいという考え方が優先する。大会を運営する側にとっては、研究は研究者の興味で行なうものという感覚が先に立って、積極的に研究活動に協力するという態度はあまりみられなかった。
このような情勢にあったけれども、1991年の世界陸上選手権大会が東京で開催される機会を利用して、どうしても日本人選手の競技力向上のために役立つような研究を行いたいと思った。

マラソンなど、競技場以外の場所を使う種目では、日本人選手の活躍は見られるが、競技場を使う種目では、世界の水準から大きく引き離されているのが現状であった。陸上競技では、まず短距離種目に勝つことが盛り上がる。100mの決勝に日本人選手が黒人選手と肩を並べてゴールまで勝負できたらどれほど興奮するであろうか。日本人の短距離選手は、まったく世界の水準から歯が立たない状態であった。
黒人選手と同様に、日本人も100m決勝に進む選手を育成したい、という気持ちがバイオメカニクス研究班を組織する強い動機にもなっていた。「黒人選手に日本人選手がかなうはずがない」という感覚が常識的であった。しかし、常識を常識として諦めていたのでは、面白みがない。スポーツ科学という手段を用いて、多くの人が非常識だと思われるようなことを実現させることが面白いのである。
常識では実現不可能だと思われるようなことでも、あるあいまいさを許しながら、できるだけ高い目標を設定し、それを可能ならしめるために、いろいろと工夫努力していくことが、科学を進歩させ、人生を豊かにさせてくれる源であるともいえる。
日本人の陸上選手を世界水準に引き上げるためには、まず、日本人選手と外国一流選手の技術や動作の違いを徹底的に調べる必要がある。
この頃の陸上競技のテレビ中継は、ほとんど競技技術の解析には役立たないような撮影映像ばかりが放映されていた。テレビの中継は、競技する人の表情や動作の全体的な様子などに興味がおかれ、個々の選手の競技にかかわる技術性については、焦点があてられていなかった。このため、喜怒哀楽の様子を映し出し、「感動を伝える」といったことに画重要視された。
こうした競技の技術性を無視したスポーツ映像の撮影の姿勢は、1964年の東京オリンピック大会の公式記録映画を撮影した市川昆監督の手法に影響されたところが大きいと考えられる。
市川監督は選手の顔の一部を大きくクローズアップさせたり、筋肉の動きや滴り落ちる汗のしずくを大写しするような接写型の技法を用い、それまでにあったスポーツの技術性を記録するという姿勢からは大きく違ったものになった。
この東京オリンピック公式記録映画はこれまでの公式記録映画とは著しく異なる映像で組み立てられていたため、映画の質をめぐって賛否両論が湧き上がったが、より多くの人を感動させたという芸術性を評価する意見が優勢をしめた。このため日本のスポーツ中継は市川昆監督の求めたような方向に走り、技術性を追求するという姿勢は軽んじられるようになったのであろうと思われる。
ところが、1984年におこなわれたロサンゼルスオリンピックや、この頃にアメリカで行なわれたスポーツ中継やスポーツ新聞の記事には、スポーツの技術についての解説がかなり大きく取り上げられてた。
例えば、陸上競技では走り幅跳びの踏み切り盤の上に乗った靴の位置や、走り高跳びのバーを越える様子を横から固定カメラで撮影する映像などが流されていた。走者と一緒のスピードで真横から撮影する方法は電気自動車を用いて行なわれていたが、1989年にローマで行なわれた第2回陸上競技世界選手権大会では、観客席の上段のひさしに移動式カメラのレールを設け、選手と一緒にカメラを走らせるという工夫も行なわれていた。
この装置はローマ大会ではカメラの振動が大きくてカメラブレを起こしてあまり上手な映像は記録できなかったという。しかし、1996年のアトランタオリンピックでは技術的改良進み、100m走者を真横から並走して捕らえる見事な映像が放映されている。秒速10mで走るランナーの姿を真横から正確に並走させて撮る映像技術はたいしたものである。
ヨーロッパでも選手の競技力を様々な視点から捉えるカメラワークやカメラ装置が工夫され、競技会に参加するたびに、その工夫や大掛かりな装置をつくって撮影する心意気には驚かされるし、そうした工夫が年々進歩していることを見るのも大変楽しみである。
このような背景を考えてみても、1991年の東京大会では、ぜひ日本人でバイオメカニクス研究チームを作り活動したいと考えたのも無理からぬ発想である。
国際陸連にバイオメカニクスの研究組織を作りたいと申請したところ、その研究チームにこれまで活動してきたヨーロッパのバイオメカニクス研究メンバーを含めるという条件で、バイオメカニクス研究活動の実施は了承がとれる見込みであった。
問題は研究班を構成する人数に多さにあった。世界陸上選手権大会で行なわれる全種目についてビデオ撮影を行なうとなると、交代要員も含めて80名は必要であった。トラック種目が行なわれているときにフィールドでは2種目が行われているというプログラム編成がとられているので、研究班のフィールド部門を投てきと跳躍の2種にわける必要があった。また、短距離と長距離では計測の方法も異なるので、短距離と中距離を別々のチームにする必要もあった。
試合場面もさることながら、試合に出場する前のウォーミングアップの方法などに興味がある、という現場指導者の声もあったので、練習場に張り付くチームも必要となった。このようにしてみると80名という人数はそれほど大勢な人数ということはない。しかし日本陸連にとっては、とてつもなく大勢な人数と写った。ただでさえ、役員数を厳しく絞り込んでなんとか調整しようとしている時に80人という競技役員などとんでもないということだった。
私は「別に役員や正式スタッフでなくても構いません」と述べたが、やはりIDを発行しなければ会場に入れないし、ましてID無しで、あちこち動き回ってカメラ撮影をするといったことは不可能である。「国際陸連の主催する大会なのだから日本側ではどうすることも出来ない制約がいろいろとあるんでね。」という松岡事務局長の話であった。
私は陸連の幹部と話をするよりも大会組織委員会で庶務関係担当の佐々木秀幸先生に直接お願いする方が早道であると考えた。佐々木先生はさすがに早稲田大学教授でスポーツ科学を重んじる研究者であるから話の理解が早い。なんとかこのプロジェクトを実現させたいという強い姿勢があってあれこれと策を練ってくれた。また、「予算の方面でもよろしく」とお願いした。
佐々木秀幸先生は「バイオメカニクス研究をやることが東京で世界陸上選手権大会を開催することの本当の価値である」とまで言い切ってくれて、組織委員会委員長である安田誠克氏にもいろいろと話しをしてくれた。後日談であるが「佐々木先生はバイオ、バイオとうるさいんだ。バイオの研究班の話になると目の色が変わってね、どうしようもないんだよ。」ということであった。佐々木先生はよほどがんばってくれたのだと心から感謝の気持ちが湧き上がってきた。
「真剣に物事に取り組んでいると、いつか突然天の助けが飛び込んでくる」。バイオメカニクス研究班の人数の問題で暗礁に乗り上げかかった時に、まさに天の助けが舞い込んできた。
国際陸連から今回の世界陸上選手権大会ではビデオ審判を行なうように、という指令が突然舞い込んできた。競技審判を行う上で審判員の目だけではトラブルが生じることがあるので、ビデオ撮影を併用するということが決められたらしい。日本陸連ではこれまでビデオ審判というものをやったことがない。「困った、困った」と松岡事務局長は本当に困った様子で「日大の芸術学部の学生だったらカメラに触ることに慣れているだろうから、日大の芸術学部にお願いするか」と言われた。
私は「日大の芸術学部もいいかもしれませんが、カメラが扱えることと陸上での審判に使える映像をとることとはまるで分野が異なります。このビデオ審判はバイオメカニクス研究チームで出来ますから、ぜひこのビデオ審判をやらせてください」とお願いした。事務局長は「小林先生、本当に出来るのかね」と念を押してきた。私は「はい、出来ます。お願いします」といって松岡事務局長の心配を払拭するようにいろいろと説明した。
急遽、ビデオ審判班を組織することにした。このビデオ審判班の班長を東大教養学部の助手である松尾彰文氏にお願いした。松尾さんは高校時代インターハイの800Mで上位入賞しており、無類の陸上好きであった。研究が好きで福永哲夫先生について駒場グラウンドを利用してランニングの研究などで論文を書いたこともあるが、この頃は身体の部分体積を測定する装置などを用いた地味な研究分野を歩んでいた。私には松尾さんを活かすのは陸上競技のほうがむいているのではないかと考えていた。
松尾さんは駒場の体育科でコンピュータ世話係のような役割を担っており、コンピュータには強い様子であった。私は松尾さんにビデオ審判として走路を全部カバーできるようなカメラ位置とカメラをどのように使ったら良いか計画してほしいとお願いした。
しばらくして松尾さんは、コンピュータを駆使した実に見事な計画図を作成した。その図を見た瞬間、「この人選には間違いなかった」という自信を持った。その計画図を持って、ビデオ審判の役割を陸連の審判委員長である藤田幸雄氏に説明すると、審判委員長は安心した様子で「これで国際陸連の要望に答えられる」といわれた。

バイオメカニクス研究班のうち、ビデオ審判員としてIDを発行してもらえる人数は40名とした。朝から晩まで競技は続くので1チーム20名とし、2交代制として40人が認められた。残りの40名がバイオメカニクス研究のための研究員ということになる。これにも2交代制を主張した。
このうち外国からの研究員を3名引き受けることにし、役員になっている人を除けば賞味34名分のIDが取れればよい。2交代制とすれば1回17名が研究部署につくと言うことでこれなら納得してもらえる人数である。佐々木秀幸先生の巧みな交渉術も功を奏してとうとう予定した全員についてIDが発行されることが認められた。
日本陸連バイオメカニクス研究特別班は総勢79名、研究実行班長として筑波大学の若い研究者であった阿江通良先生を指名した。阿江先生の指名には筑波大学の先生から異論が出たが、「阿江先生は若いし、まじめ過ぎて幅も狭いかもしれないけれど、必ず日本のバイオメカニクス分野のリーダーになる人であるから、ぜひこの機会を与えて大きく育てましょう」と反対する先生に納得してもらった。
日本陸連強化本部には科学部の他に技術研究部という部が発足しており、技術に関する研究は本来技術研究部が担当するという、職掌分担があった。そこで、今回のバイオメカニクス研究は「特別班」という名称を用いて科学部と技術研究部の合同チームという体裁をとった。
技術研究部の部長は筑波大学の関岡康夫教授であった。関岡先生といえば陸上競技の世界では大先生で、陸上競技を専門とする筑波大学関岡研究室から多くの優れた指導者が育ってきていた。
1991年の世界陸上選手権大会が開催される直前に関岡先生は長年親しんだ日本陸連を離れて学生陸上競技連合の役員に専念されることになり、技術研究部長として新しく順天堂大学の大西暁志先生が就任された。技術研究部のメンバーとして、菅沼文雄先生、有吉正博先生がおられた。関岡先生としては金原勇先生の研究室の出身者である阿江さんよりは自分の研究室出身の有吉先生をこのバイオメカニクス研究特別班の班長にすえて欲しかったのだと思う。
しかし私が考えていたバイオメカニクス研究の内容は有吉先生の研究分野とは異なっており、これからの学問研究の方向性を考えてみて、どうしてもここは阿江さんにがんばってもらわなければならない場面だと思った。
技術研究部の菅沼先生を中心とするメンバーには、従来から行なわれてきた跳躍競技における光電管を用いた助走速度の計測を担当してもらい、有吉先生にはマラソンに関する技術分析を担当してもらうことにした。また、大西暁志先生にはこのバイオメカニクス研究班を日本陸連として統括していただく役割になってもらい、私がバイオメカニクス研究班全体の統括マネージャーの役割にあたることにした。
バイオメカニクスの分析では、リフェレンスといって、ある定まった点や長さを基準にフィルム撮影された映像を分析していく。100m走の走路を走るランナーの体の部分の動きを分析するためには、走路上に目印があったほうが分析しやすい。そこで、世界陸上選手権大会の準備のために国立競技場のトラックが改装された機会に、縦横10cmの白い四角形のマークを各レーンの中央位置で、10m間隔にぬってもらうことに成功した。このことによって、ランナーがお互いに接近して走っても、正確に位置関係をとらえることが出来る。
そのほかに、こまごまとした準備がつきまわったが、とうとう第3回世界陸上選手権大会の開催日がやってきた。

 大会は、1991年8月24日から9月1日までの9日間に亘って行なわれた。
「国際陸連バイオメカニクス」というゼッケンが80枚用意され、阿江通良先生が番号1.私は80番という番号が阿江先生から手渡された。国立競技場の観客席の最上段は、いたるところに橙色のゼッケンが立ち並び、バイオメカニクス研究の撮影が始まった。100m走では、ホームストレッチに10mごとにカメラが並べられ、通過する選手を真横から撮影する方法が取られた。バイオメカニクス研究班は、それぞれの大学や研究施設からホームユースのビデオカメラや高速度16mmカメラ、高速度ビデオカメラなど、40台を持ち寄り、プロカメラマンが使うカメラは、映像データサプライの深谷公男氏が担当した。
大勢の若手研究者が全国から集まったが、収集されたデータは、日本陸連、および世界陸連への報告義務が終了した時点で、自分たちの研究データとして、研究目的であれば自由に使って良いという了解の元に活動した。研究者にとっては、絶好の研究フィールドが与えられたことになる。
大会期間中は、バイオメカニクス研究班の班員たちは、燃えるような活躍を示した。特に、測定した結果を報道機関に発表する作業が注目を浴びた。外国のプレスは、バイオメカニクスデータに興味があり、データを欲しがった。ビデオ審判も、リレーのトラブルが発生したときに威力を発揮した。歴史的なバイオメカニクス研究が行なわれた夢のような日々であった。
男子100m走では、カール・ルイスが9秒86の世界新記録、2位のリロイ・バレルも9秒87の世界新記録であった。走り幅跳びでは、パウウェル選手が、鳥人といわれたボブビーモンの記録を上回り、8m95の世界新記録を樹立した。
短距離班の伊藤章氏は、これまで蓄積してきた学生のデータに加えて、カール・ルイスやリロイ・バレルなど一流競技者のデータを比較することによって、一流競技者の技術の特徴を見事に捕らえ、「短距離革命」といわれるような新鮮な理論を構築した。この理論が、日本の短距離界に大きな影響をもたらした。
跳躍班の深代千之氏は、パウウェル選手の歴史的な跳躍を分析し、ルイス型の低い跳躍角度で跳ぶ技術と、パウウェル型の高い跳躍角度で跳ぶ技術とがあり、助走の安定がファールを少なくする決め手であることも見出した。

これらの成果は、「世界一流競技者の技術」(ベースボールマガジン社)(監修佐々木秀幸、小林寛道、阿江通良)として出版された。定価4893円の本であったが、たちまちのうちに売り切れて、手に入らなくなった。
世界一流競技者の技術は、全10巻のビデオ「世界トップアスリートに見る最新・陸上競技の科学」(ベースボールマガジン社)としてまとめられ、市販された。
第1巻100m、第2巻走幅跳び、三段跳び、第3巻短距離、リレー、第4巻ハードル、第5巻中長距離、第6巻走高跳、棒高跳、第7巻砲丸投げ、槍投げ、第8巻ハンマー投げ、円盤投げ、第9巻ウォーミングアップ編(トラック競技)、第10巻ウォーミングアップ編(フィールド競技)に分かれている。
そのビデオ第1巻「短距離」を見ると、レースの展開がどのようであったかを知ることが出来る。
ビデオのナレーションは、次のように述べている。
「東京大会の男子100m走決勝は圧巻だった。レース前の予想では、カール・ルイスとリロイ・バレルのどちらが勝つか全くわからなかった。スタート後の飛び出しはミッチェルが一番早く、スチュワート、バレルと続く。10~20mでは、バレルがミッチェルに追いつくが、ルイスは5,6番手と出遅れている。30~40mでバレル、ミッチェル、スチュアートの3人が先頭にたち、ルイスは離されている。40~50mルイスの追走は徐々に始まり、先頭との差を少しずつ縮めていく。
50~60m、スチュアートにスピードは個々から急激に落ち始め、ルイスとの差は半分になる。
70~80m、ルイスはこの付近で2番手のミッチェルを捕らえる。90~100m、ルイスはゴール直前でばれると並び、一気に抜き去ってゴールインする。
カール・ルイスの優勝記録は9秒86の世界記録であった。このときのレースでは、1、2着のバレルも世界新記録、6着までが9秒台の成績で、ものすごいレースであった。」
これらのビデオを繰り返し授業でも使った。このビデオは始まるテーマ音楽が流れてくると、そのたびに燃えるように活動したバイオメカニクス研究特別班のメンバーの姿が目に浮かんでくる。この大事業を支えた人たちは、次のメンバーであった。

日本陸連:小掛照二、大西暁志、佐々木秀幸、小林寛道、菅沼史雄、有吉正博

トラック班:阿江通良、伊藤 章、松尾彰文、加藤謙一、杉田正明、八木規夫、森田正利、串間敦郎、斎藤昌久、安井年文、沼沢秀雄、佐川和則、塩田 徹、長堂益丈、菊池俊紀、高瀬哲哉、藤田年子、中谷恒久、増子こずえ、糸井あかね、岡田英孝、山本恵美、平野敬靖、西垣和彦、小木曽一之、山本 元
投てき班:植屋清見、池上康男、若山章信、中村和彦、桜井伸二、岡本 敦、池川哲史、西山恭史、角田忠政、多目良明利、幡野力也、庄司勝彦、花井宏尚、宮西智久。

跳躍班:深代千之、長沢光雄、飯干 明、淵本隆文、金高宏文、伊藤信之、湯 海鵬、新井健之、結城匡啓、斎藤 望、高松潤二、金野秀樹、佐藤正伸

トレーニング班:麻場一徳、谷口裕美子

光電管班:浅見美弥子、佐々木伴恵、徳本亜由美、菅沼芳子、佐々木直美、村田まり子、菅原亜希子、沼田香織

ビデオ班:深谷公男、スタッフ3名

日本陸連バイオメカニクス研究班は、その後、広島アジア大会、福岡のユニバシアード大会、毎年行なわれる日本選手権、スーパー陸上、インターハイなどの競技会において、選手の動作解析に活動し、その成果を広く還元している。
陸上競技に関する科学的な研究は、日本が世界で最も進んでおり、研究データの量と質は世界で一番高い水準となっている。これほどまでに陸上競技の研究を熱心に、粘り強く継続実施している国がほかにないためである。
こうした活動が評価されて、1998年には、「(財)日本陸上競技連盟科学委員会バイオメカニクス研究班」は、スポーツ医科学の分野で顕彰制度として設けられた秩父宮記念スポーツ医科学賞の第1回受賞の栄誉をいただいた。
この賞は、スポーツ医・科学についてよく研究し、その研究成果が十分にスポーツの現場に活かされ、我が国スポーツの普及発展及び競技力の向上に顕著な実績をあげた者又はグループに対して送られるものである。
授賞式には、高円宮殿下、妃殿下が臨席され、日本体育協会会長の安西 斉氏、日本陸連会長の青木半治氏をはじめ、日本陸連の役員、受賞者が列席のもとで授賞式が行なわれた。
2007年8月には、大阪で第11回世界陸上が開催された。日本での開催は1991年の第3回大会に続いて2度目の世界選手権大会である。

バイオメカニクス研究班の活動は、その後も長く継続されている。