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「十坪ジム経堂」設置の由来 経堂の物語

「十坪ジム経堂」設置の由来について

小田急線の経堂駅前に「十坪ジム経堂」が開設されたのは2010年1月である。東京都内に開設された「十坪ジム」の1号店にあたる。当初は、小林寛道スポーツ健身事務所が運営管理をおこなっていたが、運営が軌道に乗り出した2013年からは、QOY合同会社(代表 鈴木由香)が、その運営管理を行っている。いわば「暖簾分け」の第1号店でもある。
ここでは、第1号店が開設された「経堂」という場所について、私(小林寛道)や家族とのかかわり、地域にまつわる話などを交えながら、物語風に語ってみたいと思う。(人名は敬称略)

小田急線

小田急線は、新宿を始発駅として西に向かい、相模大野駅から先は、分岐して江の島(江の島線)と小田原・箱根湯本(小田原線・箱根登山鉄道)まで伸びている。また、新百合丘駅から分岐して唐木田(多摩線)まで、地下鉄千代田線の相互乗り入れが行われている。
沿線の途中には、多くの大学があり、駅名だけでも「成城学園前」「玉川学園前」「東海大学前」の3駅がある。ラッシュ時間帯では、上り電車も下り電車も混んでいることが特徴といえる。
「経堂」は、新宿駅から10番目の駅で、急行停車駅としては、「代々木上原」、「下北沢」に次いで3番目である。小田急線は、高架と複々線化が進んでおり、急行と各駅停車は、それぞれ異なる線路を走ることにより、輸送の効率化が進んでいる。
小田急線の新宿~小田原間(82.2㎞)が開通したのは、昭和2年(1927)である。
私(小林寛道)の祖父母が、経堂駅から徒歩6分ほどの場所(経堂3丁目)に居宅を構えたのが昭和3年であるから、小田急線が開通して間もない頃である。
付近には、田園風景が広がり、畑や雑木林も多くみられていた。この頃の住宅は、敷地面積が1区画150~200坪ほどあったので、どの家にも広い庭が備わっていた。
 私は、6歳から26歳までの20年間、祖父母の建てた家で家族とともに生活し、世田谷区立経堂小学校に入学し、世田谷区立緑が丘中学校、都立新宿高校、東京大学(駒場キャンパスおよび本郷キャンパス)に通ったのであるから、文字通り経堂は自分の出身地であるということができよう。

東京農大

 経堂駅からは、南に「農大通り」、北に「すずらん通り」・「恵泉通り」が伸びており、それぞれ東京農業大学、恵泉女学園につながっている。いずれも道幅が狭く、賑やかな商店街である。
東京農業大学は、国立ではなく、私立の農業大学である。その創始者は、榎本武揚である。
榎本は、幕末の幕臣でオランダに留学し、帰国後幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では最後まで新政府軍と戦い、五稜郭で降伏し、2年半投獄された。しかし、語学をはじめとする学識の高さや人物、才能を見込まれ、釈放された後は明治政府で外務大臣、逓信大臣、文部大臣などの要職を務め、ロシア皇帝や清国の李鴻章など外国要人たちからの信頼も厚く、真の国際人とされた人である。
東京農業大学は、榎本が創設した徳川育英会育英黌の農業科を源とし、のちに私立東京農学校となるが、経営悪化に陥り、1907年から学校経営を委託された横井時敬が大日本農会の経営としてその発展を図り、1911年から15年間東京農業大学初代学長を務めた。横井は、熊本藩士の父により、幼少の頃から「侍の道」を厳しく叩き込まれたという。駒場農学校(東京大学農学部の前身)を首席で卒業したのち、農学・農業経済学の研究をすすめ、東京帝国大学教授となり、近代農学の祖と言われている。
横井の格言は、東京農大精神となって、現在も受け継がれているものも多いという。
「質実剛健」「独立不覇」「実学主義」「物質主義に溺れることなく、心身ともに健全で、いかなる逆境にも挫けない気骨と主体性の持ち主たれ」
大学キャンパスは、1946年に、渋谷常盤松町から世田谷の現キャンパスに移転している。
東京農業大学は、両手に大根をもって応援する「大根踊り」が有名である。「青山ほとり」という応援歌を歌いながら学生服を着て大きな身振りでおどる様子は、箱根駅伝でもよく知られている。学園祭は、「収穫祭」として毎年秋に行われ、蜂みつや手作りの味噌などの即売会もあり地域の人に親しまれている。

招き猫

東京農業大学のすぐ近くには馬事公苑があり、1964年東京オリンピックでは、馬術競技が行われている。また、徒歩圏には、豪徳寺がある。豪徳寺は、世田谷が彦根藩の藩領となっていたことから、井伊家の江戸における菩提寺となっており、桜田門外の変で暗殺された井伊大老(直弼)の墓もある。井伊家は、2017年NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」で注目を浴びている。
豪徳寺の「招き猫」の伝説は有名で、江戸時代から招福を願う花柳界の人たちの参拝が多いという。門前では、「招き猫」が売られている。ちなみに、私の小学校時代の石膏彫刻の授業の自由課題で「招き猫」を製作したことがある。顔の表情が良く表現できず、「豚」のようだと評判はいまいちであったが、自分では気に入っており、しばらく我が家の床の間に隣接した「違い棚」に飾って大切にしていた。首輪と耳、口の部分には、赤鉛筆で色塗りがしてあった。

恵泉女学園

恵泉女学園は、1929年に河井道によって創設された学校である。
河井は、家族とともに伊勢から移住した先の札幌で、サラ・スミスのスミス女学校(後の北星学園)の生徒となり、キリスト教人格教育を受け、新渡戸稲造夫妻に伴われて渡米、フィラデルフィアのプリンマー女子大学(北米クエーカー主義)に入学している。
大学卒業後に帰国し、草創期のキリスト教女子青年会(YWCA)運動の指導者の一人となり、日本YWCA同盟総幹事にも就任している。1929年に自宅で9名の生徒から始めた学校は、翌1930年に世田谷の校舎(現在地)に移転して、河井の教育理念に賛同する人たちの支援があり、発展していった。戦後は、文部省の教育刷新委員会委員となり、「教育基本法」の制定にもかかわっている。現在、恵泉女学園中学・高等学校は世田谷(経堂駅下車)、恵泉女学園大学は、多摩市にある。
河井の教育方針は、聖書、国際、園芸を教育の柱とし、生徒の知性、感性、社会性を育てるということで、このことは現在でも受け継がれているという。恵泉女学園大学(多摩市)には人文学部と人間社会学部があるが、人間社会学部には国際社会学科と社会園芸学科があり、園芸文化コースではガーデニングやフラワーデザインなどの授業も行われている。

 私の母(久子)は、1917年生まれで、恵泉女学園に入学しているので、開設初期の生徒であった。河井先生に傾倒し、終生恵泉女学園で学んだことを誇りに思っているようであった。
今思い返してみると、我が家では、キリストの復活(よみがえり)を祝う4月のイースターやキリストの生誕を祝うクリスマスでは、子供や家族を喜ばす趣向が考えられ、クリスマスプレゼントも工夫されたものであった。サンタさんの到来も本当に楽しみであった。イースターでは、卵に絵の具で色を付けたり顔を描いたりすることが行われた。卵は、生命の源であることから、生命のよみがえりを象徴する意味がある。
河井道学園長は、1953年に75歳で生涯を終えている。
私は、このとき経堂小学校3年生であった。母親も葬儀に参列して、「立派な先生だった」と心から尊敬の気持ちを表していた。キリスト教では、「天に召される」と表現する。


このころ、雑誌「少女」の表紙を飾り、目のくりっとしたかわいらしい少女、松島トモ子が人気のアイドルであった。松島トモ子は、3歳から石井獏についてバレエを習い、5歳でデビュー(1950年)している。
その人気のバレリーナが、恵泉女学園の講堂で公演してくれるということで、私も母につれられて恵泉女学園に出かけた。学園内は、本当に綺麗で、いろいろな花が咲いていたように思う。松島トモ子は、当時小学生であったから、私とほぼ同じ年齢であった。白いバレエ衣装の美しさや、つま先立ちのトウシューズ、音楽に合わせて大きな目を動かしながら、科(しな)を作って踊る様子は、全く別世界の出来事のように思われた。
松島トモ子は、満州生まれで、終戦時の引揚者、父親はシベリアに抑留されて死亡した、という経歴もその時点で公表されており、美しいバレエを踊る少女の身の上にもいろいろなことがあるのだということを子どもながらに感じた舞台でもあった。

経堂小学校

 経堂小学校は、恵泉女学園の正門からおよそ300mほど離れたところに位置している。毎日の通学路では、経堂駅から恵泉女学園に向かう大勢の女子生徒の列が圧巻である。
私は、昭和25年(1950年)に経堂小学校に入学した。毎週月曜日には校庭で朝礼があり、「整列」「前へならえ」「気をつけ」「礼」「休め」の号令があり、遠藤五郎校長から全生徒に「講話」があった。勤労感謝の日には、「ご飯を食べる時には、田植えや、夏の暑い盛りの草取り、稲刈りの重労働によって、おいしいお米を作ってくれたお百姓さんに感謝の気持ちを忘れないように」といったことや、「空襲によって校舎の屋根に爆弾による大きな穴がいくつもあいた」「これからの新しい日本を背負って立つのは、みなさん方である。しっかり勉強をして、立派な国を作ってほしい。」
年端もいかない小学校1年生から6年生を集めて、こうした校長先生の話は、どこまで子どもたちに理解されたであろうか。しかし、「新しい国」「国を背負う」といった言葉は、その後、大人になるにつれて、その意味が徐々に理解され、不思議に心の底の部分で、何かの機会に少なからず影響力をもたらしてきていることが感じられる。
遠藤五郎校長は、千代田区番町小学校校長に転任したのち、全国連合小学校長会の会長(昭和42~44年)となり、中央教育審議会の委員も務めている。中央教育審議会は、国の教育方針を決める重要な審議会で、当時、第20回(1966年)答申「期待される人間像」が注目された。

昭和25年頃の社会

昭和25年(1950年)といえば、戦争の影響がまだ消えやらぬ頃であり、町では戦争で傷ついた傷痍軍人が、白衣を着て、義手に募金箱をぶら下げて募金をつのる風景があちこちに見られた。ハーモニカを吹いて募金を求める傷痍軍人の姿もあった。
人々の生活には、平和を希求する気持ちが強かったが、毎日の生活にも追われる日々であった。戦争の影響は、太平洋戦争ばかりでなく、明治維新に伴う戊辰戦争(新政府軍と幕府・会津藩との戦い)や明治10年(1877年)の西南戦争(新政府軍と薩軍との戦い)の影響も決して遠い歴史ではなかった。西南戦争は、日本国内で起こった最後の内戦である。日本ではこれ以後内戦は起こっていない。
 NHKのドキュメント番組で、「ファミリーヒストリー」という人気番組がある。およそ3代前までさかのぼって取材がなされているが、我が家の場合も、「経堂」にかかわる話題と関連して、3代ほど前からを記述してみたいと思う。

明治から昭和へ

父方の曽祖父・小林勘源太は、元・熊本藩の藩士で明治10年の西南戦争に西郷隆盛(薩軍)に味方して組織された熊本隊の佐々友房が率いる小隊に加わり、田原坂付近(七本)で戦死している(27歳)。このとき勘源太の一人息子であった小林勘(祖父)は3歳であった。勘は、菊池郡合志町上生で成長し、地元の合志小学校の初代校長を務めている。明治38年に上生(わぶ)を離れ上京している。
西南戦争で戦死した勘源太は、藩校・時習館時代からの友人である佐々友房と仲が良く、友房に誘われて佐々小隊に入ったようである。武道に優れた才能を持ち、生存していれば教育界で活躍したであろうと思われる人である。
佐々友房は、戦国武将佐々成政の子孫で、西南戦争で重傷を負い、収監されたが、明治12年(1879)に出獄し、濟々黌(現・熊本県立濟々黌高校)、濟々黌付属女学校を創設した。教育者、言論人であり、帝国議会の衆議院議員として活躍した。(初代内閣安全保障室長を務めた佐々淳行は、佐々友房の孫にあたる。)
小林勘は、上京後、原岡ハツと結婚し、代々木の山谷(現・渋谷区代々木1丁目)に長屋住まいをしていた。ハツは、大分県の中津女学校を卒業して上京していた。中津藩からは、福沢諭吉が出ている。ハツの中津女学校時代の親しい友人であった竹岡カツは、電力王(電力の鬼)と言われた松永安左エ門の妻となっていた。ハツとカツとは、生涯にわたって交流があった。
勘とハツは、代々木で男児3人、女児2人の5人を生み育てている。小田急線が新宿から経堂まで開通した翌年の昭和3年に、経堂(現・経堂3丁目)に新居を建て、移住している。
新居は、玄関が大きく、瓦屋根が緩やかなカーブを描く玄関屋根を備えていた。座敷は10畳敷で、本格的な書院づくりの床の間と違い棚を備えており、玄関間の3畳を合わせると13畳の広間となる。長い廊下があり、廊下の先が手洗いである。この座敷の他に、6畳間2つ、2畳間一つ、納戸、台所、勝手口玄関、手洗い、風呂場があり、2階は8畳の床の間付き和室であった。この家は、大工さんが材料を選んで建築したということで、特に座敷の天井は幅広で長い杉の一枚板を並べた造りになっており、この天井板が最も価値があると聞かされていた。床柱は槐(えんじゅ)その他の個所にもそれぞれの材料が使われていた。

母方の曽祖父は会津の神官の家系で、書家・長岡寛裕として、会津地方の石碑に「寛裕 書」と刻まれたものが多く残っている。祖父長岡寛英は、日露戦争に従軍し、頭部を銃弾がかすめ負傷しているが、除隊後、軍属の地図作成の測量隊として日本国内はもとより、台湾、樺太、朝鮮、満州と、常に出張の日々を暮らした。昭和3年(1928)に、経堂に新居を構えた。娘が3人おり、自宅にはテニスコートもあって、来客も多いようであった。小林と長岡の家は、同じ通りに面して、100mほど離れた距離にあった。

満州

 父・小林薫は、府立六中(現・都立新宿高校)を卒業後、「五族協和」「王道楽土」を唱える関東軍参謀・石原莞爾の人材要請にこたえた府立六中校長・阿部宗孝の推挙により、各地から推挙された7名とともに、昭和7年(1932)、19歳で満州に渡った。ラストエンペラーで有名な愛新覚羅溥儀を皇帝とする満州国軍に属し、騎兵隊中隊長となり、国内警備などを担当したが、終戦時には、日本人と中国人の幹部養成を行う軍官学校の教官となっていた。
昭和12年に、経堂から満州に移住していた長岡寛英一家と親しくなり、長岡家3女の久子と結婚し、奉天神社で結婚式を挙げている。
私(小林寛道)は、昭和18年(1943)6月に、新京(現・長春市)で、小林薫・久子の次男として誕生している。昭和20年(1945)8月に終戦となり、長岡操(祖母)と母・久子と3人の子供(姉・私・妹)は、引き上げ船で昭和21年(1946)に福岡港に入港、帰国している。
父・小林薫は、武装解除後、シベリア鉄道の貨車に乗せられ1か月間をかけて、ウラル山脈を越え、ソ連のマルシャンスクにある捕虜収容所に移送・抑留された。この長距離輸送では、多くの日本人捕虜が歩けなくなるほど体力が消耗したという。
収容所では、森林の伐採労働と共産主義思想の教育が主なものだったという。昭和23年(1948)に捕虜収容所から解放され、経堂の家に帰還した。
満州から引き揚げてきていた母子4人は、祖父母と会津若松で暮らしていたが、帰還した父が会津若松まで家族を迎えに来た。2歳の時に満州で別れ、5歳で再会した親子の情景は、ドラマのシーンのように鮮やかに脳裏の奥に記憶されている。

経堂

私は、昭和25年から6年間、経堂小学校に通ったが、いろいろなことがあった。
毎年夏の夕暮れには、校庭に大きな舞台と映画のスクリーンが組み立てられ、夜8時頃までは演芸やお話、あたりが暗くなってから映画が始まった。野外ステージの映画会である。近隣住民は、ゴザなどを敷いて、映画を楽しんだ。大勢の人が集まり、映画の夕べは大盛況であった。映画の内容は、主として母子物語や家族の愛をテーマにしたものであった。
 このような野外映画会がなぜ開催されたのかを、のちになって調べてみると、アメリカの統治下における社会教育の一環で行われたものであり、娯楽が少ない市民に娯楽を与えるとともに、民主主義を根付かせようとする政策の一つであった。

 経堂小学校で当時上映された映画は、原作 山本有三「路傍の石」(文部省推薦映画1号 1955年版 監督 原研吉、主演 坂東亀三郎、伊藤雄之助、山田五十鈴)、原作 中山正男「馬喰一代」(1951年 監督 木村恵吾、 主演 三船敏郎、京マチ子)、原作 長谷川伸「番場の忠太郎(「瞼の母」)」(1955年 中川信夫監督 若山富三郎主演)などではなかったかと思う。